履いていたのは、爪先の細い華奢で上等な靴。 かわいらしくて気に入っていたけれど、今は無骨な革靴が恋しかった。 その下には繊細なレースの靴下。 絹の手触りはもちろん心地よいけれど、今は丈夫な綿の靴下が欲しかった。 小柄なからだを生かしてリエンは目抜き通りを駆けていた。都合のいいことに、多くの屋台が出ている。それらのあいだを縫うように走れば、少しは追っ手を撒けるだろう。……少しは。 リエンは目立つ。 髪は腰に届くほどに長いがくすんだ金髪だし、瞳だって鮮やかな色ではない。はっきり言って地味だ。 けれども、着ているものがよろしくない。靴や靴下だけではなく、白く軽やかなワンピースは上等の絹。高価な装飾品はなくなってしまっているようだが、髪にも爪にも手にも荒れたところはない。それだけで育ちが知れる。 さらに追っ手の風貌だって悪くなかったのが問題だ。 (これじゃ、我が儘なおてんば娘が逃げ出したみたいじゃない) 事実はそれとは全く異なるのだが、この際、重要なのは周囲にどう見えるかだ。彼女が思っているように周りも思っているのなら、遅かれ早かれ追っ手の男はリエンの場所を聞き出してしまうだろう。 リエンがもっと大人だったら……せめて現在の倍の年齢であれば、周りはかくまってくれただろう。自分がたった七歳の子供であるという事実がくやしくて仕方ない。 それ以上にくやしいのは、本当なら追っ手の一人やふたり、自力でなんとかできるのにということ。 いつのまにか手首に巻かれていた銀のブレスレット。走るたびに軽やかなしゃらしゃらと音を立てる、何よりも重い鎖。 これさえ外れれば。 自分に勝てない者なんていないはずなのだ。 追われている今だって、周囲にはたくさんの力がーー精霊がいる。 <精霊の恋人>と呼ばれる才能を持つリエンを精霊が助けようとしないのは、ブレスレットの作用で彼女の存在を精霊が認識できなくなっているせいだ。そうでなければ、こんなに必死になって二本の足で逃げる現実はない。 空を飛ぶことだって、相手に大火傷をさせることだって簡単なのだ。 しかし、これは自分では外せない。 とりあえず、この場を逃げ切って。外せる人間を捜すしかない。 スピードを殺さないように彼女は角を曲がる。ちらりと後ろを振り返る。大丈夫。あの男の姿は見えない。 曲がった先は食材をメインに扱う通りのようだ。大きな籠にジャガイモや人参、カボチャなどがごろごろと並んでいる。あるいは、肉の薫製が店の軒先から吊られ、瓶詰めが所狭しといった風だ。 どこか隠れられるところ。 このままいつまでも走っていて、大人の足から逃げ切れるとは思えない。 せわしなく視線を左右させ、リエンは走った。 あれしかない。 そう思ったのだ。 風が冷たい。 といっても、身を切るような代物ではない。トラッドは秋季地方にある。多少の変化はあるが、常に季節は『秋』に近い。 ただ、公の暦ではそろそろ本格的な冬になる。大陸の中で唯一まともに季節がめぐる中央四季に近いだけ影響を受けて、気温も低くなる。 (中央四季はもっと寒いんだよなあ) 薄い外套に身を縮こまらせながら、レアノージュは目的地を思ってため息をついた。冬用のあたたかいコートを買うべきかもしれない。経費から落ちるだろうか。 うるさい相棒の顔を彼は思い浮かべた。 今、レアノージュの財布はけっこうな額の金貨がつまっている。それは彼が裕福とかそういうわけではなく、仕事に必要な品を買いにいく途中だからだ。そして、それだってぎりぎりのラインだ。 「きれいなお兄ちゃん、ほらお買い得だよ!」 「旅人さん、必需品の万能薬。今なら三つおまけするけど」 「その長い髪、邪魔じゃない?ほら、髪飾りは?!」 「いや、いらないからっ!」 左右からの威勢のいい客引きに負けないようにレアノージュは怒鳴り返す。トラッドは秋季地方でも五本の指にはいる大きな街、その目抜き通りと言うだけあって活気は半端ではない。 その中を彼はすいすいと進む。 彼の仕事は便利屋に近い。特定の雇い主を持たずに様々な依頼をこなしている。このくらいの邪魔をどうにかかわせなくてどうするという心意気だ。そうでなくても、今日の昼には出発しなければならないのだ。めずらしく大人数と組んでの仕事なので、遅刻なんてできない。 だが、このぶんなら大丈夫。 目指す店まであと数十歩。店主とは知り合いだ。気難しいので有名だが、レアノージュには気安い。商品さえあれば、交渉は長引かないだろう。 (時間は充分) 思わず頬が緩んだ。 うまくいけば、この地方の特産品を買っておけるかもしれない。目的地は宝石を扱っているが、往復、食材の屋台街を抜けるのだ。行きのあいだに目星をつけて、帰りに余裕に応じていいモノを買おう。 できれば瓶詰めか肉の薫製か。とにかく日保ちがするものがいい。 そんなレアノージュの足にもふっと何かがぶつかった。 上ばかり見ていたのだ。何か、売り物に激突してしまったのだろうか。 失敗したなあ、買い取り弁償はやだなあと思い、そのまま彼は視線を下げた。 ――足下から声。 「こけっ、けっけっ」 「……ニワトリ。つーか、なぜ。いや、やめろ」 まるでぶつかった腹いせとばかりにレアノージュのブーツを敵のごとくにつつきだすニワトリ数羽。おかげで歩けない。 「ちょっと、おばちゃん!」 「はいよ!」 斜め後ろ、卵を売っている年配の女性にむかってレアノージュは声を張り上げる。 「お客さん、いくつ入り用だい?」 「じゃなくて!こいつら、おばちゃんのでしょ?!籠に入れとけってば!」 生みたて卵を売るために商売道具を市場まで持ち込んだのだろうが、放し飼いとは言語道断。おばちゃんから少し離れた場所でひっそりと伏せられている籠と進行妨害するニワトリたちを指差しながら、レアノージュは訴える。 そんな彼におばちゃんは目を見張る。 「おやおや。いつのまに逃げ出したんだろうね。しかもひい、ふう、みい……全部だよ」 「気がついてよ」 「いやいや。だって籠がひっくり返る気配だってなかったし……」 普通、あのサイズの籠からニワトリが何羽も逃げ出すのであれば、籠は確実にひっくり返るだろう。 「……おばちゃん」 「……籠はあんなに離れたところに置いてなかったねえ」 女性は腕をまくった。 レアノージュも歩く彼女の後をついていく。 「普通、籠の上に重しくらいのっけるよねえ?」 「あたしはしっかりとのっけたんだよ。これを、ね」 籠の傍の地面に、確かに重りにするのに手頃そうな石が転がっている。 籠は微動だにしない。 しげしげと眺めていたレアノージュの目の端に白いレースが映った。明らかに籠の中からはみ出している、それ。 「おばちゃ……」 「きゃあっ」 彼が指摘するよりも早く、女性が籠をばさっと持ち上げた。と、同時。幼い悲鳴が小さく上がる。 地面で膝を抱えていたのは、身なりの良い、けれども薄汚れた感じの否めない少女だった。歳の頃は、どう見ても十には届かないだろう。 顔を上げた少女の目に、レアノージュははっとする。 (この子) そんな彼の驚きにはまったく気がついた様子はなく、女性はははあと腰に手をやった。 「お嬢ちゃんだね?市場の中を逃げ回って、お付きの人を困らせてるって言うのは」 「違いますっ」 「と言われても、市場のなかではその話題で持ち切りだしねえ。ここは商売の場であって、子供の遊び場じゃあないんだよ。ほらほら、保護者が見えたよ」 雑踏の向こう、頭ひとつ分飛び出た男がずんずん近づいて来る。あれが『保護者』だろう。 「だから、違うんだってば!」 だだをこねるように勢いよく立ち上がった少女の手首でブレスレットがきらりと光る。一見するとただの装飾品。だが。 「……精霊封じ」 言葉がこぼれると同時、レアノージュは少女の腕を引っ張った。反射だった。 「走れる?」 「!」 明らかに協力的な彼の様子に少女の顔がぱっと輝く。 初めて少女の目と彼の目が合った。 「その緑の瞳……春季の<精霊の恋人>?!」 「ご名答。まさかただの良家のお嬢さんが精霊を封じられて、ぼろぼろになっているはずないからね。というわけで、協力します」 軽く流すと、彼は少女の背を後ろへかばうように押した。 「この突き当たりに灰色のテントがある。入り口には四色の垂れ幕。法霊石を扱ってる。そこのじーさんなら、封じを解けるはずだ」 「わかりました、ありがとう!」 短く礼を告げると、少女は振り返ることなく走り去る。レアノージュはひょろひょろで武術とは縁遠い体格だ。普通は幼いながらも心配しそうなものだが、彼女にはそんな様子は微塵もない。同じ<精霊の恋人>である以上、余計な心配は無用であると理解しているらしい。 「聞き分けがよくて、大変よろしい」 誰にともなく呟くと、レアノージュは籠を拾った。 「おばちゃん。ちょっと借りる」 「あんた……」 まるで同情でお尋ね者を逃がした警邏を見るような目にレアノージュは肩をすくめる。 「うーん。気分はすっかり、場の読めてないお兄さんって感じ?」 「それ以外の何がある」 大股に近づいてきた男が低く呻いた。少女を追っているのだろうが、なるほど、こちらも良家に仕える使用人という雰囲気だ。事前に市場の商人に情報を流していたというやり方といい、どうやら計画的だ。 「無理矢理、誘拐されそうになってる同業者を救おうっていうボランティアのつもりなんだけどな?」 世界には精霊がいる。 これはもう厳然たる事実だ。 もっとも、精霊は肉体を持たない。触れられない。同じ世界に住んでいながらも、彼らは少し『ずれた』場所にいるといわれている。もともとこの世界は精霊のもので、人間が迷い込み、暮らすことを許されたのであるとも。 その証拠に、人間がいなくても世界は成り立つが、精霊がいなければ世界は成り立たない。 精霊は人間に干渉してこない。 だが、人間は考えた。 世界に欠かすことのできないことのできない大きな影響力を持つ精霊を便利に使うことはできないか。 その結果生み出されたのが、精霊術学。精霊に報酬ーーなぜか精霊は特定の宝石を好んだーーを与える代わりに、それに見合った働きをしてもらうというのが基本原理。宝石、これは一般に法霊石といわれる、にもランクがあり、高級なものほど多くの、ちからある精霊を従えることができる。また、使用者が集中力を高めるために呪文などが開発され、今ではひとつの学問大系になっている。専門の学校もある。 一般の人間はそうして精霊の助けを得ており、精霊術者として専門に仕事を請け負う者もいる。 しかし、術者とは別に精霊のちからを使える者がいる。 原因などわからない。 ただ、生まれながらに精霊に愛され。その力量にやはり差はあるものの、報酬も呪文もなく。精霊たちがこぞってちからを貸し、願いを叶えたがる存在。 そんな規格外れな存在を、羨望と嫉妬と畏れをこめて人は呼ぶ。 <精霊の恋人>と。 |