> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 7−1 |
ここにいると狼煙が上がる。 彼女の歌声こそが証。 彼女の存在こそが印。 燻されて深くなった煙は、すべてを惹き付ける合図。 一本、男が指を立てた。 「一千万だ」 言葉に沈黙が鳴る。期待が凝った挙げ句の静けさだった。 「おい、本当か?」 「ああ、間違いねえ。おれはやるぜ」 太い声が宣言する。 どうすると視線で問いかけられて、顔を寄せ合った数人が次々と同意した。内容を見る限り、たいして難しい仕事だとは思えなかった。 基本的に、彼らのやり口は手段を問わない。少々乱暴なことになるだろうが、それだけの危険を冒してもなお実りのある仕事しか選ばないのが常だ。 「お前はどうするよ?」 「ぼくかい?」 彼らに話を持ってきた男はひらひらと手を振った。深く被ったフードで顔はよく見えないが、若い男性であることは確実だった。 「ぼくは遠慮するよ。そもそも、ぼくの手では負えないから持ち込んだんだ。……引き取り手がいてよかったよ」 手元にあったアルコールを引き寄せて、軽く乾杯。 気取った動作だったが、厭味なく似合っていた。その仕草から、男たちはフードの男が元々は自分たちの世界とは違う次元で生きている人間だと判断した。 この仕事もおそらく彼がどこかから拾ってきたという代物ではなく、彼自身の仕事なのだろう。気に入らない人間を消して欲しいと言う、ありがちなものだ。 男はグラスを飲み干すと、懐から札束を取り出した。 「ここの代金はぼくが払っておくよ」 それから、と続けてメモ用紙を男に渡す。そこには数字の羅列が書かれていた。銀行の口座番号と暗証番号だ。 「ここに依頼主からの前金が振り込んである。報酬の30%。存分に使ってくれとのことだ」 言いおいて、彼は席を立った。 男たちは受け取った紙と残された札束をじっと見つめる。特に札束については、こんな場末の酒場では十分すぎるほど。金銭感覚がおかしい。 やはり、こういう場所に慣れていない<エデン>の住人がのこのこと遣ってきたに違いない。 依頼内容も、今まで<スラム>で危険な仕事をこなしてきた自分たちにとっては他愛もないこと。 この<スラム>に移ってきて、未だ日は数えるほどだが、こんなふうに仕事が転がってくるのは幸先がいい。 何よりもこの程度の仕事に先住民が食いつかない……ふぬけの集まりだ。腰を据えれば、かなりいい稼ぎが手に入ることだろう。 思わぬ幸運をつかんだと思った彼らは、周囲の視線に気づくことはなかった。 意味ありげな、その視線に。 唐突な言葉だった。 「私もフォールの舞台を見てみたいわ」 久しぶりに夕食をアルバイト先の酒場ではなく、教会で食べていたフォールは持っていたスプーンを取り落としそうになった。もちろん、驚きのあまりに、である。 アリアの紹介で働くようになってから既に一ヶ月。 今まで自分が斡旋した仕事だというのに実際に職場に訪れることもないばかりか、一言だってそんな話題を会話に乗せたことのないアリアが。 突如としてそんなことを言い出したのだ。 それ以上にアリアの放任主義っぷりを既に随まで叩き込まれているフォールとしては、発言自体を幻聴に落としこみたかった。 しかし、それですまさせてくれるほど、世界は甘くなかった。 「それは良い案ですよねえ。信頼できる場所だとはいえ、心配ですからねえ」 のたまったのは、このマリア・シティで唯一の医者である紫野栄だった。彼の前には食事の皿すらも置かれていなかった。 医者という不規則な生活を送っているせいか、彼は食事を教会の住人とはまったく別にしている。今日も夕食は済ませたばかりだと自己申告されたのだ。 「心配って何の心配ですか?!」 そもそも半ば騙されるように職場に放り込まれたのだ。 これで今更「ああ、あそこはヤバいんですよ、あっはっは」とか言われたら、きっと頭の血管の1本や2本、犠牲になってしまう。 それゆえに不穏なオーラをまき散らしたフォールを前にしても、紫野の余裕は揺らがない。 にこりと微笑んだ。 「それはもう。フォールの歌声を吹き込まれるマイクの心配とか、フォール直々に使う音響装置の心配とか」 そっちかい。 彼女の怒りが上下する。彼女自身、自分の機械オンチ、いや、クラッシャーだということはわかっている。わかってはいるのだが……。 こう聞かされてはどうすればいいかわからない。 「フォール、きかいこわしたりはしてないよ?」 雰囲気を読めないリーチェが嬉しくないフォロー。 うん、たしかに機械を壊したりはしていない。いないけれどね。 そういうことを心配されるのがたまらなく屈辱なのだ。 だいたい、このあいだの初給料の明細を見せたのである。というか、むしろ見させられた。 契約した金額から一銭たりとも引かれていなかったのだから、器物破損なぞなかったとわかるだろうに。 なにはともあれ、話がそれた。もっとも、元に戻されてもうれしくないので放っておこう。 思ったが、世の中、そうそううまくいくわけがない。 「いつくるの?アリア」 リーチェが無邪気に脱線を修正した。これは怒るに怒れない。少女には悪気がないのだから。 ……いいや、これを機に人間関係の機微について多少なりとも教えておくべきなのだろうか。 白い頭を見下ろしながら悩むフォールをよそに、アリアはにんまりと笑った。上着のポケットから折り畳まれたカラフルな紙を取り出すと、左右に振った。 「これ、なんだと思う?」 大きさはてのひら大。カラフルと思ったのは、写真がプリントされているからだ。大仰な飾り文字が踊っている。 紙の正体を見極めようと必死にそれを追ったフォールは、目を見開いた。 手を伸ばしたのは本能だ。 だが、あっけなく。さらり躱されて高々と掲げられた。 「連邦フィルのチケットー!!」 それの名前をフォールは絶叫した。 垂涎の的である。幻のチケットと言われるほどの品である。 どうやってそんなものをアリアが手に入れたかは、この際、脇へ置いておく。重要なのは、それが目の前にあるということである。 「欲しい?欲しいわよね、当然」 うふふとアリアが妖しく笑う。 口元に手を下ろして、チケットに軽くキス。そんな仕草からすら、目が離せない……。 こんな最終兵器を持ち出されては、白旗を挙げるしかなかった。 一回でいいのだ。たぶん。たかが自分が歌っている場所にアリアを招待するだけで、お宝が手に入る。 誘惑に彼女は勝てなかった。 「ねえ、どうするの?」 軽やかな声のだめ押し。 フォールは声を絞り出す。 「い、一回だけでいいなら……」 「取引成立ね」 ひらり無造作にチケットが差し出された。むしり取る勢いでそれを奪うと、フォールはうっとりとそれに視線を馳せた。 ああ、憧れの黄金チケット! そんな彼女の耳に紫野がしみじみ呟いた言葉が入らなかったのは、幸いだったか。 「……学習能力がないのかなあ」 たしか、今と同じようなパターンで結構な目にあったと思うんだけれどもねえ。 聞こえなかったのは、確実に幸いだった。お互いに。 |
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