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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 8−1


 まるで家族会議のような様相である。
 いつもの食卓に料理も菓子もなく、ただ人がしんと座っているだけでこうも違ってしまうのかという見本のようだ。
 フォールはどう話が転ぶのか見当もつかなかった。
 というのも、最初のアリアの一言が「こっちの詳しい事情は話さないから」。
 話せない、のではなく。話さない。つまりは彼女の心ひとつなわけだ。しかし、その横暴に抗議しようとの気持ちになれないのも確か。知ってしまった、彼女と彼とその他の立場を考慮すれば、それはある種の思いやりともいえるから。
 テーブルについているのは、フォールの他、アリアと紫野とヒツギとリーチェ。計五名。
 なんとなくの雰囲気で中心はアリアになるのかと思っていたら、口火を切ったのは紫野の方だった。
「僕たちの利害は一致してる。これはいいのかな?」
 砂色の視線。向けられてもフォールは返しようがない。利害。それが具体的に何を差すのか、知りようもなかった。
 表情でそれを察したのだろう。紫野は繰り返す。今度は内容を変えて。
「フォールは<エデン>へ胸を張って帰りたい。僕たちはどうしてもフォールが五重音声で歌えるようにする必要がある。これは間違いない?」
「胸を張って、というのはちょっと違いますけど、だいたい合ってます」
 当の本人以外は怪訝な面持ちだったが、構うものかと彼女は思う。一度、<スラム>へ落ちてしまった人間が、すんなりと元の場所に迎えられるなんて安直な考えは持っていない。どれだけ喜ばれてもだ。<スラム>にいた間、何をしていたのか、……何をされていたのか。否定するのもバカらしい程に悪意は流れるだろう。
 実際のところ、自分を切り売りするような状態をフォールはうまく避けてきたが、それが稀なケースであること、万が一の幸運であることは彼女自身が痛感している。
 そんな彼女のぴんと伸びた姿勢から感じるところがあったようで、紫野は突っ込むことはしなかった。
 本題に移る。
「この場に集まった人間に共通する利害を持つ代物は、如月財閥の持つ<春日文書>だ」
 初めて出てくる単語にフォールは目を瞬かせたが、紫野は質問を制した。もっとも、その<春日文書>と各人の関係の説明だけはしてくれる。
 アリアと紫野は<春日文書>を必要としている。世界に散らばるそれを集めている。
 ヒツギは今の如月財閥の当主とのあいだに確執があり、<春日文書>を彼から取り上げることで溜飲を下げたい。
 リーチェは……上の三人の推測によれば、如月財閥の当主が<春日文書>を手に入れる為に生み出した存在、ということだった。
 語られる内容に、ふと違和感を感じてフォールは眉をひそめる。
「ちょっと待って。ということは、如月財閥の当主は<春日文書>を持っているけれど、手に入れてはいないっていうこと?」
「そうです。彼の手元に<春日文書>自体はあるんですけどね、これまた厳重なプロテクトがかかってまして。中身を開けない――正しくは、ケースから取り出せない状態なんです」
 無理矢理に取り出そうとすれば、文書が破損する。すべて<春日文書>はそのようにプロテクトされているのだという。そして、その鍵はすべて異なる。
「如月財閥にある<春日文書>の鍵は声。しかも、本物のセレーネの声です」
「本物の?」
「そう。今だって、けっこうな数いるでしょう?自称・セレーネ。でも、いつきが指定したのは、正確に言えば一分間以上の五重音声がふたり分です」
 そんな大層な声の持ち主なんて、常識的に考えればこのご時世にいるわけがない。それもふたりだ。
 五重音声といえば純血の月民の特性であり、彼らは公式には混血の結果絶えてしまったのだから。
 苦笑しながら紫野は続ける。
「まあ、混血のスピードがいつきの計算を超えたんでしょうねー。僕が死ぬ直前、純血保護政策をするとかしないとかあって、する方に傾いてたし」
 懐かしそうに発言する元・人間。
 聞いた話によると、紫野栄、かつてフォールが調べた辞書に載っていたご本人様。裂心症で倒れた直後に妻・春日いつきの手でドールへと脳を移植されたとか。道理で食事風景を見たことがなかったわけだ。もっとも、そんな状態になれば悲観して自殺に走りそうなものだが、なんだかんだで今に至るある意味強者。
「そうなのよねー。ひとり分だったら自前で何とかなるんだけど、もうひとり分が、ね。録音じゃ誤摩化せないって言うし」
 疲れたようにアリアが繋ぐ。
 アリアは驚いたことに本物のこの<スラム>のマリア様だった。マリアシティ。聖母のイメージなど欠片もない彼女が、なぜそう呼ばれるのかはよく分からなかった。どういう経緯でかは不明だが、春日いつきの遺伝子やら何やらを突っ込まれているとのことで、フォールの見立てでは『紫野と運命共同体』。
「ま、僕のときから手こずってた代物ですし。これであいつにあっさり開けられたら、当主に返り咲くのは難しくなるし」
 軽い調子で肩を竦めたモズク色はヒツギ=キサラギ。れっきとした如月財閥当主。ただし、元。後継者争いで当主の座から引きずり下ろされて<スラム>へ転落。今は事情を知る当主時代の婚約者と一緒にチャンスを狙って虎視眈々。
 今までさんざんアリア達に世話になったらしく、『どうせだったら<春日文書>、アリアさんが強奪してよ』とのご希望である。とんだ当主もいたものだ。
「りーちぇは見つけられたから、それでいいの」
 幼い調子はそのままだが、少女は満足げだった。
 月民の多重音声は、厳密にそれが幾重になっているのかカウントするのは機械に頼りがちだ。が、リーチェは、少なくともそれが四重以上かどうかを聞き分けることが出来る希有な才能の持ち主だった。四重音声以上は、好き。
 ということで、アリア大好き。フォールとしてはちょっと複雑。
 その才覚から、如月財閥が鍵となりうる人間を探す篩として使っていたことが調べた結果明らかになった。
 道具として使う為に、ろくな教育も与えずに。
 リーチェの今後については、すでに方針は決まっていた。
 このまま如月財閥に返しても、彼らが<春日文書>を失ってしまえば少女は用なしになってしまう。粗大ゴミと同じ扱いで、リーチェは<スラム>へ放り出されるだろう。だったら、このまま財閥には返さずに教会で面倒をみればいい。幸い、リーチェはアリアに懐いている。
「如月財閥のほうは相当焦ってるでしょうね。まあ、撒いたエサもよかったし?」
「エサ?」
 おうむ返しで問えば、アリアは赤い瞳を細めた。
「そ。レファンシアのコンサート。傍目から見れば、財閥当主がわたしたちを迎えに来たように見えただろうけれど、実際がどうだったかなんてことは当事者にはわかるわけでしょ?」 「でも、そのくらいで……」
 焦る理由としてわからない。フォールが首を傾げれば、アリアは楽し気に喉を鳴らした。獣のように。
「わたし、すでに如月財閥にはマークされてるの。それこそ鍵としてね。わたしが<春日文書>を探してるってのも知ってるし。そのわたしがコンサートまで引っ張っていった人間を、見逃すと思う?」
 しかもあんた、会場で顔を見られているのよ?
 前半の台詞はどうかと思ったが、最後のそれは説得力があった。
 <エデン>時代の知り合いに名前を呼ばれたのだから、フォールの生存は向こうにとっても確定したと言っていい。――もし、もともと目をつけられていたのであればなおさら、だ。
「いいじゃない。如月の主催するコンサートで堂々と<エデン>に帰ってやんなさい。未成年だろうがなんだろうが、今の時代に五重音声まで出せるような歌姫を放っておくような馬鹿なスポンサーはいないわ」
「そうそう。<春日文書>奪われて面子丸つぶれになった如月財閥が見放しても、他のところがきちんと拾ってあげるから。何なら、紹介するよ」
 <スラム>転落組のヒツギでは紹介先はいまいち不安が残るが、言っていることは確かに筋が通っている。
 何よりも。まだ決心に揺らぎが見えるフォールを必要以上に刺激しないようにと心砕いてくれているのがよく分かる。
「その前に、紹介できるレベルに持っていかないとね」
 先走る場をアリアの一言が抑える。
 からだごとフォールへ向き直った。
「フォール、あなた、呼吸から違ってるから」
「……へ?」
 アリアの指摘に、彼女は間の抜けた声をあげてしまう。当然だ。ずっと音楽学校で基礎から学んできたのだ。それを『間違っている』と言われるなど、予想だにしていない。
 もっとも、アリアも少女の反応は予期していたのだろう。いつもは端折ってしまう説明の類も、めずらしく丁寧にしてくれる。
「生粋の地球人と月民とでは喉の作りからして違うわ。もともとのルーツは同じだけど、月民は地球と断絶した数百年で、月にからだが適応してしまったんだもの。これは有名な話でしょう?」
 求められて頷く。教科書にも載っている逸話だ。
「で、それにあわせて歌う時の呼吸法も変わってるの。だけど、こればっかりは実践で覚えるしかないわ。それを月民でもない『知らない』人間が教えることは出来ない」
 セレーネにはセレーネ特有の技があるのだ。技術を身につけ、かつ豊かな才能を持つ人間だけが一握りの栄誉に与ることが出来たのである。
 しかし、今の時代になって月民が滅んでしまって。その技術を知る者はいなくなってしまった。
 いくら月民の歌姫が、セレーネの存在が憧憬されようとも、いくら違法に生命をいじったとしても、彼らを復活させることができない。
 それが常識。
「わたし以外はね」
 アリアたち以外の常識。
「聴いただろうけれど、わたしは五重音声は出せるわ。特別な訓練をしたわけじゃないけど、この呼吸なら教えられる」
 ゆっくりとアリアは自らの喉に指を這わせる。
 その様にフォールは目が離せない。
 欲しい。
 そう思った。
 その声が欲しい。その喉が欲しい。
「教えてください」
 当然のように声は流れる。
 当然のように女は頷く。
「いいわ。ただし、リスクもある」
「リスク」
「そう。なにせ、五重音声が出せるとはいっても、……それこそ正式に学んでいない我流。将来、どうなるかわからない」
 結果的にフォール自身を破滅させる可能性もある。
 同じ言葉で問われる前に、フォールは促した。
「それでも」
 それでもいい。
 長く舞台に立ちたい。そう願いながらも若いままにからだを酷使して退く人間は多い。年齢を重ねれば、故障はそれこそ背中合わせ。
 ここでアリアから技術を学んでも、学ばなくても。結末に大差はない。
 栄光に彩られるか、惨めに終わるか。二者択一であれば、フォールだって後者はまっぴらだ。
 今まで逃げ腰だったフォールの視線は強く、アリアと混じった。
「わかったわ」
「ありがとうございます」
 自然とフォールの頭が下がる。
 苦笑した気配にも顔を伏せたままでいると、アリアは困ったように呟いた。
「こっちこそありがとうだわ。ここの<春日文書>だけは最後の最後まで手に入らないと思ってたんだもの」
 本当は、どうしてその<春日文書>とやらを集めているのか知りたいと思ったけれど。
 それでこの偶然と幸運をふいにしてしまうのもバカらしく、フォールは口を噤むことにした。


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