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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 8−3


 暗い。
 波のある痛みとともに浮上しながら、フォールは身体をほぐそうとしてぎょっとする。
 動かない。
 よくよく感覚を凝らせば、両足首と両手首に何かが巻き付いているのがわかる。どうやら縛られているらしい。
 試しに左右へと手足を動かしてみるがどうにもならない。
「何なの……」
 苛立たしく漏らせば、目の前の闇がくるりと動いた。
「ああ、気がついた?」
「紫野さん……?」
「うん、大丈夫みたいだ」
 視界が暗くて表情までは読み取れない。が、彼がいつものごとくの穏やかな顔をしているだろうと予測はつく。
 どうして彼が?と疑問に思う前に、直前の記憶がよみがえってくる。
 開演前に楽屋にやってきたふたり。手には花と差し入れのお菓子を持っていた。 紫野が興味深げにいろいろなところをいじったり、アリアがかなり無理矢理にフォールのステージ衣装に足を突っ込んだりして、せっかくだからと持参されたお菓子をいただいて……。
 そこからの記憶が曖昧だ。
 加えて、頭痛。風邪のときの痛みでもないし、どこかにぶつけたという感じでもない。そもそも、そのどちらに当てはまってはいないはずだ。
 まさか、薬とか。
 だとすればあのお菓子しか記憶にないのだが、まさか。
 信じようとするものの、肝心の相手がアリアの疑惑を確定する。
「時間もぴったりだし。僕も腕は落ちていないね……アリアさんの調合も良かったんだろうけれど」
「な!」
 叫びかけたアリアのくちをむんずと紫野が抑えた。
「静かに。場所は動かしてないから、ばれると面倒なんだ」
 むぐぐともがくが、彼の腕はまったく動かなかった。 押さえつけられたままの状態で視線を巡らせば、なるほど、移動していないというのは本当のようだ。ただ、見慣れない機械とコードが複雑なオブジェを作り上げている。
 そのひとつに巨大なモニターがあった。
 薄暗い部屋の光源はそれだったようだ。
「……ステージ」
 指と指の間から呟く。
 フォールが立つ予定の舞台だ。
 空のそこに滑るように真紅の衣装を着けた女性が現れる。歓声。
「紫野さん、どういうつもりですか?」
 モニターに映っているのはアリアだった。紅い髪を高く結い上げ、ドレスの裾を見事にさばきながらステージの中央へ佇んだ。
「そのままだよ」
「何ですか、それ?!わっけわかんない!」
 あれは自分の場所だ。確かに最初にあの場所をくれたのはアリアに違いないけれど、間違いなくあの舞台はフォールの為にあるのだ。 フォールの歌を聴きにきてくれている客だっているのだ。それを今更。冗談じゃない。
「離してよ!行かなきゃ」
「行ってどうするの?」
「アリアさんはたき落としてきます、当然でしょう!?」
「ここから動くこともできない君にそれができるかは疑問だけれどね」
 足を括ったロープの端をもてあそびながら、紫野が言う。
「はっきり言って、アリアさんは歌、上手だよ。伝説を超えるくらいに」



「十人」
 アリアはマイクに向かって呟いた。
「予定よりも少ない。表か裏に見張りがいると思う」
『了解』
 客席に聴こえない音で会話を交わす。
 紫野の方のマイクからはフォールの怒鳴り声が聴こえてきた。
 はたき落とす?
 上等じゃない。
 その心意気をどうして今まで発揮できなかったのだろう。彼女が<スラム>に落ちてきたのは確かに事件だが、フォールであれば<エデン>に戻ることは難しくなかったはずだ。
 もっとも、理由はわかっている。
 レファンシアの存在だ。彼女の存在は大きかった。さらには、フォール自身が大きくしてしまっていた。しかたがない、で済まされることではないとアリアは思う。 フォールの性格を考えるに、最初からレファンシアと競り合おうという気概はなかったはずだ。尊敬と畏敬で終わってしまう感情。
「まあ、それじゃあ困るんだけれど」
 くちびるを湿らせる。
 喉の調子はそこそこ。

 さあ、狩りの準備は整った。


「なあ、あの女、……違くないか?」
 煙草を噛みながら、男はさりげなく懐に手を突っ込んだ。
 重たい金属の感触。慣れた動作で安全装置を外していく。
「そうか?渡された写真は一年以上前のモンなんだろう?」
「しかも、女はいくらでも化けるからな」
 第一、<エデン>でお綺麗に生きてきた人間が<スラム>で変わらないなんてそんなバカな話があるものか。
 吐き捨てられた台詞たちはいちいちうなずけるものだ。
「何にせよ、間違えたならもう一度探し出して殺せばいいだけだ。あんまり派手に動くとこの<スラム>のトップからケチがつくかもしれねえが」
「はあ?構わねえだろう。こんなあまちゃん<スラム>のトップ、しかも滅多なことじゃあ姿を現さないっていうじゃねえか。どうせだったら、俺等がのっとっちまえばさあ」
 仕事のためにおとなしく振る舞っていたが、どうやらこのマリアシティのトップはとんだ臆病者らしい。 <スラム>にとってのお宝である医者を逃さないようにするためか、とにかくお固く、かつ甘い方針を貫いているようだ。 他の<スラム>では日常茶飯事の縄張り争いでさえも、仕掛けられたらやり返す程度。 これだけの<スラム>であれば、周囲のいくつかの雑魚を平らげてしまえるだけの実力があるのに宝の持ち腐れというやつだ。まったく。
 だったら自分たちが奪って何が悪い。それが弱肉強食、<スラム>の掟。
「どちらにしろ、この仕事だけは前金もいただいちまっていることだし、さくっと片付けるぞ。誰がトドメをさそうが分配は均等。文句はねえな?」
「打ち合わせどおりか」
 ホールには、彼ら以外にも仲間がいる。テーブルの三分の一は自分たちの仲間だ。 たとえ標的を殺したとしても、無事にこの場を抑えなければならない。マリアシティ出身のメンバーがどうしても集まらなかったため、そこまで気をつけねばならなくなった。
「臆病者のリーダーには臆病者の部下ってか」
 うそぶいて、瞬間。
 躊躇いもなくトリガーが引かれた。


 言葉もなく、呆然とフォールはモニターを凝視していた。
 月移民。
 月民の歌姫のために作られた、もっとも有名な曲。それも原曲。
 月民のため、というだけあってこの原曲には彼らの最大の特徴ともいえる多重音声が多用されている。それも、三重声バージョンから七重声バージョンまである。
 もちろん、純血の月民が途絶えたとされる今、これを単独で歌うことのできる存在などほとんどいない。月民の血が濃く現れた人々が必死で練習してやっと三重音声。 舞台では普通、地球人用のアレンジバージョンか声質の似た数人が合唱形式をとる。
「マイクに細工なんてしてないからねー」
 にこやかに紫野が告げる。
「だって、……だって五重音声……うそ」
「調子のいいときはアリアさんは六重音声で歌えるよ。論理的には七重だっていけるはずなんだ」
 なんでもない調子で青年は肩をすくめる。
「なんでそんな人が<スラム>の教会で医者の助手なんて」
 それを突きつければ、簡単に<エデン>に行ける。<エデン>の住人たちは、芸術に対して貪欲な人種が多い。
 呻いた言葉は明らかに失敗だった。 <スラム>へ落ちてきて長いとは言えないが、<スラム>で紫野やアリアのような役目を負う人間がどれほど貴重でありがたいものなのかは理解していたので。
「『七日間の虹の奇蹟』がどうして自殺したか知っている?」
 フォールの失言を責めるわけでもない、関連性の見えない問いが降る。
「……春日まりあ、が?そういえば、変な地下室に写真がありましたけど何か関係が」
「ふうん、やっぱり入ったんだ」
「あ」
 思わず礼拝堂の妖し気な隠し部屋に侵入したことを白状してしまった。しかし、紫野はとうにその事実を知っていたようで、やはり責める調子はまったくなかった。
「歌姫の最高位であるセイレーンの称号を贈られて、たった一週間。どうして彼女は栄光の頂点で命を断ったのか」
「プレッシャーだ、というのが一説だったと思いますけど」
 律儀に返しながら、フォールは混乱する。両手足を縛られた状態で、音楽談義。しかも、BGMは幻の生歌。
 一体、この状況はなんだ。
「世間ではそう言われているけどね」
 紫野はフォールとまっすぐに視線を合わせる。
「絶望したんだよ。かみさまの不公平さに」

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