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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 5−5


 劇場のまえ、タバコの紫煙がゆっくりと宙に溶けていく。 健康被害云々で規制されたものの、結局この手の嗜好品が姿を消すことはなかった。 もっとも昔と比べて税金がシャレでないほどに高くついているため、本当の金持ちの手を出すものともみなされている。
 エアカーに寄りかかって時計を確認する。
 指定された時間まで、あと少しある。
 短くなったそれを携帯の灰皿に押し込んで、彼は周りを確認した。
 注目されている。
 それは密やかなものであった。ちらちらと鬱陶しい視線が飛ばされているだけだ。 アジア連邦の上流階級の人間はあからさまに声を上げることを良しとしない風潮があるので、有名人を見かけたときはたいていこうなる。
 ここしばらくご無沙汰だったとはいえ、ヒツギは慣れている。
 今こうやって注目を浴びているのは『カナメ=キサラギ』として見られているからだろう。
 もとが一卵性双生児なのだ。よほど親しい人間でない限り、見分けはつかない。 それに数年前までメディアの前に『カナメ』として立っていたのは現在の『カナメ』ではなく自分なのだ。
 しかも、如月財閥はレファンシアの後援についての問題を抱えている。マスコミの注目度も高い。
 よって、現在の状況も仕方がないといえるだろう。
 二本目のタバコに火をつける。
 足下の磨きあげた革靴が目に入った。
 アリアとフォールを送り届けたときのよれよれ服装とは異なり、今の彼はフォーマルなスーツ姿である。 モズク色だった髪も染め直してきた。サングラスはかけたままだが、有名人の杜撰な変装の一環として捉えて欲しいところだ。
 エアカーはそのままだが、これだけで人間というのは簡単に錯覚する。
 お忍びでやってきた若き財閥当主、と思い込まれるだろう。
 目的通りに。
 調べれば、『カナメ』がこの時間は取引先の重役と食事をとっていることは簡単に明らかになるが、彼という実物がこの場にいる以上、一流のマスコミを抑えたとしても噂になるのは避けられない。
 そして、ヒトの口ほど恐ろしく有効なものはないのだ。
 ただし、写真や映像を撮られないように用心はしている。自分の存在をあちらにアピールするつもりはなかったので、相方に頼んで巧く処理してくれるように頼んでおいた。
 おかげで、こころおきなく目立てるというわけだ。
 ゆったりとした気分で煙を吐き出す。
 ぼんやりと溶けていくさまを眺めていた視界のむこう、二人連れが見えた。ドレスの色からして、待ち人に間違いない。
 アンコールの途中で抜け出すといっていたから、彼女たちも目立った。なによりも、こういうコンサートの会場で月民を連想させる色彩が、それだけで目に留まるのだ。
 預けていた背中をしゃんとして、軽く彼は手をあげた。アリアも気がついたのだろう、後に続く少女がつんのめる勢いにもかかわらず、こちらへの方向転換を仕掛けていた。
「待たせてしまったかしら?」
 よそいきの笑顔でアリアが微笑んだ。
 滅多に拝めないそれに、やはり笑顔で返しながら彼も答える。『カナメ=キサラギ』として。
「ええ、多少は」
「申し訳ございません。やはり、当代一と謳われる方のお声を一度は聴いておきたかったので、無理を申し上げたのですね」
 普段のアリアを知るものであれば鳥肌の立ちそうな調子だった。証拠に、彼女の背後でフォールが固まっている。……下手に騒がれるよりも都合がいいので放っておくが。
「それで、気は済みましたか?」
「はい。それでは行きましょうか」
 言葉で、彼はアリアをエスコートした。自然な仕草で彼女の手を取るとエアカーの後部座席に導く。フォールに対しても同じようにして、自らは運転席に乗り込んだ。
 この時点で、一行に与えられる視線は痛いほどだ。
 気にしないフリを押し通してエアカーを発進させる。
 声はなくとも、ざわめく雰囲気が大きくなったことは簡単に察せられた。
 よくよく考えれば、あの巨大財閥の若当主が直々にエアカーを運転するわけがないのだが、映像として網膜に焼き付いてしまうために常識は片隅に追いやられてしまう。
 無責任な宣伝用員(ヤジ馬)を残して、エアカーは<エデン>を後にする。
 まさか<スラム>へと向かうなど、乗っている当事者たち以外は予想もできなかった。



「……どういうことなの」
 楽屋に戻ったレファンシアは椅子に崩れた。
 自分としては満点をあげたかった今日の舞台。
 途中までは、否。最後の一歩手前までは、本当にうまくいっていたのに。
 あの小娘。
 生きていたなんて。
 この<エデン>に堂々と姿を現すなんて。
 アンコールの途中で席を立つなどという無礼よりも、少女の存在の方が衝撃が大きかった。
 雨の中、崖から落ちたと聞いた。<スラム>へ転落したと。
 それだけわかれば十分だった。生を否定するには。
 殺人ウイルスの住む雨。濡れたら、少数の例外を除いて死を免れることはできない。そして<エデン>から落ちたのだ。無傷では済むまい。 <スラム>の野蛮人の手で、全てを奪われると確信してたのに。
 あろうことか、どういう手段を使ってかこのコンサートに潜り込み。
 さらに許せないことに、キサラギの当主のエスコートで帰ったという。
 レファンシアを気遣って箝口令が敷かれているのだろうが、ひそひそ囁く声を完全に遮ることはできていなかった。
 このままではいけない。
 どうにかしなければ。
 二年前、自分ではなくあの少女が候補に挙がったときと同じくらいの、それ以上の焦りが回転する。
 空転する思考がはじき出すのは、あのときと全く同じ答え。
 自らの地位を脅かすものの排除。
 自分の望みを邪魔するものへの制裁。
「……今度は、失敗しないようにしなければ」
 低く呟かれた女の声は、歌姫のものとは思えないほどにひび割れていた。



「アリアさん……どういうつもりだったんですか」
 フォールがやっと言葉を発したのは車窓が変化したあたり。<スラム>へと踏み込んだときだった。
「どういうって、どういう意味?」
「だから、どうしてアンコールの途中に席を立つなんて常識はずれなこと」
「帰ってはいけないということはないはずよ。それに、あれでキサラギ財閥のバックを得ようなんて思い上がりも甚だしいわ」
 視線を外へ固定したまま、彼女は言い放った。声音も内容も、傲慢そのものだった。
 レファンシアの今日の公演は素晴らしかった。彼女の気合いと情熱が伝わってきた。音楽学校で専門的な教育を受け、将来有望とされた自分がそう思ったのだ。間違いない。
 なのに、そんな言い草はあるのだろうか。
 どうしてそんなことがいえる。
 たかだか、<スラム>で医者の助手をしている女に。
「考えていることが全部顔に出てるわよ」
 エアカーの窓に映っていたフォールを認めて、アリアの口の端があがった。無知な子供をなだめるような、あやすような表情にかっとなる。
 しかし、怒りを含んだ騒音が吐き出される寸前で、アリアが先制する。
「だって、あれ以上の声を知っているもの」
 不意打ちで振り向いて、赤く染まっている少女の顔を覗き込んだ。
「知りたい?」
 疑問系であったが、有無を言わさぬ迫力があった。ここで断っても、きっと何が何でも彼女は『イエス』を引き出すだろう。
 奇妙な確信に引きずられて、フォールは頷いた。
 それしかできなかった。
 しかし。
「そうでなきゃ、納得できません」
 その想いも、まぎれもない本物。


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