> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 6−3 |
時刻を告げる電子音を耳に、アリアは扉を開ける。 礼拝堂の地下。 椅子に腰掛けて、相棒が降りてくるのを待つ。 開かれた画面には今はここにいないふたりのデータが展開されていた。 「アリアさん、どう?」 「わからないわよ。……リーチェの方はね」 深く溜め息をこぼしながら、背後に回った青年をアリアは見上げた。 「フォールは<ハデス>が調べてくれたし、なんだかんだで<ストーリーテラー>も協力してくれたから疑問としては解決。奇蹟って本当にあるんだわ」 手を伸ばして彼の頬に触れる。冷たい温度。それが哀しい。早く解放してあげたいと思う。 「春日文書、手に入れましょう」 「別に僕は構わないのに」 うっすらと笑みのかたちを作る顔。 「僕は君と一緒にいられれば構わないよ」 優しい言葉だ。表面だけをなぞれば。何も知らない人間が聞いたら、恋人の睦言に聞こえただろう。 だが、当事者であるアリアにはそうはいかなかった。閃くように紫野の頬をつねる。 「い、いひゃい」 「それはアリア=ルージュと?それとも、その頭のなかに同居してるあんたの奥さんと?」 「自虐的。どっちも、って答えてもどうせ信じないんだろう?」 苦笑混じりにたしなめられれば、反論もできずに手を離した。どうせ何度話し合っても、言葉を重ねても埋まらない溝だと知っている。 それよりも重要なことがある。 居候二人組を首尾よく作戦の舞台に追い込んだことでもあるし。 「話を戻そう。フォールについては解決。問題はリーチェ?」 「そ。<ハデス>に頼んだんだけど、……欠片も出てこないのよね」 少女が如月財閥の関係者であること、それも財閥当主と声を交わせる位置にいたことまでわかっていながら、リーチェがいた形跡が見つからない。 「彼らにわからないってことは、書類には残っていないということか」 状況を紫野が確認する。 「<ストーリーテラー>は?彼女の専門なら?」 かの占い師(仮)は主に口を介した情報の収集と操作にある。 アリアは黙って首を左右にした。 「おそらくだけど……如月財閥の極秘情報でしょ?ヒツギが知らなかったってことは、当主が交代してからだから探るのも難しかったみたい。私、思うんだけど」 区切って、彼女は青年を見上げた。 「あの子、『存在しない』んじゃないかしら」 内容に沈黙が降りる。 書類にない。住民登録も、戸籍も見当たらなかった。自分たちがどれほどの能力を持っているか、正しく自覚しているつもりだ。 これがもし、普通に『隠されている』程度であれば、なんらかの存在の痕跡が引っかかってきて当然。 逆に考えれば。 それがまったくないということは戸籍もなく、正式な書類上にもない……いわば幽霊。『存在しない』存在。 いくら何でもありの<スラム>でも、相当珍しかった。 「今まで出てきたことを寄せ集めると、如月財閥にある春日文書の鍵を探すために育てられたっぽいし」 <エデン>で生活している子供が受けるべき教育を受けていない。もし、書類上で存在しているのであれば、これは困難だ。 しかし、最初から戸籍を抹消して、財閥の深奥に隠してしまえば。あそこであれば、至極容易。 「ヒツギも怠慢だなあ。こんな重要情報を知らないようじゃ、復讐なんていつまでも無理じゃないのか」 「隠されたんだからしょうがないと思ってあげなさい」 「珍しくアリアさんがヒツギ少年のフォローを。まあ、この事件が、拾って来た僕たちのレベルで処理できる程度で良かった」 平手ではなくグーのかたちを作った彼女の拳に、紫野は慌てて話題を変える。 逆らうことはせずに、アリアは攻撃を解いた。 「というか、レベル的には<13人会議>にかけなきゃいけないとしみじみ思うんだけど。 たまたま管轄が私たちのところだったってのがまたうまくできてるわよね。お母さまの手を煩わせなくてよかった」 息を吐き出しながら、細く呟く。 そういえば、と紫野はこの地下に降りてきた理由を改めて思い出した。今までの情報をやりとりするだけならば、わざわざここに来る必要はない。 聞かれては困る当事者たちはみな、出払っているのだ。 時計を確認する。 そろそろステージが開くはずだ。 無言で紫野は腕を伸ばすと、卓上に並んだスイッチのひとつを無造作に押した。 ノイズまじりの音。ややあって、それは完全にクリアになった。それでも、まだざわりとした音の波を拾っていた。 元から静かな場所ではなく、喧噪のなかにマイクが置かれているのだ。 ピアノの伴奏が静かに流れてくる。 そこにそっと人間の声が乗せられた。 「さて、うまくいってくれるかしら」 画面に映るのは三次元のグラフ。細い緑のラインが黒い次元上に描かれる。波形。途切れることなく、伸びて。 マイクからの声と同調して、それは大きくなったり小さくなったりした。 「ふうん、フォールってこう歌うんだ。僕にはよくわからないけど、巧いの?」 「将来有望って言われた程度はあったんじゃないの?訓練不足がたたってて、あんまり状態がいいとは言えないけど」 静かに響くのは、教会と遥か離れた酒場の舞台の演題。事前にふたりは仕掛けを施しておいたのだ。フォールを知るために。 「だけど、多重音声まで出せるのか?本当に」 「前にここの扉を開けたのはフォールで間違いないでしょ。指紋採って確かめたのは紫野じゃない」 実はそこまで検証済みである。 それでも現実にフォールの声を聴いて。彼女の才能を確かめなければ今後の作戦に支障が出る、と。今回、こんなふうに策を弄しているのだ。 否、才能があるとかないとかいうことを調べようとしているのではない。 ふたりのなかではフォールに才能があるのは確定事項。問題は、今後。どれだけ鍛えればいいのか。 まるで自己中心的な理由から成り立っていた。 「さてと、どこまで隠していられるかしらね」 素人がどう背伸びしようと玄人に届かないのと一緒で。 プロが素人を完全に模倣することは無理。 そしてプロの耳を誤摩化すことも。 アリアは望みもしなかった過去の教育のおかげで、聞き分けられる耳を持っていることでもあるし。 ふたりはじっくりと流れてくる音に意識を集中させた。 初めの一音は緊張。 これだけは、いつでも。どこでも変わりはしない。 伴奏は自動演奏のピアノ。昼間のあいだに設定を確認したから問題はないはず。 きらきらと光る衣装。舞台に映えるように計算しつくされている。 かわいらしさや美しさよりもケバケバしいと感じるのは<エデン>で経験してきた発表の場とは異なるからだろうか。 そっとメロディに乗せる一音。 思ったよりも、伸びていない。 ブランクのせいか、と静かに思考する。<スラム>に来てからまともに練習もしていなかった。自主的にも。その影響がひしりと迫る。 教会の礼拝堂、リーチェの前で歌ったときには気にならなかったが、こうして客の前で披露する段になると意識を突いて仕方がなかった。あれは趣味、こちらは仕事、だからか。 せめて音階を外さないようにしよう。 手のひらに滲む汗を逃がしながら、思う。 そう、これは仕事。それも、今までとは違う仕事。 客はフォールの歌を聴きに来ているわけではない。いわば、自分はあってもなくてもいいもの。ただ、あれば『ちょっとは嬉しい』オプション。 ステージは決して高くない。続きになっているレストランの床よりも、階段一段分くらい天井に近いだけだ。 目の端を、歌を気にする風でもなくエプロンのリボンがひらりと通り過ぎる。リーチェが料理を運んでいるのだ。 ほら、リーチェだって気にしてない。平然と皿を運んでいる。 ここは<スラム>。洗練された<エデン>の人間が客にいるわけない。 聞き分けなんてつかない。 誰も。 迷いが、ふと消えた。 見つかったらどうしよう。歌うことで。 そう思っていたけれど。 ここでは誰も気にしていない。あれほど教会では自分の声に執着を示した少女でさえも。 直前までこびりついていた刺が、溶けた。 声が変わった。 グラフを目で追っていた紫野の視線が問うように下げられた。そこには音を拾うアリアの姿がある。 「アリアさん」 「黙って」 全てを言わせずに、彼女が遮る。 指がリズムを取って、上下に動く。 くちびるが言葉を形作る。 「ここで、ふたつ」 音に音を重ねる。 マイクに仕掛けがしてあるのだと聴衆は思ってくれるはず。 それ以前に、そこまで注意して聴いてくれているとは考えられない。 だから。 「みっつ、よっつ……みっつ」 アリアがカウントする。 緑の波形が複雑な波形を描く。それを紫野が追う。聴いたところ、声量は変わっていない。だが、確実に音が違う。単音ではなく、和音になっている。 「ずれた、甘い」 わずかなぶれを彼女は指摘した。もっとも、紫野の耳では微妙なそれを認識することはできず、通り過ぎた。 あと、ひとつ。 最大で四重までいった。 この部屋の扉を開くにも、春日文書にかかっている鍵を解くにも最低でもそれだけ必要。 また、この部屋については一瞬でもそこに引っかかればいいが、春日文書に至っては機密を保持するためか、ある一定以上の時間で歌えることが条件となる。 さあ、彼女は何秒保つ。 |
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