「おじいさんっ」 教えられた店はすぐに見つかった。 遠慮もなく入り口に布を跳ね上げて、リエンは突入する。 ちょっとしなびたゆで卵のような老人が、突如飛び込んできた少女を見て目を見張る。だが、それも一瞬のこと。彼女の目を見て、老人は少女が<精霊の恋人>であることをすぐに理解したようだ。 <精霊の恋人>は、まるで目印のように好意を持たれた精霊を象徴する色彩をからだのどこかに持つ。たいていは髪か瞳。 リエンのそれはぱっと見ではわかりづらいが、瞳だ。夏を表す赤と秋を表す青。二つの精霊に同時に愛されるというめずらしい体質を持ったために、それぞれが混じり合って逆に鮮やかさを消してしまっているのだ。 ぼろぼろの少女の姿にも老人はゆったりとした態度を崩さなかった。 「ほほう。<精霊の恋人>が何用じゃね?ここにはお嬢さんほどちからの強い子に売るようなものはありゃあせん」 「これっ!」 老人が最後の一息をつくまで律儀に待って、リエンは腕をずいっと差し出した。精霊封じのブレスレットが揺れる。 「外してください!」 勢いに引き込まれるように老人がくいっと首を伸ばす。顔を近づけ、しげしげとリエンの腕に巻き付いた軽やかな戒めを凝視した。 「ふうむ」 「外せるんですよね?!」 うなり声にリエンは畳み掛ける。失礼な言い方だが、もしこの老人の腕が悪くて封印が解けないとなれば、助けてくれた<精霊の恋人>の青年には悪いが、見切りをつけてさっさと次へ行かなければいけないのだ。 じっと銀の鎖から視線を外さずに、老人は続ける。 「お嬢さん。これはいつ誰につけられたね?」 「知りません。気絶してるあいだに着けられちゃったんだもん」 「気絶とはまた物騒な」 「だって私、誘拐されてしまったんですもの」 少女は大まじめだった。 もし、この老人相手でなければ、この少女の態度を一笑に付したところだろう。リエンは知る由もなかったが、長年、精霊術学の術者や<精霊の恋人>を相手に商売してきた彼には、封じの強力さがひしひしと伝わってきたのだ。それをしなければ抑えられなかったリエンの実力も。 「誘拐されたってどこからだね?お前さんは夏季祀殿か、秋季祀殿か」 <精霊の恋人>は必ず、大陸に五つある祀殿――精霊王を祀る、大陸の守護者であり統治者――に属さなければならない。各地方にある春夏秋冬の祀殿の立場は平等。そこで預かりきれないほどの資質を持ってしまった者は。 「中央四季祀殿よ」 大陸の中心にある総本山。術者にしろ<恋人>にしろ、最高レベルの代名詞である。 おそれることなく、当然とばかりに言ってのけたリエンは続ける。 「私は誘拐されたの。できる限り早く、中央に戻らなければならないんです。だから、これを外しなさい」 最後の一言は、明らかに命じることに慣れたものに間違いなかった。 市場のそこだけに緊迫した空気が漂っていた。 先ほどまで足下で騒いでいたニワトリも、何やら神妙な面持ちで地面をつついている。 対峙するひとりは金持ちの付き人風。上等でしっかりとした衣装。腰には剣。年齢は三十代半ばくらいで、信用できそうな端然とした雰囲気がある。ただ、よくよく見れば、それにほころびがあることも感じられる。 もうひとりは、若い旅人。服は丈夫そうだが、特別ではない。武器も持っていない丸腰だ。いや、訂正。なぜか彼は片手に大きな野菜籠をぶら下げている。 「お嬢様をどこへやった」 「……私を倒してから考えれば?……って」 男に答えながら、レアノージュは冷静に考える。この台詞って、思い切り悪役は自分だよなあ。 彼の認識としては、間違いなく悪役は相手のほうだ。 幼い少女ということを差し引いても、<精霊の恋人>の能力を封じるなんていうのは、一市民に許されたことではない。必ず祀殿の許可がいるし、祀殿の人間が同行していなければおかしい。 「万が一のために確認するけど、あんたが祀殿の人間ってことはないよね?」 「どうしてそこで祀殿が出て来る」 「あの年齢の<精霊の恋人>が、家にいるわけ、特例でもありえないから。必ず祀殿預かりで教育を受けているはずだし」 <精霊の恋人>にとっては常識事項だ。幼い子供が感情のままに振る舞えば、それだけで精霊は引きずられて暴走しかねない。したがって、祀殿は生まれた赤子を全員チェックし、<恋人>であれば親が何と言おうと引き取って教育するのだ。 それを言外に知らないとの答えに、レアノージュは肩をすくめた。これで遠慮はいらない。 おもむろに籠を両手で持つ。 空のそれは軽い。 いつまでも動こうとしないレアノージュに焦れたのか、あるいは彼に嘘を見破られたことを悟っての口封じか。男がバネのように飛び出してきた。 武器もなく、体格にも恵まれていないレアノージュを見くびってか、腰の剣を抜いてさえいない。拳がぐっと握りしめられているのだけがわかった。 (あまいなあ) たしかに見かけは頼りないけれど、それだけで力量を判断できないような輩に負けるような程度ではない。 (それとなく、私も<精霊の恋人>だって教えたんだけどなあ) ぶつかる寸前にひょいと拳を避けながら、彼は話しかける。 「籠に氷ちょうだい。とりあえず、半分くらい」 耳元で、精霊がささやく。姿は見えない。春季。司るのは水。 それだけでいいの?かわいいひと。 「いいんだよ、それだけで」 ならいいんだけど。 ちょっとがっかりしたため息と同時、レアノージュの籠がずんと重くなった。 視線を向けなくても、精霊が願いを叶えてくれたのは確信。 再び殴り掛かって来る男の動きは大振りで、軌跡を読みやすい。次の攻撃も。 それに安心して、レアノージュは籠を振り回した。遠心力がぐっとかかる。逆にからだを持っていかれないように注意しながら、相手と野次馬と屋台の位置を頭に叩き込む。 この仕事を始めたとき、相棒に一番に教えられたのは「なるべく周囲に被害を与えないこと」。 それを忠実に守るタイミングで手を離す。 籠が飛んだ。 そして、命中した。 男の胴体に。 加速度のついた凶器の激突に、男のからだがくの字に曲がった。それでもあきらめが悪いようで、顔を盛大にしかめながらも立ち上がろうとして失敗する。 よし、この間にさっさと離れよう。 どこから出現したのかわからない巨大な氷に周囲が狐につままれたような雰囲気のうちに。 「もうひとつお願いできる?」 なにかしら。 「あれの足元、つるつるで」 お安い御用よ、ノージュ。 返事と同時、今度こそ立ち上がりかけた男が後ろへとひっくり返る。 局地的にできた真冬の湖(溶けかけ)に満足して、レアノージュはさっと踵を返した。 背中を声が追って来る。 「貴様、<精霊の恋人>だったなら、最初から……!」 どうやら男はようやくこの時点で、自分が何を相手にしていたのか理解したらしい。 (最初に言ったつもりだったんだけど) あの少女と『同業者』だと。 もちろん、そんなことで足を止めるわけもなく。 彼は最初の目的地に急いだ。 テントの入り口の垂れ幕をあげるのを、レアノージュはためらった。 急いでいるのだから。それも余計なごたごたに巻き込まれた分、時間を食ってしまったのだから。 さっさと目的の品物を手に入れて、帰らなければいけない。 相棒に怒られる。 そこまでわかっているレアノージュの手を止めるのは、店から感じられる精霊の集いだ。 もともと上等な法霊石を扱っている店だ。普通よりも精霊たちが集まりやすいのは知っている。 しかし、これは普通じゃなかった。 特に尋常ではないのは、夏季と秋季の精霊。存在感を肌で感じる。基本的に精霊は目に見えないが、これだけびしびしと圧迫感と囁きを受ければ、いやでもわかってしまう。 しかも、自分を好いてくれている春季の精霊がなんだか対抗意識を燃やしているようで、どんどん集まってきているような気がする。――気のせいと信じたいが、そうではない。 このまま入り口で突っ立っていても埒はあかない。 先ほど転がしてきた男が追いついてくる可能性も非常に高い。 嫌な予感と覚悟とともに、テントへ入る。 果たして、元凶はいた。 「先ほどはありがとうございました」 丁寧にお辞儀する少女だった。封じを解いてもらえたのは間違いない。そうでなければ、これだけの精霊たちが集まっている説明がつかない。 少女の瞳は混じり合った赤と青。それこそ、夏季の精霊と秋季の精霊、それぞれの<恋人>であることを示す証拠だ。 複数の精霊から寵愛を受けるのは非常にめずらしい。 ……厄介な予感がする。 「ノージュ、どうしたね?」 入り口付近でぴしり固まっている彼に、しわがれた声がかかった。店の主だ。 「いや、封じが解けたんならなんで帰らないのかなーと」 「助けてもらった人にお礼もしないで帰るなんて、そんなことできません」 常識的にはそうだ。が、それ以上にこう、落ち着かない気分になるのはどうしてだろう。 そわそわと視線をさまよわせるレアノージュに、老人はクッションを勧めた。この店に椅子はない。 言われるままに腰を下ろすと、少女がにこりと笑った。 「すごい。春季の精霊。強いのね」 「……君の夏季の精霊と秋季の精霊にライバル意識があるみたいで、こんな状態になっただけだよ」 「それでも、それだけの数の精霊を集めておけるのはすごいことです。あの……あなたはもしかして中央四季の所属ではないかしら?」 おずおずとした最後の調子に少し遅れ、レアノージュは首を振った。 「私は春季祀殿の所属だよ」 「でも、ここのおじいさんにさっき聞いたんだけれども、自由契約でいろいろと仕事をしているとか」 「……まあ、褒められたことじゃないかもしれないけど」 <精霊の恋人>は祀殿に所属し、祀殿のために働くのが普通だ。そういう現実からすれば、彼のように祀殿に何の関わりもない人間とコンビを組んで市井で仕事をするのは邪道だ。 それにはレアノージュなりのしっかりとした理由があるのだが、それは話すわけにはいかない。 もっとも、少女の方もそれには興味がなかったらしい。 「今、あなたは仕事中?」 「そう。中央四季まで行く途中で……」 「なんて素敵」 うっとりと少女が呟いた。その様子に、嫌な予感が高まる。 「そこに私をこっそりと混ぜてくれないかしら?」 「無理」 「そんな簡単に答えないでください。ほら、こんな子供、ひとりくらい追加しても場所はとらないし」 「危険だし」 「<精霊の恋人>だもの。自分のことはなんとかできます」 「それに今回は、他に大勢いるし、雇い主の許可は得られないし」 「大勢は説得すればいいし、雇い主には後で報告すればいいでしょう?」 強気な少女の論理に、改めてレアノージュは少女を眺めた。 彼の記憶が正しければ、普通に祀殿で教育を受けている<精霊の恋人>が身につけているものよりも、明らかに上等な服だった。 「ええと、今更なんだけど、聞いてもいいかな?」 「なあに?」 「君の名前と、所属はどこ?」 |