空のカップを置きながら、子供は不機嫌に首を傾げた。 「今、何と言った?」 窓の外は嵐。時折、蝋燭の灯りだけではまだ薄暗い室内を稲光が照らす。浮かび上がる影はふたつ。小さいものと大きいもの。大きいものは、女のかたちをしていた。 問う子供の視線は強かった。子供とは思えないほどに。かしずかれて育った傲慢さのせいかもしれなかった。けれども、ずっとこの子供の世話をしてきた女は、子供が悩み、疲れ果てていることも知っていた。 だから、子供に負けずに告げる。 「お逃げくださいませ。手はずはすでに整えております」 「なぜ、逃げなければならない?私は剣の儀式の巫子。私がやらねば誰が儀式をやるというの?」 「巫子さま……」 女は子供の手をとった。 「けれども、それでは巫子さまが死んでしまいます」 「……冗談を」 儀式に必要なのは、巫子の血のいくらか。具体的には剣を湿らせる程度であればいい。普通であれば死にはしないし、祀殿も死なせることはない。巫子は血筋で継承されていくものだからだ。 誰もがそう知っている。 だが、今回は例外だった。時を経て、世界を破滅に導こうとした男を封じた剣の封印は、代を重ねて薄まった聖女の血筋では抑え難くなっているのだ。 強い血が、ありったけ必要だった。 そして、常であれば聖女の血筋に遠慮する祀殿が、この巫子についてはどこまでも非情になれるということも。 女の言葉に感じるものがあったのだろう。子供は目を伏せた。 「プリメラ」 女の名を呼ぶ。 「でも、それが本当だとしても。それが聖女ローズマリーの家に生まれたもののつとめでしょう」 「巫子さま」 これがたった七歳の子供の言うことだとは。感嘆しながらも、女はあきらめるつもりは毛頭なかった。この子供を守りたいという願い。この子供であれば期待を裏切らないだろうという期待。 弱冠二十五にして巫子の世話係になると決まった時、最初にいただいた訓示。節度をもって接しよ。必要以上の情をかけるな。巫子としての意識を叩き込め。過度の期待を抱くな。そのどれからしても、彼女の行動は逸脱している。笑ってしまいたいくらいの情と期待をこの子供に持ってしまった。 じっと見つめ合うことしばし。プリメラの瞳に映る子供の頭がふらりと揺れた。 「……え?」 戸惑ったような声が続くが、ゆらゆらとした動きはいっこうにおさまらない。 やがて、とうとう支えきれなくなったからだは前にのめり、女の肩で止まる。 その耳元に呟く。 「プリメ……何……」 「お茶に、薬を入れました」 「……そこま」 「ええ、そこまでなんです」 強烈な眠気に対抗する子供の背を柔らかに撫でる。 「でも、もしあなたが本当に巫子であろうとするならば、絶対に戻ってらしてくださいませね」 まるで矛盾する願い事への返答はない。ただ、女の服を握った小さな手を感じた。きっと届いているだろう。 しばらくそうして。 彼女は立ち上がった。 約束の時間。 かたりと明らかに嵐が窓を叩くのとは異なる音がした。ガラスの向こうに黒い人影がある。 ためらいながら窓を開けると、蝋燭が消えた。まったくの闇。しかし、不思議と恐怖はなかった。 「お待たせいたしました。どうか、巫子さまを、この方が望むままに」 |