「ノージュ」 「わかってるって。戻ったりしない」 鋭く呼ばれて、レアノージュは間髪入れずに返す。 これが法霊石を狙った普通の襲撃なのか、はたまた話題の<恋人狩り>なのか。 区別がつくまでは動けない。 いや、むしろ動かない方がいいだろう。 法霊石を狙ったものであっても、あちらには荷物を守りきるだけの十分な戦力がある。三人の術者に、巫子を務める、当代一の<精霊の恋人>。レアノージュの穴にリエンが組み込まれれば、問題はない。 そして、リエンは守られるだけの巫子であれとの教育は受けていないはず。 それよりも、<恋人狩り>であったときにレアノージュが襲撃者を引き連れる形で移動してしまったら最悪だ。 せっかく助けたリエンまで、再び巻き込んでしまう。 その一瞬の判断の間に、森からは人間の気配が消えている。 「ひとりあたり、三人だな」 「よくまあ、揃えたことで」 ノインもレアノージュも、それに彼らの同僚も、きちんと仕事をしている。――すなわち、息の根を止めるか、当面は動けないような傷を負わせるか。 いつもどおりの襲撃であれば、これだけ何度も仕掛けてきておいて、人材が尽きないのは不気味でもあった。 「どうする?私が動く?」 ちょっとの食事のつもりでも、レアノージュはさすがに丸腰ではない。背負っていた棒を構えた。春季の精霊に願えば、氷の刃が現れ、槍となる。 法霊石を使わない術の行使。 敵意がぶわり膨らんだのがわかった。 ……なるほど、<恋人狩り>である。 「確定」 呟くと同時、レアノージュとノインは反対に駆ける。包囲は一方。外見からして<精霊の恋人>ではないノインはノーマークだ。 レアノージュを一人きりにすることに躊躇いをもっていたらしき傭兵たちも次々とノインに倣う。これを追いかける者もいない。 (なんというか、……馬鹿?) 状況をちらりと確認しながら、レアノージュは相棒の背を見送る。 あまり近くにいてはノインの身が危ないからのいつものやり方なのだが、素振りでもノインを追いかける様子のない襲撃者の目的はわかりやすすぎた。 「念のため聞くけど、あんたたちが噂の<恋人狩り>とやら?」 返事はない。 ただ、襲ってきた連中の手からきらきらと光る石が落ちていく。確認するまでもない。法霊石。相手は全員、術者。 視界に収まる色彩に、彼は使われている法霊石が春季の精霊を従えるためのエメラルドだと認めた。 レアノージュは春季の<精霊の恋人>。 その彼の前でエメラルドを使う。 あまりに明白な行動にも彼は余裕だった。 最高級の法霊石を使って、レアノージュに従いたい精霊を絡めとるつもりなのだ。俗な言い方をすれば賄賂だが、<精霊の恋人>を無力にする最も手っ取り早くて堅実な方法。 レアノージュが焦って当然の場面。けれども、焦りを見せたのは逆だった。 彼が静かに槍を構えるのを見て、襲撃者たちはじりと後ずさる。 声にこそ出さない。 けれども、いっこうに溶ける気配すらみせない氷の刃の意味。 「そっちに優先権がいくわけないだろ」 それを地面に向け、大きく己の周りに円を描く。 くるりと始点と終点がつながる。 レアノージュはさらに想像をめぐらせた。 取り囲む襲撃者を取り巻いて、さらに円。 イメージは若い少女の笑い声とともに現実になる。 それでいいのね、ノージュ? くすくすと軽やかに。これから己の<恋人>が望むことを知っているだろうに、まるで意に介さない無邪気さ。 久しぶりに請われたことが嬉しくて仕方ないと存在すらも表して。 「な……っ」 初めて襲撃者たちから音が出る。驚愕は範疇を超えていて、それ以上は凍りついたようだった。 彼らの視線は、すでにレアノージュの上にはない。その背後、溶けそうな色彩で。確かにいる存在に釘付けだった。 「……リエンがいる。あまり姿を現さないでほしいな」 嫌よ。久しぶりなんだもの。あなたが本当のあなたじゃなくても。 反論しようとして、彼はやめた。 彼女はとても気まぐれだ。召還にすぐに応じてくれるが、拗ねてしまうとそのまま帰ってしまいかねない。 こいつらを一人残らず始末しようと思ってのお願いで、仕事を放棄されては困るのだ。 今日は大丈夫よ?あいつにだけ良い顔をさせるのは癪だもの。 珍しく言葉をくれるが、どうにもよくわからない。 結局、肩をすくめるだけにとどめて、レアノージュは願う。 様々な感情で一歩たりとも動くことのできない術者たちをしっかりと目に収めて。 「せめて一瞬で。ついでにできれば、こっそりと。……春の王」 内外の円の狭間。 レアノージュと精霊を中心点とした鋭い噴水が地を割った。 一回だけのその色彩は紅。 立っていた者がすべて臥したのを気配で察し、息を抜いたレアノージュの耳元で少女の声が置き土産される。 今度はきちんと、レアノージュのときに喚んでね、愛しい人。 「……それはまた難しい注文で」 ぺこりと頭を下げた彼が振り返ったときには、すでにそこには何の姿もなかった。 代わりに、遠く。 派手な火柱が一本上がった。 「あれか……精霊王が言ってたのは」 実際に対峙したことはないけれど、肌でわかる。 あれは夏季の精霊王のちからだろう。呼び出したのは、リエン以外にありえない。 春季が対抗心を燃やすわけだ。 ここまで納得して、レアノージュはあわてて走り出した。 あっちにはノインがいるはず。 そして、ノインは。 精霊の加護をほとんど持たないのだ。 ノインは反射で後ろへ飛んだ。 凄まじい勢いで近づいてくる殺気があり、それをかわす本能だった。 だが、その動作を意思でできたのは馬車へ駆けていた先頭集団のうち、彼一人。残りはまるで自ら死地に飛び込んだように、血飛沫を上げながら後ろへと弾き飛ばされる。 精霊を使った術ではない。 精霊の気配には人一倍さといノインにはわかる。 これをやったのは精霊の不可視のちからではなく、人間の手。それも、複数の人間を軽く弾き飛ばすだけの速さとちから――人間を超えたそれらを持った存在のもの。 そんなものは大陸にひとつしかない。 (……久しぶりの同族か) 緊張と同時、ノインの喉が鳴る。 濃く鉄の臭いが立ち上っている。うめき声が続いている。同族相手の戦闘中となればいちいち屈んで確認してやる余裕はないものの、ざっと見える限りでは軽い怪我ではないが、致命傷でもないようだ。 本当に足止めのつもりなのだろう。 そして相手の狙い通り、後続の連中はぴたりと足を止めている。 わけのわからないうちに仲間がばたばたと倒れたのを見て、そのくせ敵の姿が見えないことに全身で警戒をしている。みな、そう簡単な隙はない。 視線をさらに遠くにやれば、暗闇だ。見晴らしのいい草原といっても、灯りのない夜ではそれしかわからない。 その先にはレアノージュがいる。あのクラスの<精霊の恋人>への突撃は、ある意味自殺行為に等しいと相手は察するはずだ。 となると。 瞬時に判断し、ノインは引き返す。 あっという間、それこそ襲撃者に負けぬ速さで立ち尽くしている仲間を抜き。 物陰からあっという間に現れた襲撃者が仲間に下ろしたのと同じ速度で。 最後尾の仲間と襲撃者の間に割り込んで、その剣を受け止めた。 がきりという金属にしては重い音が夜に響いて初めて、周囲は一瞬の攻防に気がつく。 「どけ!」 罵声はノインのものだ。自由な足でかばった男を蹴り飛ばす。邪魔にならないようにとの配慮、男は邪魔など到底できない場所まで転がっていった。 あまりに人間離れした脚力に周囲はぎょっとしている。さて、後でどんな言い訳を用意すれば良いか。 意識する前に死へ旅立てる速さの太刀を受け止めながら、彼は思考を挟んでいる。 夜の闇を挟んで見えた相手は、自分と同じ色彩を持っている。 黒と黒。 春夏秋冬のすべてを塗りつぶす闇。精霊に見放された証明。 相手もノインの正体に気がついたようだった。そもそも、これだけのスピードで振り下ろされた刃を難なく防いだ時点で、人間ではないことを示してしまっているのと同じだ。 一度がっちりと結ばれた武器がほどけた。 ノインが押し戻したのではない。相手が自ら引いたのだ。 注意深く距離を取られ。 互いに互いの全身を視界におさめる。 知らない顔だった。 たしかに多くはない同族だ。けれども、いくら最年長のノインであっても全員を把握しているわけではない。第一、ノインは他の仲間たちから見れば規格外にもほどがある存在だ。 「まさか、同族がいるなんて……」 「調査不足だな」 呟いた相手は若い男だった。苦い表情でノインを睨んでいた。戦闘の構えは解いていなかった。 「祀殿の手先だなんて、どういうつもりだ?」 「祀殿の手先とは人聞きの悪い」 対するノインはだらりと剣先を下げた。この若い男がノインと同じならば、ノインにできることはせいぜいが足止めだ。殺すことは絶対に不可能。厳然たる事実。 「今までの襲撃では見なかったな」 「出ていなかっただけだ」 「なるほど。こちらの戦力を確認してから、天敵の<精霊の恋人>を引き離して、ゆっくりと他を料理する……というところか」 「当たり前のやり方だろ?第一あんた、よくまあ<精霊の恋人>と一緒にいられるな。……油断させてから殺すために一緒にいるんなら、手伝うけど?」 親切めかした男の申し出は、ノインにしてみれば余計なお世話だ。そして、会話の端々から理解する。どうやら、この男は見かけ通りに若い。 少しでも永く生きていれば、<精霊の恋人>と行動を共にする同族が誰であるのか、ぴんとくるはずだ。 「それは遠慮願おう。それに」 背後。馬車のある方向から、身に覚えのある嫌な感じが背中を下っていく。 レアノージュを寵愛している季の精霊たちではない。 もっと物騒で、破壊力を持った夏季の精霊。そのトップクラスが現れようとしている。 彼がすべてを捧げた<精霊の恋人>が好んで使った、炎の王。 「残念なことに、<精霊の恋人>は一人じゃない。情報不足だったな」 「!」 まさかという表情を、爆発的な炎の赤が照らし出した。 襲撃の目的である法霊石を積んだ馬車から炎が吹き出していた。燃えているのではない。あくまでも馬車は馬車でそのままで、ただ生き物のように炎が扉から四方八方に伸びていた。 「夏季の……!」 驚きで生まれた隙を見逃すようなノインではない。 すかさずに踏み込む。とはいえ、相手が相手だ。簡単に倒れてくれるようなことはなく、最初と同じく剣が絡む。 もっとも、ノインは承知している。こんな簡単で単純な物理的な攻撃で死ぬ事が出来るのならば、自分たちは人間から恐れられたり祀殿から疎まれたりもしないのだ。 だから言葉はただひとつ。 「退け」 この争いは不毛だ。法霊石の襲撃に失敗した以上、相手方にもここで深追いする利益はない。情けをかける台詞にも聞こえるが、やすやすとは死ねない身体を持つ同族にはそうは取られない。 明らかに迷う色で黒い瞳が揺れた。 それをだめ押しするタイミングでノインの視界に動く点が飛び込んで来る。 レアノージュ。今のノインが守護する相手。 「足止めは失敗したようだぞ?」 親切に囁けば、男はぎょっと背後を振り返った。あまりにも無防備な仕草だったが、ノインはあえて見逃した。どうせ斬りかかったところで殺せない相手である。無駄な労力は使いたくなかった。 「ノイン!」 叫びが耳に届いた。 レアノージュの声に、凍結状態に陥っていたノインの周囲が解凍される。じりりと二人を包囲しようとの動き。それを無視してノインは命じる。 「法霊石が優先だ!あちらも襲撃されている、守れ!」 優先順位を示されれば、彼らは早い。未練を残しながらも味方は馬車へと駆け去っていく。誰もこちらを見てはいない。それを確認して、ノインは武器を引いた。 「さて、ここでぐずぐずしていては俺の<精霊の恋人>が来るぞ?」 さっさと逃げろとの催促に、男は疑わしげに彼を眺めた。 「どうして逃がす」 「こんなことじゃ生を全う出来ないだろう?どうせ殺しても死なないのなら、労力の無駄だ」 ごく当たり前とばかりのノインの理由は、男に武器をおさめさせた。たしかに一理あった。 死なないとはいえ、死ぬときに体験すると思われる苦痛は感じてしまうので、それを味わいたくなかったというのもある。 近づいてくる<精霊の恋人>をちらりと確認し、男は逃げる態勢に入る。 精霊に愛されているとはいえ、根本は人間に過ぎない<恋人>が追いつくことはできない。 まだ逃げ切れる。そんな距離。 「……ひとつ聞きたい」 「なんだ?」 「ノインっていうのは……もしかして、あのノインか?」 「今も昔も、吸血鬼でノインは俺一人だな」 「……なるほど」 どうりで。そんな調子のため息を落とした若者にノインは逆に尋ねる。 「お前の名前は?」 「知ってどうする」 「最長老としては、最近の若者を知っておきたい」 どこまで本気かわからない発言に、若者は笑う。快活な声だった。 ノインの脇をすり抜け、スピードを上げる寸前に返事が残る。 「ルーピング」 取り残されたノインにレアノージュが駆け寄った。 「怪我は?」 「大丈夫だ」 レアノージュの予想よりも、ノインは炎から離れた場所にいた。おかげでほとんど影響を受けていない。 上から下まで相棒を眺め、言葉通りであると理解して。初めてレアノージュは安堵の息をもらした。 「良かった」 他の人間が軽く火傷を負う程度であっても、ノインではそうはいかない。経験上、こういう場合で死ぬことはないとわかっていても、はらはらする気持ちは抑えられるものではなかった。 「あの男、逃がしたんだね」 非難する声音にノインは何も返さない。説明する必要を感じなかった。 彼から答えを得られないとレアノージュも態度から察した。 結局、責めるでも詰るでもなく、炎の発生源に視線を投げる。 どうやら事態は収束に向かっている。 ただ、こう離れていては何が起こっていたのかさっぱりわからない。護衛の者、術者たち、どうなったのか気になった。 「私は様子を見て来ようかな」 ノインはどうする? 「まだ、夏季の精霊の影響が強く残っていそうだ。多少の耐性はあるとはいえ、遠慮しておく」 「そう」 「聞かれたら、俺はここの後片付けをしていることにしてくれ。あと、怪我人がいるから手当の者を寄越せとな」 彼に言われて、初めてレアノージュはノインで止まっていた目を遠くへ凝らした。たしかに少し離れたところに怪我人がいる。 あっちに駆けつけても、できることはそれほどないだろう。 「じゃあ、こっちで応急処置してるかな」 春季の精霊が象徴するのは水と植物。怪我を治す事はできないが、流れ出る血液や体液を止めることくらいなら可能だ。 裏ではそうなのだろうけれど、表だけではまるで『ノインが行かないから行かない』ともとれる発言。 あとでどうからかわれても知らないぞと思ったが、この場で聞く者は誰もいない。 それに、考えるまでもなくレアノージュの提案が最善の道だった。 全体の状況の把握は大切だが、それは今、彼らに求められている役割ではない。 彼らはやらなければいけないことに向かって歩き出した。 |