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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 6−4


 耳に侵入してくる音。
 これが好き。これじゃなきゃ、だめ。
 拙い手つきで皿を運びながら、リーチェは思う。
 ほんとうは、こういうのを見つけたらすぐにカナメに教えなきゃいけない。
 そういうふうに教わった。
 こういうのはたいせつだから。
 それがわかるリーチェがたいせつでいるために。
 すぐにおしえなきゃいけない。
 だけど、ここにカナメはいなくて。
 しかも、フォールにも話しちゃいけないといわれていて。
 それで、フォールはたいせつなひとで。
 たいせつなひとが『だめ』といったら、それに逆らってはいけない。
 だから内緒。
 刻み込まれた教育は、リーチェの言動に矛盾をもたらしていたが、おさない精神には疑問を挟む余地がなかった。
 ただ心地よさに酔いながら、手を動かしていく。
 音はリーチェに流れ込んで。染み込んで。


 ……あ。


 限界に触れた。
 一瞬を、フォールは認識する。


「五」
 短いが、力強いカウントだった。
 画面を鋭く見つめてアリアが問う。
「紫野。今の波形の時間は?」
「3.78秒」
 淀みなく正確に。時計も見ずに彼は返した。尋ねる視線の意味は、今後の対応を問うものへと変わっている。
「いけるわ。おそらくフォールは独学なのよ」
 だから、これだけの時間しかできない。正しい発声方法を知らないから。それを教わって、身につけることさえできれば。解決することができる。
「いいの?」
 確かめるのは、青年。
「いいのよ」
 答えるのは彼女。
 そこに迷いはない。
 彼女の気性からして、ここで退くことはないと理解はできる。望みを果たすための二度とこないであろうチャンスだとも。 それでも、確実に彼女が傷つく方法しかとれないのが歯がゆい。
 それも。
「自分のために、とか思わないでよね」
 いつのまにか画面から視線が外されて、彼の砂色の瞳を射していた。
「あんたと私は一蓮托生なんだから。これはね」
 どこからが本気で、どこからが冗談か。あるいは全部が全部そうなのか。
「全部、私のためよ」
 音楽はまだ、続いている。
 言うだけ言うと、アリアは再びあちらの世界へ集中し始める。
 その赤い髪を見下ろしながら、紫野はどう答えれば良いか考える。かつて世界でも類を見ないと讃えられた彼の頭脳であったが、働かせれば働かせるほどに空転。
 人間の耐用年数を遥かに超えたと思われる、頭脳の限界か。
 否。
 彼女相手には、いままでも気の利いた台詞なんて出てきたことなんてない。きっといつまでもそうなのだろう。
 知らず浮かんだ苦い笑みに、彼の顔など無視した位置にある彼女の声。
「何、気楽な顔してるのよ?」
「いいえ、別に」
 こういうやり取りがいつまでも続けば良いと。
 別に彼女でも彼女でも。どちらにしろ、彼にすれば大切なのだから。切り捨てたくはないとちらとでも浮かんだ。
 彼の思考を知れば、アリアは怒り狂うだろう。
 だから、そうと悟られないように反らしていく。
「で、これからの予定は?」
「そうね、そりあえず」
 くちびるに指を当てながら、彼女は。


 どうしよう。
 いたよ、カナメ。
 カナメがさがしてたひと。
 たいせつとか、ううん、ぜったいっていうひと。
 なのに、カナメがいない。
 カナメはいっていたけど。
 見つけたら、となりにいるカナメのすそをひっぱって教えたらいいっていったけど。
 カナメがとなりにいないときにどうすればいいかは、リーチェに教えてくれなかったよ。
 こういう場合はどうすればいいんだろう。
 カナメを知ってそうなヒトにたのめばいいのかな。
 それって、このあいだ会ったヒト?
 リーチェを知ってるかもしれなかった、カナメとおなじ音をしてるヒト?


 客の誰もが、録音を流していると思っていたのかもしれない。
 また、可能性として非常に高いことではあるが、適当なBGMとして流された結果、誰も気に留めていなかっただけかもしれない。
 題目が終わって楽屋へ引っ込んだフォールへ、惜しみない拍手は送られたものの、ついノってしまい披露した離れ業に対して追求する者はいなかった。
 楽屋には花束も、押し掛けてくる人間もいなかった。
 ひとつだけ置かれていたソファにどさりとだらしなく横になる。ついでに履いていた靴も脱ぎ捨てると、肘掛けの部分に乗せた。
 ……。
 疲れた。
 これ以上ないほど。
「……体力落ちたなー」
 まさかたったこれだけで消耗してしまうとは。
 きらびやかな世界に見えるが、歌の半分は体力でできている。
 なんの準備もしなかったうえに、ブランクが長過ぎて、思っていたよりもからだがついていかなかった。今日の最大の反省は発声や表現方法をいう以前。
 これでもかいというほどの熱気で汗をかかせてくれたスポットライトと。足下からじわじわと攻めてくれた慣れない靴だ。
 この状況が続くとなると、トレーニングメニューを立てないと。
 うっかりと考えて、はたと気がつく。
「……これ、続くの?」
 今夜の舞台でオーナーからお断りをいただければ、当然だが、アリアに言われたように明日からはリーチェと一緒になって舞台をちょろちょろすればいいだけの話だ。
 だが。
 遮る勢いで扉が放たれた。
 そこにはピンクの老婦人が仁王立ち体勢で待機していた。
 ソファでだらしなく伸びているフォールを見ると、まさにずんずんという表現がふさわしく接近してくる。
 迫力に圧されて、彼女は背筋こそ伸ばしたものの起き上がれないという珍妙な姿勢に陥ってしまった。
「お、オーナー」
「フォール」
 低い声で女性は呟いた。顔を伏せている。
 これはやはり解雇だろうか。
 冷静に考えなくても、自分は美人でもないし身長が高いわけでもないから舞台映えはしないし当然の結果だ。――望ましい結果であるはず、だ。
 覚悟を固めつつも沈黙を守っているとそっと手が伸ばされて、皺だらけのそれがフォールのそれを包み込んだ。
 まるで、慰めるように。
 ああ、やっぱりなあ。
 明日からはリーチェと一緒にホール担当か。
 と。
 がばりとオーナーは顔をあげ、にやりとくちを歪めた。まるで悪徳商人の見本のような素晴らしさであった。
「マリアさまの言った通り。あなた、売れるわ」
「はい?」
 売るってどこへですか。人身売買?!
「ヤジもゴミも酒も皿も椅子もなかったでしょう?」
 それはいったいなんだ。
「初舞台で何も飛んでこなかったってことは、それだけ聞く価値があったってことよ。そういうのを投げて舞台を中断させるには惜しいと思うくらいには」
「普通にそんなものが飛んでくるんですかっ?」
 どうやら「へたくそ、ひっこめ」の代名詞だったらしい。それにしても椅子まで投げてくるのか。恐るべし<スラム>。
 ぎこちなく固まったフォールの肩を、構わずにオーナーは抱いた。まるで孫を労るような仕草に、いくばくか心を慰められ。ああ、いい人だなあと感動しかけた次の瞬間。
 婦人が顔を預けているフォールの右側の空間から怪しげな……明らかに善人とはいえない含み笑いが漏れ落ちる。
「売れるとわかったら徹底的に売らないと。そう言われていることだし」
「あ、あの」
 皺の多い手がフォールの髪を掬い、暗い電灯にかざした。光に透けて、そこだけが鮮やかな深紅に染まる。
「いっそのこと、月民の生き残りってことにしてしまいましょうか」
 これだけの色彩。染めているようには見えなかった。
 かつて地球人の歌姫たちはセレーネという最高のステイタスを得るために、まずは外見からとばかりに髪の色を変え、瞳の色を誤摩化した。流石に喉にメスを入れる強者はいなかったらしいが、底辺をさまよう彼女たちはそうすることで這い上がろうとしたのだ。
 今でも、月民とのハーフやクオーターという背景を持つ歌姫が外見を『らしく』見せるためによく使っている手法。そして、それだけの金をかける価値がある偽装でもある。
 他の人間が大金を積んで行っているそれを、フォールは自前でできるのだ。その差額だけでかなりの利益。
「明日からも、よろしく頼みますよ」
「あ、あ、はい」
 腕を解かれて彼女は息をそっと吐いた。なんとかクビにされるということはないらしい。  戸口に気配を感じて視線をあげれば、そこにはエプロンを身につけた少女の姿があった。どこか隠れている風にも見える彼女を呼ぶ。
「リーチェ、どうしたの」
 少女の反応は鈍かった。聞こえていないわけではないだろう。ただ、途方に暮れたよう。
「リーチェ?」
 強い調子でもう一度呼べば、やはりどこか蹌踉とした足取りでフォールの元までやってくる。小さな手がフォールの袖を引いた。
「おや、さびしかったのかい?」
 オーナーがリーチェの頭をぐりぐりと撫でる。
 たしかに、このくらいの年齢の子供であれば、これだけ長くひとりで放っておかれれば拗ねてしまうこともあるだろう。
 だが彼女の様子はそれともどうも違った。どこがどう、と的確に言えないまでも、拗ねているというよりも迷子になってしまったようだった。
 きゅうと袖を強く引き、リーチェはそのままフォールに抱きつく。
「どうしたの?リーチェ。疲れた?だったら今日はもう帰ろうか」
 返事はなく、ただ力だけが強まる。
 どうしようかと顔を上げれば、穏やかな笑みを浮かべながらオーナーが促した。
「ああ、今日はもういいよ。明日は今日よりも少し遅くてもいいから」
「わかりました。ありがとうございます」
 一礼して、フォールは腰にリーチェをぶら下げたまま歩き出した。まだ舞台衣装を身につけていることに気がついたが、この状態ではどうしようもないだろう。
 マリア・シティの治安は良い。<スラム>のなかでは格段に良い。
 それでも、これはもう襲われないことを天に祈りながら歩くしかない。
 帰る先は教会だ。
 いっそのこと、オーナーが先ほど口にしていた、マリアさまにでも祈りを捧げながら行こうか。
 埒のらいことをふと思いながら、いつもの二分の一速で彼女たちは家路を急ぐ。



 そして一ヶ月後。  酒場のオーナーの腕か、偽装作戦が当たったのか、はたまたフォールの才能か。
 どちらにしろ彼女は、酒場の人気歌手になってしまっていた。
 もちろん、正規の雇い主はアリアであるから、与えられた雑事をこなしてから教会を出て、酒場へ行き、そこで歌って帰ってくる。
 おだやかな生活。
 ひっそりと慎ましく、望みを果たしながら行くだけ。
 けれどもそんな生活は長くは続かないのだ。
 他の願いは、少女のものよりも大きくて、切実で、貪欲なものばかりだったから。


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