> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 6−1 |
目深にヴェールを被り、女は扉を叩いた。 目的の人物を訪ねるのは今日で二回目。それほど時間をおいたわけではないが、前回とは場所が変わっていた。 ただ、そこが<エデン>とは信じられないほどのくすんだ空気、澱んだ風は相変わらず。 「どうぞ、セレーネ」 ノックして、彼女が名乗りを上げる前に扉から許可が下りる。 ひくりと彼女は息をのんだ。今日、ここへ来ることは誰にも教えていない。どうしてわかったのだろう。否、どこかに隠しカメラでもついているのかも。 すっぽりとヴェールに包まれた状態では、女であることはわかっても顔までは、いかなカメラでも確認できないだろうことは考えないふりをした。 ノブに手をかけると、油が満足にさされていないのかきいきいと鳴く。 細く開いた隙間から身を滑り込ませれば、うらぶれた路地とは正反対の趣き。深く胸を満たす香と視界を遮る彩りの薄布。こればかりは変わっていなかった。 そしてその奥、小さなテーブルの前に座る人影も。 「おかけになって」 顔こそわからないが、この口調、声。独特の間の取り方。 レファンシアが占ってもらった人物に違いない。 「光のなかの貴女の周りの世界に、影はありましたか?」 「……ええ」 くちびるを噛む。認めないわけにはいかなかった。 貴女を脅かす影は貴女の足下にあります。光の世界から、貴女を取り巻く世界をご覧なさい。 占い師の言葉。預言。 そのとおりに、あの小娘はいたのだ。 レファンシアが舞台でスポットライトを浴びている、足下。暗い観客席に。舞台から見ることができた場所に。 「わたくしは申し上げたはずですが、セレーネ。見いだした後の貴女の行動は、正も誤も貴女次第であると」 「存じ上げております。すでに私はどうするかを決めております」 助言はできないとの占い師に、彼女は動じなかった。そんなことは承知している。ただ一点。どうしてもわからないことがあって。その情報が欲しくて来たのだ。 占い師がわかるわけないだろうとの諦めと、この相手ならば知っているだろうという奇妙な予感とともに。 果たして。 「決意は固いのですね?」 「ええ」 邪魔なものは排除する。一度で駄目ならば、二度殺すまでだ。 「わたくしが止めろと申しましても?」 「あなたのお話に関わらず、決心を変えるつもりはありません」 断言したレファンシアに娘は溜め息をついたようだった。もっとも、それは彼女の口を隠した布に阻まれていたので、想像に過ぎない。 「マリア・シティに」 「え?」 「お探しの者は聖母のもとにお」 「ありがとうございます」 続きを聞かずにレファンシアは終わらせた。 不思議そうな目をする少女に微笑む。場違いな、まるで無邪気な表情だった。 「それ以上は言わないでくださいませ。私の決めた途はただ一つ。なのに聞いてしまっては決心が鈍りそうですもの」 欲しい情報だけを得て、軽やかな足取りで扉へと進む。 再びノブに手を伸ばして、彼女は「気がついた」というように振り返った。 微動だにしていない少女に首を傾げる。 「そういえば、口座が変わっていましたけど」 「え、ああ、はい」 唐突な話題に少女は面食らったようで。けれども、すぐに意味をすくいあげた。 「どこに振り込みましょう?今日の相談料」 なんとも生真面目な女性に占い師はくつり笑った。口元は隠されているからわからないが、瞳はやわらかく和んでいた。 「必要ありません」 「あら?」 「普通の方達は、わたくしがあのように申し上げますと、それこそ柳のようにゆらゆらと意見を変えたりなさったものです」 あのように、とは。レファンシアの決心を確かめたときのことだろうか。 「でも、貴女はそうはなさらなかったでしょう?ですから、これはわたくしからの敬意だと思って受け取ってくださいませ」 「では遠慮なく」 さらりとレファンシアは頷く。たしかに少女の台詞はこちらの不安をあおるような、そんな代物だった。だが、だからといって。 そういうものに出くわすたびにころころ転がるようでは、今まで立ってはこれなかった。 今更、自分の思考回路を、スタイルを変えようとは思えない。 だったら、それに従って生きるしかない。 これまでそうしてきたのと同じように。 踏み出した外は、雨よけのためのアーケード。 星空なんて見えやしなかった。 閉ざされた天のもと、彼女は歩を進めるだけだった。淡々と。 嫌な役どころよねえ、と少女は溜め息をついた。 この件に関しては、自分は原則不介入だ。 春日文書が絡んだ時点で、この件に関する当事者のアリアに逆らえるわけもなく。如月財閥が絡んだ時点で、そちらの件に関する当事者のヒツギに文句をつけられるわけもない。 理解してはいるのだが、競争激しい世界で、ああいうふうに確固たる信念のもと生きている人間をみるとどうしても救いたくなる。 レファンシアの行動が法に触れるか否か。倫理に抵触するかどうかは、別問題として考えて。 彼女はたしかに一般人から見れば『悪』としか判断できない行いがある。 それでも、占い師という表向きの立場、<ストーリーテラー>という裏の立場から見つめてきた多くの人間と比較すれば、まだましな面がある。 第一、彼女自身だって、すでに何人かを命を奪わなくとも社会的に抹殺している。……それができる立場と力があるがゆえに。 頭を振って、暗くなりかけた思考を上昇させる。 レファンシアの採ろうとしている手段はわかっている。 それは成功しない。 情報からの推測ではなく、必然。 対象はマリア・シティのなかでも最も安全な場所にいる。 腕利きの始末屋であれば、ちょっと調べれば依頼をこなすのが不可能であると悟る。 <スラム>も<エデン>も問わず、半ば伝説と化している彼女たちの組織--――<セキュリティシステム>の<サービス>を敵に回そうというのは、孵りたてのヒヨコくらいだ。 ……別に無理矢理に相手を引きずりおろさなくとも、彼女の立場は揺るぎないのに。 あれほどの確固たる意識を持っているのに、どうしてそれに気がつかないのだろう。 「アルバイトしない?」 さらりとアリアが口にした。 腰のまわりにまとわりつくリーチェをなだめていたフォールは、最初、それが自分に言われたのだとは思わず。 一拍、遅れて顔をあげた。 「アルバイト?」 「そう」 「あたし、いちおうここの従業員ってことで、お金をもらってるんですけど」 だから雇い主でもあるアリアが出し抜けにそんなことを言い出した理由がわからない。 いや。 かなり嫌な予感が背筋を駆け上がる。 「ま、まさか……!」 悲壮な声に、リーチェが何事かと顔をあげた。そのまっすぐな視線も目に入らず、フォールは想像を吐き出した。 「解雇ですか?解雇なんですね、あたし?!そりゃあ、ここに来てから数えきれないほどの電化製品を故障に追いやりましたし、当然かも……。 いえ、時期的に考えればそれは今更だし、だとするとこのあいだ、間違って患者さんの電子カルテを消去しちゃったことがとうとうバレて……!」 「……いや、違うから。というより、最後のは聞いてないわよちょっと」 たしなめつつも、混乱するフォールが漏らした情報に眦がつり上がる。やらかした悪事をどうやら黙っていたらしい。 「そういう話とは別物。今、あなた、夜ヒマでしょ。その時間を利用して見ないかって話。週一で通って来てるピンクの髪のおばあさん、いるでしょ?」 「はあ」 話題に上った人物についてはフォールも知っていた。毎週、この教会兼病院に薬をもらいにやって来る老婦人である。 髪の色は多少、目立つけれども<スラム>に不似合いなほど品がいい。過去を探らないのが原則だが、彼女の勘では訳あって<エデン>から堕ちて来た人物だ。 「彼女、酒場を経営してるんだけど、先週、働いてた配膳のおばさんが行方不明になっちゃったらしくって人手不足らしいのよ」 そこで、次の働き手が見つけるまででいいから、教会の誰かが手伝ってくれないかということらしい。 「もちろん、ここで働く分のお給料も出すわ。それにプラスしてなんだから悪い話じゃないと思うけど」 「……信頼できる場所なんですよね」 フォールが念を押す。<スラム>の酒場というのは、犯罪の舞台になる場合も多い。 現に、フォールも教会にたどり着くまでにいくつかの酒場や食堂を渡り歩いて来ているが、生きていくためとはいえ、身体を文字通り切り売りするハメに陥っている。 ちなみにこれ以上だと、明らかに外見が変わってしまうのでいくら金になるとはいえ遠慮したいところだ。 切実なフォールの心配を、アリアは手をひらひらとしてはらい飛ばした。 「大丈夫、大丈夫。リーチェも大丈夫なくらい。そうだ、どうせだったら連れてっちゃえば?社会勉強だと思って」 「べんきょう?」 ふたりの間を所在なげにうろうろしていた少女が、自分に話題がふられたことを敏感に感じとって割り込んでいた。 背中に流した白い髪をなでながら、それでもフォールは懐疑的だ。 たしかに治安の面ではアリアのいうとおりに大丈夫なのかもしれないが。 リーチェの場合は目立ちすぎる。 <スラム>では幼い子供も労働力として数えられているから、リーチェがそういった場にいること自体は珍しくもない。 しかし、忘れてしまいがちだが、彼女は記憶喪失なのだ。 そのうえ目立つ。ウサギを想像させる外見は、たとえいかがわしくない店であっても、リーチェが幼くても。それなりに荒くれの男たちの興味をひくだろう。 フォールの懸念を正しく読み取り、だが、アリアは大丈夫だと重ねた。 「誰もが入れる店ってわけじゃないの。紹介状がないと、ってやつ。変な人間なんか、間違って入ってこれる場所じゃないんだから」 ここまで繰り返されて、なんとかフォールも納得した。 脇で興味心身の視線を注いできたリーチェの頭をぽんと叩いて手を離す。 「じゃあ、行ってみることにします。リーチェも一緒に」 「ありがとう、後で地図と紹介状を渡すから」 アリアが踵を返した。リーチェは久しぶりに外出できることに喜んで、はしゃぎ声を上げている。 扉の向こうに消えた背中を見ながら、フォールは複雑なこころを覚えずにはいられなかった。 本気のレファンシア=デディの。当代一の歌姫以上の声があると仄めかしたアリアの。 その解答を、未だに教えてもらっていない。 |
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