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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 8−2


「あの、お願いしたいことがあるんですけど、いいですか?」
 細々とした事柄を決めて、そろそろお開きかという段になって、それまで話に耳を傾けるだけだったフォールが声をあげた。
「何?希望だったら、できるだけ叶えるよ?」
 一見してデタラメにペンを走らせていたヒツギがにやりと笑う。どう見てもいたずらっ子の表情だった。
 それにフォールはほっとする。
 本当に意地の悪いことを考えていたのだが、彼の持つ雰囲気がそれを軽いものに変えてくれる。
「レファンシアさん、どうしましょう?」
「……」
 少女の言葉に一同は黙り込んだ。
 今の今まで眼中になかった人間である。そういやそんな問題もあったんだっけというような。たしかにアリアたちにしてみれば些細な存在だが、<エデン>に戻ることを目標とするフォールにとっては相当重要だった。
「状況から考えて、あの人はあたしを消したがってるんですよね?あんな男たちまで送り込んで」
 最後は気を失ってしまったので、フォールは彼らがどうなったか知らない。ただ、<スラム>のリーダーであるアリアに喧嘩を売った時点で彼らの末路は決まったも同然だった。
「で、あの人、あたしを殺したらきちんと証拠を欲しがると思うんです。最初にとどめを刺せなかったから」
<エデン>から転落したそのときに。
<スラム>への墜落。裂心症のウイルスを含んだ雨。十代半ばの、ほんの少女。
 誰もが『死んだ』と考えるような状況でも、フォールは生き抜いてしまったのだ。
 もし自分がレファンシアの立場であれば、今度は確実な印がなければ怖くて怖くていられないだろう。
「このまま放っておくのもどうかと思って……」
 フォールの言葉に一同は黙り込む。実際のところ、彼らはその女のことをほとんど考えていなかった。眼中になかったと言っていい。芸術の世界は、才能の世界。より勝っている方が上に行くだけだ。残酷かもしれないが、当代一ともてはやされる彼女がどうなるか、放っておいても構わない。
 だが、一番の要の協力者に請われればいくらでも変更できる点でもある。
「消しておく?」
 ヒツギがどうでもよさそうな口調で確認する。
「は?」
 思わず、間の抜けた声でフォールは応える。
「君のリクエストなら、安眠のために消しておいてもいいけど……。そこまでする価値のある人間かな〜、あれ」
 呟かれる言葉に少女はさあっと白くなった。
 そこまで深く考えての発言ではなかった。ただ、これ以上ちょっかいをかけられるのは嫌だなあとその程度。
 それがヒツギたちの中では『抹殺』までランクアップしている。
 おそるべき理解のギャップだが、それがフォールとアリアたちの間に横たわる溝の深さでもあった。
 痛感するものがあった。
 噛み締めながら、訂正する。自分が言わんとしていたことを具体的に挙げて。
 言葉に彼らは納得し、アリアがだったら簡単だと組んでいた腕を解いた。
「知ればいいんだから」
 かみさまの不公平さを。
 かつて、奇蹟とまで呼ばれた人物がいとも容易く道を踏み外した、そのように。


***


「ちょっと!こんなの、飲めると思ってるの?!」
 怒鳴り声に、付き人の少女は身を縮こまらせた。カップを投げこそしなかったものの、中身の大半が零れる勢いでレファンシアはそれを押しやった。
「すみません……。すぐに、すぐに変えてきます!」
「いらないわよ、時間がないんだから!ああ、もう、まったく」
 本番用に結い上げた豊かな髪をいじるわけにもいかず、女は苛立たし気に踵で地面を叩いた。裾の長いドレスのせいで直接目に触れることはなかったが、雰囲気だけは隠しようもない。呑み込まれた言葉も。
 少女は真っ赤に顔を伏せ、せわしなくスカートをいじっている。どうしよう。戸惑いと不安と怯えは明らかだが、それに応じてやる大物の優しさをレファンシアは持ち合わせていなかった。
 やがて、いたたまれなくなった少女は「スミマセン」ともう一度小さく呟くと、部屋から出て行った。
 それを見遣って、女は怒らせていた肩を下ろす。
 これで自分の株は下がるだろう。冷静に評する。自分が学生だった時の経験からすれば、今の仕打ちは明日の朝にはあの少女の級友を中心に広まるだろう。
 が。
(構うものですか)
 この程度で揺らぐような信用ではない。
 この程度で傾ぐような実績ではない。
 それだけの才能が自分にはある。
 言い聞かせる。何度も何度も。
 舞台に上がる直前はいつだってそう。神経質になって仕方がない。どんなに万全の体勢を整えていても、些細なことが気になってどうしようもなくなる。
 例えば、あの小娘が確実にいなくなったのかどうか、とか。
 極力連絡は取らないように告げているが、何の音沙汰もないのはどうかと思う。恥も外聞もないあんな非常手段に出て、あれだけの金も積んだ。このレファンシア=デディがこれだけやったのだ。失敗するなんて、そんなバカな話はまさかないだろうが、なかなか治らないかさぶたのようにむずがゆい状態が続くのは苦痛だった。
 成功したら残りの半金を支払う。契約はそうなっているのだから、わざと連絡がないということありえない。
(もう一度、あの占い師に相談してみようかしら)
 考えたが、ゆるく首を振る。 あの占い師は滅多に会うこともできないし、頼りすぎると破滅するとの噂もある。この件では二回相談しているのだから、これ以上はきわどいラインだ。
 息を吐きながら、冷静になるよう己に言い聞かせる。
 舞台の前で気が昂っているだけだ。
 それに、安心していい材料だってある。
 如月財閥での催し物まで既に半年を切っているが、レファンシアの知る限り、誰のところにも声がかかっていないということだ。……正直、自分以外の誰かが選ばれるより、自分を含めて誰も選ばれない方がよい。
 それなら、良い。
 そうだ。もう、きっと。誰も選ばれないに違いない。
 だから、これ以上の不毛な思考は止めてしまおう。


***


「何度言ったらわかるわけ?!ちっがーう!」
 だんだんとアリアが床を足蹴にした。
 ステージは音響がいい。足音だけではなく、アリアの叫びも綺麗に伸びる。
「五つ音を同時に出す分、息も配分されるのよ?今までと同じ調子で呼吸してて同じ音量が出せるわけないってわかってるわよね?ほら、もう一回!」
 あんたに圧倒的に足りないのは肺活量!
 言い切ったアリアの特訓はすでに二週間に及ぶ。
 最初はタカを括っていたフォールだったが、この調子が絶え間なく続き終わりが見えないと悟ると、ぐったりモードから立ち直れていない。
「あらあら。このくらいで一度休憩なさってはいかがです?」
「おかまいなく。ことは一刻を争いますから。今の発声を続けていれば、いずれフォールは喉を潰す可能性がある」
 今まで彼女は何度か多重音声を使っている。それは、アリアに言わせれば「間違った方法」のうえにであって、いわば偶然の産物だ。幸運にもあまりそれを使わなかったことでフォールにダメージはないが、改めないままであればいずれ致命的な状態を引き起こすだろう。
 ぬるめの水を差し入れてきた老婦人は、フォールのアルバイト先の主人である。
 作戦が決まってから、フォールは教会からここへ移って来ていた。フォールは教会にいたことはなく、最初からこの酒場にいたことにされた。
 なにやら裏事情があるらしい。
(ま、なんとなく予想はつくけど)
 先日の秘密会議で知った、ヒツギ=キサラギ。元当主。
 今の当主がどんな人物だかはっきりとはわからないが、もし自分が蹴落とした人間が生きていて。しかも虎視眈々と返り咲きを狙っていると知っていたならば。その動向をチェックしていないはずがない。
 その線からフォールが浮かぶのを防ぐ為だろう。
 彼女としてもその方が嬉しかった。如月財閥はアジア連邦の中では屈指の実力を誇る。芸術方面へのスポンサー事業も多数ある。もし、<エデン>へ戻ったフォールが歌姫として活動していくのであれば、決して無視できない存在だ。今の当主からそっぽを向かれるような過去を知られればその支援は期待できなくなってしまう。ヒツギがさっさと<エデン>へ収まれればいいが、そうでなければ、最悪日干しになってしまう。
 薄情だと思うが、割り切るしかない現実だ。
 ただし、事情はそれだけではないだろう。アリアも紫野も「触れるな危険!」のブラックボックスなのだから、あちらの事情も多分にある。従って、イーブン。
 それを差し置いても、こうやってレッスンをつけてくれることはありがたい。
 自分一人の練習には限界があるし、ひとりではよくわからない『正しい発声法』とやらも教えてもらえる。
 そう。
 確かにアリアの言っていることは、正しかった。疑いようもなく。
 彼女と一対一の特訓を初めてすぐにそれは分かった。今まで歌っていて、特に知らずに多重音声を使っていたときに感じていた、喉を不快な何かが移動するような、つかえるような感覚がなくなった。楽に息が出来る。
 もっとも、それは今までの基礎の半分を壊すような真似に等しい。物心ついた時から身に叩き込まれたそれをひとつひとつ消していくのは骨の折れる作業だった。
 でも、正しいと明らかなことを無視することもできず、いずれ身を滅ぼすと理解できることに固執することなど馬鹿げている。
 だから、どれだけ厄介であってもフォールは投げ出すわけにはいかないのだ。
「大丈夫です。休憩は、まだ要りません」
 オーナーの提案は魅力的だったが、フォールもアリアに倣う。一度でもあまえてしまえば、取り返しのつかないことになってしまう。そんな恐れがつきまとって離れない。
 ふたりの雰囲気から口出ししてはいけないと悟ったのだろう。飲み物を載せた盆を机に置くと、黙礼して部屋を出て行った。
 それを見送って、レッスンが再開される。同じことの繰り返し。基礎の基礎。それでもお互いに何も言わない。
 ようやくまとまった休憩が入れられたのは、一時間後。
 喉を軽く湿らせながら、アリアが切り出す。
「決行日、決まったわよ」
「え?」
 机にぱったりと伏していたフォールが顔を上げた。
「三ヶ月後の末。こればっかりは、こっちの都合でどうこうなるもんじゃなかったのよね」
 これを逃せば、一年以上先になってしまう。
 現時点で如月財閥が求める人材がフォールしかいない以上で、競争率は実質ゼロである。しかし、時間が経てば経つほど、フォールが不利になるのは明白だった。実力も何も関係ない、<スラム>に落ちていたという風評で。
 それは分かる。分かるのだが。
「さ、三ヶ月ですか?!」
「そう、三ヶ月」
「さ、三ヶ月……」
 互いのくちがそれぞれ同じ言葉を繰り返す。三ヶ月。建物のスクラップ&ビルドなら可能かもしれないが、声楽では無理だ。しかも、仕上げなければいけない曲は最低でも三曲。
 アリアたちの目標である<春日文書>を開くだけであればレパートリーは必要ない。
 が、フォールの最終目標はあくまでも如月財閥という強力なパトロンを得ること。となれば、アピールするにはそのくらいこなせなければ困る。
「アリアさん、今のあたしの仕上がり具合ってどのくらいですかっ?四割くらいいけてます?!」
 必死に食いつくフォールの勢いにやや押されながら、アリアは非情にも断言する。
「0. 四割ってところかしら……」
「てことは」
「まったくいけてないわね」
 がくりと芝居めいた動作でフォールが膝を折った。
 それを独特の視線で見下ろしながら彼女は言う。
「ほら、凹んでるヒマがあるんだったら歌いなさい」

 あんた、そのために生きるんでしょう?


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