> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 6−2 |
数日後。 手渡された紹介状を頼りに、フォールはリーチェの手を引いていた。 時刻は午である。開店は日が落ちてからだが、いきなり押し掛けるには不安がある。特に夜の<スラム>を女子供ふたりきりというのは勇気というよりも無謀である。 いくらマリア・シティが<スラム>のなかで治安が良い方に数えられるといっても、きょろきょろしながら歩いていれば餌食にしてくださいと言わんばかり。 じっくりと地図をたどるフォールと対照的に、リーチェはきょろきょろと落ち着かない。彼女は危険だからという理由で教会から出たことがほとんどなかったのだ。 紫野が少女を拾って来たのが夜、その直前に記憶を失ったとすれば、彼女にとって<スラム>は見慣れないもののオンパレードだろう。 もっとも、ふたりが歩いているのは、多少の格があるとはいえ所詮は『夜の街』だ。太陽も中天にあるこの時刻、通りのどの店も戸を閉ざしている。 雑多な街の中、目的の店はさらに入り組んだ路地に面してあった。まさに隠れ家という風情だが、店の表は他の薄汚れた建物と変わらない。本当に、これで合っているのだろうか。 疑問を抱かずにいられないほど、小汚かった。 しかし、逃げるわけにもいかず。こくりと息を呑んで。 そっと扉を叩く。 しばらくの静寂ののち、誰何の声があった。嗄れた老婆の声。 「聖マリア教会からの紹介で」 「……ちょっとお待ち」 それだけで通じ、鍵を開ける音が連続する。がちゃりがちゃりぴがちゃりぴぴ……。 (……いくつ鍵があるんだろ……) 待ちながらロックの解除される数を数えて、フォールは呆れてしまう。古風な差し込み型から電子タイプまで、これでもかというほどに音が途切れない。 そしてようやく止んだと思ったら。 わずか開いた隙間、にょっと腕が伸びて彼女の腕を掴んだ。 「わ!」 相手の顔はまったく見えない。ただ、皺の刻まれた手に力任せに引っ張られる。 抵抗を考えるまでもなく身体が斜めに傾ぎ、とっさにリーチェと繋がっていた反対の手のちからを強めた。 「うわ」 リーチェも冷静に驚きの言葉を発する。幼い体力では抵抗も思い浮かばないのか、方向のままに動いた。 もつれてふたり、建物に転がり込む。 音もなく扉が閉じる。 勢いあまって膝をついたフォールは、目の前にゆったりとしたスカートを見た。視線でなぞってあげていけば、上品なレースのブラウス、きれいに染められたピンクの髪が。 真ん中で、育ちの良さそうな白い顔が微笑んでいた。 「いらっしゃいませ」 外で聞いたのとはほど遠い、張りのある若い声だった。ころころと転がる発声。 何故だろうとよく見れば、彼女の手にはボイスチェンジャーが握られていた。 「あらあら、本当にミズ=ルージュに聞いていた通り」 嬉しそうに笑う。出された名前がアリアの姓だと気がつくのに数十秒を要した。そして、慌てて膝を浮かせる。 「あの、あたし、聖マリア教会から……」 「ええ、うかがっていますよ。あの方々には本当にお世話になっていますし、このくらいのことでしたらいつでも引き受けますよ」 フォールの隣、よろりと立ち上がったリーチェの手を婦人はひいた。 ……? 言い回しにひっかかった。 だが、おさない舌足らずな声がそれを流していく。 「おばあちゃんも、声、きれい」 「ありがとう。これでも月民のハーフだからかしら」 穏やかな瞳は赤みがかった茶色。小作りな顔のパーツで、そこだけが月の住人の特徴を表していた。もしかすると、髪も昔はそうだったのかもしれない。 じっと見つめていると、婦人はおっとりとしながらもつま先からてっぺんまでフォールを眺めた。 「あなたは月民の血をひいているのかしら?」 「ひいていないと思います。……万が一、ひいていてもすさまじく薄いと思います」 自分の知る限り、月民の親戚はいなかったはずだ。 「ああ、大丈夫大丈夫。それらしく見えるのだから充分」 言いながら、にっと笑う。 したたかさが溢れた代物。 なぜ配膳係に見かけが重要なのだろう。……ああ、客寄せか。やはり見た目は大事だということか。この場合は『綺麗』というよりも『珍品』としての価値か。 と、納得が翻る。 「そんなわけで今夜からよろしく頼みますよ。うちの客は耳が肥えているからね、頑張って。じゃあ、まずは衣装合わせをしましょうか」 「はい?」 衣装合わせとはどういうこと?揃いの制服でもあるのか? でも、だったら、それをぽいと渡されて終わりなんじゃなかろうか。そもそも、こんな言い方をしないはずである。 疑問符をはりつけたフォールに気がついたのか。婦人は一言付け足した。 「衣装といえば、ステージ衣装でしょう?」 あの。 初めて聞く内容にうっすらと冷や汗すらも感じ。 「配膳のお仕事だったんじゃ……」 聞いた話では『配膳のおばさんが行方不明になった』ので『人手不足』になったのではなかっただろうか。ならば当然、用意されている仕事は『配膳係』だったはず。 いや、もしかすると料理や会場に関わる全般かもしれない。しかし、間違ってもそれ以外を予想することはできないはずだ。 けれども。よくよく思い出してみれば、アリアは一言も仕事の内容を話していなかった。安全な(?)仕事だと繰り返していただけ。 さっと顔が青ざめるのがわかった。 先日のことがある。 歌えばそれなりに目立ってしまう自覚があるから、なんとかして回避したくて。 一度引き受けた仕事を放り出すのは信用問題としてどうかとか。 いろいろなことがぐるぐる回っているなかで、話はとんとん進んでいく。 「さあ、行きましょう。あなただったらどんな服が似合うかしら」 「フォール、お着替え〜」 両側からがっちりホールド。 老人と子供には勝てない。 その真実に流されるまま、仲良く部屋のひとつに消えていった。 特有のアルコールの匂い、野太い笑い声、注文の叫び。渾然とした喧噪をどこか遠くでフォールは聞いた。 舞台の袖だった。 案内されてみればそれなりに大きな店だったここは、それなりの舞台を備えていた。当然だが、<エデン>のそれとは比べるまでもなく貧相だ。 しかし、今までフォールが<スラム>を転々とするなかで見てきたどれよりもしっかりした構えだった。 だから、当然のことながら自分以外の歌手が……例えばクラシックだけでなくジャズやゴスペルなど様々なジャンルの曲を網羅するための人材がいると思っていたのだが、 楽屋と呼べる場所には彼女ひとりしかいなかった。 聞き出した話を総合すると。 (1) 先週までは歌姫が二人いた。 (2) 歌姫は姉妹だった。 (3) 配膳のおばさんと一緒に行方不明になってしまった。 ということらしい。配膳係のおばさんと歌姫は親子だった、らしい。 そのため、どうしようかとあの老婦人――オーナーがアリアに相談したところ「ぜひ頼む」と言ってフォールが派遣されたというわけだ。 それにしても。 どうしてアリアはフォールが歌えることを知ったのか。 たしかに一緒に、わざわざ<エデン>までコンサートに行ったことから、歌を聴くのが好きだとは簡単にわかるだろう。 だが、実際に歌うところを見せたことはない。歌声を聴かせたことも。 また、歌えることと歌うのが好きなことともはっきりと違う。下手の横好きという慣用句があるくらいだ。 フォールが歌を聴くのは好きでも、壊滅的な音痴であるという可能性をあのアリアが考えなかったとは考え辛い。 まあ、悩んだところで答なんかわかりっこなし。 組んでいた腕を解いたところでふと考えつく。 もしかして、リーチェが教えたのかもしれない。あの教会の関係者のなかで歌った姿を披露したのはリーチェにだけだ。 口止めはしたけれど、あの年齢の子供が約束を律儀に守れるかは疑問だ。本人にそのつもりはなくても、どこかでぽろりもらしている可能性がある。 いちおう確認しておいたほうがいいいだろうか。でも、それは墓穴を掘ることになりはしないだろうか。 考えれば、身動きがとれない。どこまでも迷う。 先日のコンサートの一件から、神経質になっているのを自覚している。 見つかりたくないという想いは本物。 けれど。 請われれば衣装に身を包む想いも本物。 このままでいいの? 問いかけながらも、彼女は舞台に上がる。上がってしまう。 時計を確かめ、彼女は惰性で一歩を踏み出した。 |
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