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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 9−1


 さて、時間は少々前後する。
「ここでいいのかしら」
 人の良さそうな。しかし決して身なりの良いとはいえない老婦人が、やはり綺麗とは言い難い子供を伴って屋敷の前をうろうろしている。
<エデン>のなかでも高級住宅地として名高い場所である。当然、屋敷のほとんどには立派な門扉と、それに見合った守衛が配されている。その屋敷も例外ではなく、ほどなくしてかちりとした制服に身を包んだ男たちが現れた。
 不審人物ふたりはどちらも丸腰のようだった。
 けれども女子供であっても油断は禁物だ。なぜなら、老婦人は明らかに<スラム>の住人に見えるからだ。<スラム>では、幼いうちからおもちゃのように銃器に親しむのである。
 見かけに騙されて、不意打ち。そんなパターンだってある。
 だが、彼らの心配は無用だった。近づきつつも探知装置を働かせたが、そのふたりからは何の反応もなかった。本当に本当の丸腰だった。
 それでも定石通り。
 いつ攻撃されてもいいように身構えながら、警備員は自分の仕事に従った。つまるところの職務質問。年老いた人間に対するいたわりは欠片もなかった。
 だが、ぶしつけな態度にも老婦人は怯む様子はみせなかった。あまりに余裕を感じさせるそれに、警備員は疑いをむけなければならなかった。
 本来であれば。
 彼が気勢を削がれたのは、老女の腰元からひょこりと顔をのぞかせた子供ゆえだった。古来より、動物と子供は最強の武器。否、無論それだけではなく、現れた少女のあまりに特徴的な色彩に、彼は与えられていたもうひとつの職務について思い当たったのだ。
 色素のない髪、瞳。月のウサギのような。
「リーチェさま!」
「あらあら、良かったわあ。やっぱりこの家で良かったのね」
 驚きの声に老婦人はおっとりと微笑んだ。
「うちの店に落ちてきましたのよ。最初は体調を崩していて。ようやく最近になって動き回れるようになったので。本格的に迷子だったらどうしようかと思っていたんですけれど、身元が分かって良かったわ。……ねえ、このお屋敷のお嬢様なんでしょう?」
 おっとりとした一息。けれど、最後の質問で老女のトーンが変わった。
 底に潜む粘っこさ。富む者を守るという仕事柄、警備員は敏感に感じとった。
 懐に手を突っ込むと、数枚の紙幣を老女に押し付けた。
 渡されたそれを無言で数えて、老女は鼻を鳴らした。
「この程度で済むのかしらねえ?」
「その程度なんですよ。……あんたの空想癖の値段はね」
 警備員は老女の視界いっぱいに立ちふさがった。長身でのしかかるように威圧すること、どのくらいか。
 それまでのプレッシャーをあっさりと消すと、彼は定位置に戻った。あまりのあっけなさに視線を巡らせ、彼女は気がつく。
 やられた。
 連れてきた幼女はいなくなっていた。
 ふたりが取引している間に、屋敷の人間が連れ去ったのは明白だった。だが、それを抗議したところで報われるとは考えられなかった。空想癖。警備兵はそう表現したのだ。あの子供――リーチェは想像の産物であると。
 手に残された紙幣をハンドバックに突っ込むと、彼女は歩き出した。
 何を言おうと埒があかないことだけははっきりしていた。



 数少ないプライベートでの朗報。青年は仕事を振り切って屋敷の門をくぐった。
 屋敷といっても自宅ではない。彼が所有する物件のうちのひとつだ。お世辞にも<エデン>では格が高いと言えない場所にあるうえに、交通の便も悪い。逆に言えば、人知れずに宝物を隠しておくにはお誂え向きな場所である。
 宝物。
 間違いなく彼にとっては。そして世界に唯一の。
 ノックもせずに扉を開ければ、それは確かにそこにあった。
 真白のレースやクッションに埋もれるようにして、こちらを見つめた赤い一対。
青年にとってかけがえのない。替えのない。
「リーチェ」
 呼びかけにも少女は鈍かった。しかし、彼の知る少女の反応はいつもそんな風であったから、気に留めることはしない。羽を抱くようにふんわりと両腕で包んだ。
「心配したんだ。急にいなくなるから、本当に」
 生きて、自分以外の誰かに利用されているくらいならば、殺されていてくれと。
 天才・春日いつき博士の遺産、<春日文書>。世紀の発明と呼ばれ、世界各地に散らばるそれを巡って争いが繰り広げてられて久しい。ライト・コーポレーションやセキュリティ・システムが有名だ。
 彼が君臨する如月財閥もその一つである。ただ、前の二社と決定的に異なる点があった。
 ……目的である。
前者が<春日文書>の中身に関心を持っているのに対し、如月財閥はたったひとつ。
 最初から所有されていた文書にかかった鍵を「誰が」解除するのか、ということのみに焦点が絞られているのである。青年も、中身などどうでもいい。オープンセサミの呪文さえ唱えられれば、それこそ売ってしまうつもりだ。
 各の<春日文書>にかけられたロックを解くのに必要なものは、文書ごとに異なる。
 如月財閥のそれを解く鍵は「声」。
 そしてリーチェは鍵を見つけるための黄金の耳。
 理屈ではない本能で、彼女にとって心地よい音、彼の求める音を差し出すのだ。
 こうなった以上は、今までの時間のロスをぜひとも取り戻さなければ。
 次の選考も控えている。三ヶ月後だ。リーチェを諦め、候補者の声をマイクで拾って、分析にかけるというまどろっこしいやり方を想定していたが、そんな必要もない。
「今まで、どこにいたんだい?」
 答えられはしないだろう質問。行方不明になっていた人間に尋ねるときの、あまりに形式的な問いに、カナメは期待をしてはいなかった。リーチェを迎え入れた衛兵の話によれば、連れてきたのは<スラム>の老婆だったそうだ。見られる格好はしていたとのことだが、所詮は<スラム>である。
<エデン>から、否、この屋敷からほとんど一歩も外へ出たことがないリーチェに、今までいた場所がどこの<スラム>であるかなど区別のつけようもない。
 ただ、この屋敷から抜け出して<スラム>に転落したのであれば、それこそ誰かに攫われたのでなければ、場所の見当はついている。
 隣接している<スラム>は聖母の街。氏素性の知れない、自称・聖母と救世主が治める。
 ……<スラム>のなかでは、比較的、治安はいいのだけが取り柄の。
 そんな青年の思考など、もちろんリーチェにはわからない。
 ただ、彼女が知りうることを口にする。
 もっともっと幼い頃から、他ならぬ青年に教え込まれたままに。
「ごはんと、のみものと、きれいな声があるところ」
 要領を得ない内容。リーチェをよく知らない人間であれば、気にも留めない。
 けれどもカナメはリーチェを抱いたままの腕を硬くした。
「カナメ、いたい」
「リーチェ。もう一度、話してごらん?どこにいた」
 子供の抗議も、逆に怯えを助長させるような低い声。
 久しぶりに聞いた優しくない声にリーチェはぎゅっと目を閉じて。
 繰り返す。
「ごはんと、のみものと、きれいな声があるところ」
「……そうか」
 震えが、リーチェに伝わった。
 それは実際、青年が喉の奥で笑った振動。――よころびに。
 そんなことなどリーチェにはわからない。
 いつものように空を眺めながら、青年の行動を待つだけだ。それが優しいものでも怖いものでも、それこそ痛いものでも少女はひたすら受け取るだけ。
 青年の手がリーチェの頬をそっと挟んだ。
 目は笑っている。
 どうやら『優しい』ことになる。
 ほっとしたリーチェに彼は聞いた。
「その場所のことを、リーチェがいなくなっていたあいだのことを、もっと教えて欲しいな」
「うん、いいよ」
 少女も即座に答えた。
 迷うことなどない。
 リーチェにとってカナメの言葉は絶対に守らなければならないことだったし、『とてもきれいな声をした人』や『カナメが同じ人』に頼まれたことでもあったのだから。


***


「……きちゃったよ、ほんとうに」
 カードを手に、フォールは呆然と呟いた。
<スラム>ではまずお目にかかれないような上質な紙だ。きっとパルプ100%だ。四隅を縁取るのは金の文様。地より浮き上がっているのはたっぷりとインクと金をかけている証拠である。
(よく無事に配達されてきたなあ)
 郵便受けの中身だって<スラム>では立派な売買対象。
<スラム>のリーダーであるアリアゆえか、はたまた直接ポストに投函されたのか。<スラム>の実情に詳しい人物であれば、信用できる人間に手渡しを頼みそうなものだ。
 宛名は『フォンテール=グリークファースト』。
<スラム>で使っている『フォール=アルファ』ではない。すべてお見通し、というわけか。
 立ち尽くしているフォールだったが、言われていたことを思い出す。
 招待状が届いたら、すぐにアリア達のいる教会に連絡すること。
 ――フォールが、今、寝起きしているのは聖マリア教会ではない。彼女がバイトしている酒場の方だ。どころか、彼女は<スラム>に落ちてきた当初からここで働いていたことになっていた。どうしたらそういうことにできるのかわからないが、それこそリーダー権限なのだろう。
 暮らしていた場所を移すことがどれほど重要なのか。正直、フォールにはよくわからない。けれども、それに黙って従う。盲従ではない。彼らを敵に回したくないからでもない。自分の将来のためだ。
 <エデン>に戻った後、痛くもない腹を執拗に探られるのを避けるためだ。
 <スラム>に堕ちた。その汚点はどうしようもないから、せめて軽く済ませるためだ。居場所を転々としていたよりも、ずっと同じ場所で住み込みで働いていた方がよほど良い。
 はっきりとそう言ったら、アリアは笑って頷いた。そのくらいでなければ、困ると。
(……それがしゃくにさわったんだけど)
 招待状を握りしめて、とんとんと階段を上る。カードをかざして扉のロックを解除した。
 最初に訪れたときに呆れるほどに堅く鍵がかかっていたわけだが、ここの住人になった途端に全部の鍵を一度に施錠・解除できるという便利なキーを渡された。確かにそんなものでもなければ、不便で仕方がない。ドアの開け閉めをしている間に襲われてしまう。
 扉を閉める瞬間、遠くに人影を見たが気にしなかった。
 フォールが招待状を確かに手にしたことを誰かに報告しにいくのだろう。その程度にしか思わなかった。
 かつて、レファンシアの影に怯えていた日々とはなんて違ってしまったんだろう。


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