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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 7−2


 かみさまは、なんて不公平なの?


 呟くのは、自分。


 浮かぶ光景は記憶だ。いや。記憶ですらない、情報。
 たかが電気信号が、埋め込まれた回路を通じて再現する他人の過去。
 その光景の中で、自分であって自分でない女が呟く。
 どうして。
 視線の先、黒い黒い空を背景に紅い長い髪が翻る。
 もう止めましょう。もう終わったの。あきらめなさい、まりあ。
 何を言っているのかわからないわ。どうしたの?まりあはあなたの名前でしょう?
 おかしな子ねと目の前の女は笑う。それは姉である自分には見せたことのない表情。ああ、まりあからは自分はこんな風に見えていたのだろうか。
 まりあ、いい加減に醒めなさい。
 ……まりあこそいい加減にしなさい。まりあはあなた、私はいつき。そうでしょう?
 微笑む相手に屈託はない。
 だから違う。
 自分はこんな風に笑わない。こんな風に話さない。こんな雑然とした思考回路はしていない。


 まりあ、そんなにあなたは『春日いつき』になりたかった?


 自分の帽子に手を伸ばした。むしりとる。
 目の前の、彼女とは異なる短い髪が宙を泳いだ。


 こんなにも、私たちは違うのに?




 私の身体を提供します。
 白く圧迫感のある空間。自分でない女はそこにいた。管に繋がれた身体はベッドから離れられない。それは治療のためではなく、観察のためだった。
 裂心症ウイルスを身体に抱えながらも、未だに生きている自分。発症はいつか、それともこのままキャリアとして終わるのか。彼らは二十四時間観察している。
 このまま、発症せずに終わるということはないと思います。根拠も言いましょうか?
 結構です、春日博士。
 けれども、感染しながらもここまで生きながらえているこの身体には、それだけで研究の価値があるでしょう。
 必ずしも感染しているとは……。
 感染しています。
 白衣の男の言葉を自分は遮った。
 それくらいわかります。自分の身体ですもの。
 あのバイオハザードの現場にいたのは自分と夫。夫の肉体はすぐさま裂心症で逝ってしまった。拘束される前に、研究途中の器に移したけれど、それを目覚めさせる手順については運を天にまかせるほかない状態になってしまった。ごめんなさい、栄。本当にごめんなさい。でも、私はあなたを失いたくなかった。どんな手段を用いても。たとえ、人間という枠を壊してしまっても。
 わかりました、春日博士。
 男の声が過去の情報から引き戻す。
 献体に同意するとの、署名を。




 君の大切な恋人を生かしたいのであれば、春日文書を探したまえ。
 もうもうとする埃の向こう、青年が告げた。
 自分は、間違いなく自分は、彼の名を呼ぼうとしたのだ。しかし、声が出なかった。
 だって、知らなかった。彼の名前を知らなかった。人形屋というふざけた通称しか知らなかった……。
 それが酷く悔しい。そして、彼がとんでもない誤解をしているのが。
 ここが最後の舞台だと青年が決めているのであれば、それでいい。ちょっと力があるだけの小娘の自分には、止める力も権利も資格もない。……認めるしかないじゃない。
 でも、その勘違いだけはいただけないのと心で呟くのだ。
 自分は本能に従って逃げようとする足を固定する。ぎりぎりまで粘れ。
 アリア、ぼくと心中してくれるのかい?
 そんな自分の様子に彼は微笑んだようだった。埃がすごすぎて、彼の目元はいつものサングラスで隠されていて分からなかったけれど。
 まさか。
 鼻であしらおうとして失敗した。
 せっかくだから教えてあげるだけよ。
 これで最後。これが最後。最後にならなければ素直になれないなんて、本当にどうしようもない。元が元だから仕方ないのか? あの春日いつきの遺伝子を完全に模写していれば、性格なんて見事に歪むだろうと脳に埋め込まれた記憶チップが告げる。


 私の大切な相棒は確かに紫野だけど。


 恋をしていたのは、確かにあなたにだった。




「かみさまはなんて不公平なのかしら」
 ぼんやりと呟くと、紫野が振り返った。
「アリアさん?」
「そうでしょう。春日いつきなんて言う、天が二物も三物も与えたようなふざけた人間がいなければ、今の世界の不幸のいくつかは無いはずなのに」
 こうやって、彼女の記憶を情報として持っているからわかるのだ。 感情をあまり挟む余地のない映画のようなそれを知っているから、彼女の視点でありながらもアリアとしての気持ちを映す余地がある。
「でも、いつきがいなければ今の僕はいないんだよ」
 こんな存在となってしまっていても、思えるのだ。
「僕は、どんなかたちであれ、まだ生きられていることが嬉しいし」
 無言で顔をあげれば、こつりと額が合わせられた。模造された体温にさえ救われる心地がした。
「何よりも、彼女のやり残したことに後始末をつけられるのが、恩着せがましくて良くないかな?」
「いつか地獄で会ったときのために?」
「そう」
「じゃあ、まず目の前の恩を解決する?仕込みは出来ているし」


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