> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 7−5 |
目を開くと、そこは見慣れた天井だった。 (教会……、の) 診察室だ。 どこか消毒臭いが、基本的にフォールが教会で使っている部屋と大差ない。見慣れた、と感じたのも当然だった。 慎重に起き上がれば、服は白のゆったりとした上下に着替えさせられていた。あのまま、ここへ連れ帰られたのだろうか。 目を閉じ、そのまま気絶でもしたらしい。最後のほうの記憶は曖昧だ。 だが、多少なりとも<スラム>で生きてきた経験から、事態がどのような結末を迎えたのか想像をつけることができた。 ここは<エデン>ではない。 なのに、このマリア・シティが<スラム>だとは思えない静かな場所だったから忘れてしまっていただけだ。 だが、ここですらも<スラム>としての例外ではない。ただ、やたらと攻撃的で抗争に明け暮れる<スラム>ではなく、専守防衛のスタンスを貫いている。 だから攻撃されれば攻撃仕返す。それも、二度と手出しをしようという気持ちを起こさせない為にも徹底的に。 だから、あの場で紫野がとった行動についてとやかく言う権利などない。あれはフォールを狙ってのことであり、当事者であるフォールがああいう態度をとった以上、それによって現在がある以上は責めることなどもってのほかだ。 気絶することができてよかった、と。 不謹慎にも、思う。 両手で顔を覆って、深呼吸をする。大丈夫。普通に、顔を合わせられる。 そうやっているところで、まるで間合いを計ったかのように扉がノックされた。 「どうぞ」 はっきりと返事をすれば、おずおずと顔をのぞかせたのはリーチェと、くすんだ緑の髪の青年だった。リーチェの身元をはっきりとさせるために、以前、教会に訪れたことがある人物だ。名前はなんといっただろう。 記憶をつまぐっていると、リーチェがとてとてと走ってくる。そのままの勢いで腰にへばりつく。 「リーチェ?」 「ヒツギ、カギ」 「え?」 不明な言葉に首を傾げる。 ああ、青年の名前がヒツギだったか。サングラスをかけていなかったから、わからなかった。 では、カギとはなんだろう。たしか彼の名前は、ヒツギ=……キサラギ、だったはずだ。カギ、ではない。 とすれば順当に『鍵』のこと? でも何の? そして、何が……誰が? 「リーチェ、間違いは?」 「ない。絶対」 「そう、いい子だ」 ヒツギもゆっくりとベッドに近づくと、そこでフォールにくっついているリーチェの頭を撫でた。 それからゆっくりと、フォールと視線を合わせる。 「ぼくのことを覚えていますか?」 無言で彼女は頷いた。この髪の色は忘れようとしても忘れられない。 返答に満足げに笑うと、彼はベッドサイドに置いてあった椅子に腰掛けた。 「お二方は後からいらっしゃいます。が、その前に色々とぼくの方から説明したほうがいいだろうと思いまして」 なんといっても、あのふたり、頭が良すぎて説明が苦手で。 「あなたはどうして自分が狙われたのか、わからないでしょう?」 再び、頷く。 自分が狙われていたのかは男たちの言動からはっきりしていたが、理由がわからない。 私情ではないだろう。とすれば、誰に頼まれて。 「その前に、どうしてあなたが<スラム>へ落ちてきたか。聞かせてもらえませんか?フォンテール=グリークファースト嬢?」 久しぶりに聞いた音の並びに、フォールは自分の喉が鳴ったのを自覚した。 それに構わずにヒツギは続ける。彼女の態度を気に留める素振りもなかった。確認ではなく、既に確信を持っていたのだろう。 「……追われて、<スラム>へ落ちました」 「誰に?何故?わかっているのでしょう?」 畳み掛けられる質問。 「知らない男の人に。理由なんか知らない」 走って逃げたアーケード。雨が降っていたから、脇道に逃げることができなかった。雨に濡れれば裂心症に確実に感染する。ウイルスは、水にのってくるくると人間を殺しながら循環しているのだ。 違う。本当は分かっている。 自分でついた嘘に自分で突っ込む。 でも言いたくないのだ。憧れだったあの人のことを。 「……ここまでされてもかばうかね」 やれやれといったふうでヒツギが呟く。 耳にして痛感する。 ああ、もうすでにわかっているのだ。 彼には……彼らにはフォールの事情などわかっているに違いない。 「そんなに、あたしは邪魔だったのかな……」 自分が<スラム>へ落ちたから、彼女が一線を越えるほど欲しがっていた招待状は彼女のところへ届いただろうに。 もともと、自分がどうして選ばれたのか。当代一と謳われた彼女が招待を受けるに相応しいと誰の目にも映っていただろうに。 「君が<エデン>から落ちたからといって、彼女のところに招待状は行きませんよ。行ったとしても単なる儀礼的なもので、選ばれる可能性はゼロ。彼女は基準を満たしていませんから」 フォールの思考をヒツギが攫った。 え?と目を上げれば、面白がる表情と視線があった。 「もっとも、レファンシアはそんなことには気がついていないでしょう。だから、コンサート会場であなたを見つけて思ってしまったわけだ。『フォンテール=グリークファーストが生きている可能性を棄てていないから、キサラギは自分を選ばない』」 実際のところ、フォールは行方不明扱いになっているが、公式に死んだことになっているわけではない。 レファンシアが彼女に対して行ったことについて告発の準備を整えていると考えたのかもしれなかった。 それゆえの、あの強硬手段。 だが、実際はまったくそんなわけではなかった。フォールはレファンシアを怖れて逃げていたし、<エデン>に戻るつもりもなかったのだから。そしてレファンシアが選ばれなかったのは、フォールの存在ゆえではなく、彼女の個人の資質ゆえだった。 黙り込んでいる彼女に、ヒツギは言葉を続ける。 「一応、今回は一件落着。ただ、彼女はかーなーり粘着質な性格のようでしてね」 フォールの死体を見ない限り、あきらめないだろう。 「いつまで逃げ続けるつもりですか?」 質問に下を向く。 へばりついたままだったリーチェと目が合った。少女は軽く首を傾げると、フォールから離れて代わりにヒツギへぴたりとくっついた。 いつまで、逃げ続けるか? 今まではきちんと逃げていた、気がしていた。<エデン>へさえ戻らなければ、大丈夫だろうと。 しかし違った。レファンシアは<スラム>へも手を伸ばすつもりがあるのだと、今回で痛感した。 ……自分が歌を棄てれば状況は異なってくるのだろうか。 (歌を棄てる?) 反射、吐き捨てる。 (冗談じゃない) それだけはできない。決意だけなら出来るかもしれない。短い間であればできるかもしれない。実際にできた。でも、一生なんて無理だ。 もし完璧にできるのであれば、こんなことにはならなかったはず。 「歌は棄てられない」 宣言する。そうしないと、崩れてしまうかもしれなかった。 「死ぬのもいや。……帰りたい!」 ようやく、本心が転がり落ちた。 帰りたい。自分の居場所へ。 同じことの繰り返しになると思っていたから、帰れなかった。状況が変わらない限り、レファンシアは繰り返す。いくらフォールが訴えたところで、世間は一介の学生よりも、地位も名声もある歌姫を信じるだろう。被害妄想だと片付けられるのがオチだ。 でもどこに居たって同じなのであれば。 あの場所に帰りたい。 自分の舞台へ。 アリアにそれを奪われたと思ったときの悔しさを思い出す。 はっきりと自覚した。 脅されようが襲われようが、それこそ殺されそうになっても。 離すまいとしがみつくのが自分。 見上げた視線と見下ろす視線がかち合った。 |
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