> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 5−4 |
音の連なりが肌を撫でる。瞬間、音は音から進化する。身体を揺さぶる『何か』になる。 それが心にまで届くかは歌い手の力量次第。 奥底から共振する場合もあれば、引っ掻いてそれで終わりの場合もある。前者であればあるほど、自分に与える影響は大きく。 恐怖とも錯覚できるほどのプレッシャーは、けれども一番に得るものが大きい。 当代一と呼ばれるだけあって、レファンシアの歌声は素晴らしかった。 たとえ耳を塞げと命令されても。逆らうだろう自分をフォールは想像できた。 記憶にも鮮明な過去。 あれだけのことがあったのに。 感情を凌駕するほどの感動が、歌姫の声にはあった。 幕が降りるごとに盛大な拍手がわき上がる。つられるように叩いて、隣をみるとアリアはつまらなさそうな表情で前を見ていた。 もとより貰い物のチケット、本人も「興味がないわけではない」という程度だと話していたから当然の反応なのかもしれない。 あるいは、月民の歌姫のことをあげていたから、無謀にも比べているのかもしれない。 「次で終わりですね」 「そうね」 そっと話しかけると返事が即座にあった。 演目にあったタイトルは次で終わりだ。もっとも、こういったコンサートではアンコールが数曲ある。 まだ、ゆっくりできる。 そうフォールが考えて、再び椅子に背を深く預けたときだった。 アリアの指がバッグをまさぐり、携帯端末を取り出していた。公演中の操作が厳密に禁じられているわけではないが、常識として使わない。 しかし、アリアはためらいもなくその電源をオンにした。 ぼんやりと液晶が光る。ライトが落とされていた客席にあって、非常に目立つものだった。 (あ、アリアさんっ!) こころで叫ぶ。止めて欲しいとは思っても、あっちは雇用主、こっちは従業員。 ずばり言うことができない力関係である。 前後左右の視線が集中しているのがわかる。きっとこれは舞台からも目立っている。そうハッとし、慌ててそれとなく顔を伏せた。 ……周囲からは連れの非常識な態度に恥じらっているよう見えるよう。その実、舞台の上のレファンシアが自分の顔を認めないように。 短いようでいて、長い時間を過ごす。 ちらりと視線を隣に流せば、端末を操るアリアの手が見えた。 どうやら帰りのための車を手配しているらしい。とはいっても、行きと一緒で<スラム>から呼び出しているようで。今度は場所に見合った格好をしてこいとの文字列が読めた。 (そんなこと、今、しなくてもいいのに……!) フォールは頭をかきむしりたい衝動を抑える。 心の声が通じたのか、用が終わっただけなのか。 再び、周囲が薄暗さで満たされた。 ほっとしてフォールは、歌姫へと視線を戻した。こちらにことさらの注意を払っている態度はなかった。 なんとかこのまま無事に終わって欲しい。 歌に聴き惚れながらも、彼女は切実に思う。 今の曲が最後。たしかこの後にやたら長い間奏が入って、だから。残りはだいたい五分ちょっと。 アンコールを含めても二十分程度だ。 大丈夫。きっと、否、絶対。 念じて、顔を改める。 怖れることなんて、別にない。 隣のフォールが考えていることなんて、アリアにはお見通しだった。 自分がフォールのように、ひたすらの逃げの体勢を打ったことはない。 だが、追いつめられた『王者』が。 いかほどの反撃を試みるのか。 合法か否かを問わず。 捨て身としか受け取れない作戦。 知っているからこそ、フォールが味わっている恐怖に似た感情も理解できる。 おそらく自分と彼女が違うのは、そこが一番なのだろうとアリアは思考する。 かつて似たような状況に置かれたとき、彼女は無関係を装った。 かつて似たような状況に曝されたとき、彼女はがむしゃらに立ち向かうことを選択した。 そしてフォールは。 フォンテール=グリークファーストは。 全てを捨てようとして、けれども捨てきれずに今に至る。 それほどまでに情熱を傾けるものがあるということが、うらやましくもある。 だからだろうか。 戻してやりたいと思うのは。 本人は望んでないかもしれない。 今のまま、ひっそりと<スラム>に埋もれ。ささやかに趣味としてそれを楽しみながら。ある意味、平穏に生きていくことを望んでいるのかもしれない。 <スラム>にいて、彼女が汚れずにこれたとは考えがたいから、<エデン>に戻れないとも考えているのかもしれない。 まったく、バカなことを。 携帯端末に映っていた時間を思い出す。 これから打つ一芝居は面倒といえば面倒。だが、誰にも損にはならない。強いていえば舞台の歌姫だけが打撃を受けるが、自業自得と言いきってしまえばそれまでである。 フォールを正しい居場所に戻して、ヒツギはカナメに一泡吹かせ、アリアと紫野は目的のものを手に入れる。 作戦開始を告げる、拍手の嵐が客席から湧きあがった。 二年ぶりの充実感に、フォールは夢中で手を叩いていた。 舞台ではレファンシアが一礼している。 今まで<スラム>で足を運んだ劇場とは、言うまでもなく格が違った。違い過ぎた。 世界でも屈指の歌姫と、<スラム>で細々と歌い繋ぐ人間とを比べてはいけないとわかっていたが、これは正しくない。比べるだけ無駄、が正解だ。 何人もの男女が立ち上がり、アンコールを要求している。 フォールもそうしたかったが、立場から諦めた。代わりに、腫れてしまうのではないかというくらいに手を酷使する。 するすると降りた緞帳が、かすかに震えた。 アンコールだ。 期待に満ちた視線が一斉に注がれる。 レファンシアのドレスがゆっくりと現れる。いつのまに着替えたのか、先ほどまでとは違った鮮やかな群青。 (『月移民』だ) 色彩と、あらわになった衣装の型からわかる。 フォール以外の観客も悟った。純血のセレーネのために書かれた曲だが、現在は地球人も歌えるようにアレンジが加えられている。 元の多重音声を生かした構造になっているために非常に難易度が高いことでも知られている。これをアンコールに持ってくる、その自信が眩しかった。 前奏が静かに流れてくる。 レファンシアの腕が大きく動いた。 最初の一音。 それを聴くかどうかのタイミングだった。 アリアが立ち上がったのだ。しかも、フォールの手をがしりと掴んでいた。 ……明らかに、アンコールを放棄して帰る、態度だった。 「あ、アリアさん?」 突然のことにどうしていいかわからず、なすがままにフォールは腰を浮かせかけた。 が、すぐに振り払おうとした。それを許すアリアの握力ではなかった。同じ若い女性のものとは思えないちからで締め付けている。 「帰るわよ」 はっきりとした発音。 周囲の注目を肌で感じた。 「でも、アンコール……」 「聞いたって意味ないわよ」 さらに大きな声だった。断言だった。 ざわりと波のようなうねりを感じた。視線が注がれている。 いったい、なにを言い出したのだ? まるきりマナーを無視した行動についていけず、呆然とするフォールの手を今一度アリアは引っ張った。よろめくようにして通路へと飛び出して、幼子のように引きずられる。 大きな声を上げかけて、とっさにそれを呑み込んだ。目立ってしまう。それだけは。 だが、願いは霧散した。 アリアのためではない。もっと別の方面からの直撃だった。 「フォール?」 囁くように呼ばれたそれ。反射で振り返ると、そこには見覚えのある顔が浮かび上がっていた。記憶にあるよりも、数段大人びた、美しい。 「フォールでしょう!」 今度はさらに大きくなった音量に、彼女は失敗を悟った。無視しなければならなかったのだ。この場で、自分を呼ぶことができるのは目の前を行くアリアだけだ。 それ以外では、断ち切らざるを得なかった過去の影だけ。 腕が伸びてくる。 捕まるわけにはいかない。見つかるわけには。 思って。 振り払う。 相手の顔を見ることはしなかった。予想はついていたが、一度でも認めてしまえばばっさりとした態度をとれなくなってしまう。 流されるようにして<エデン>にとどまることはできない。 二年前、この世界を壊さないために背を向けた自分の行動が。意味を失ってしまうから。 「フォール!」 もう一度、呼ばれる。振り向くなんてことはしない。強引に誘導されるアリアに任せるように足を動かした。 逃げないと。 ここから逃げないと。 そればかりが渦を巻く。 幸いにも、声の主は席を立つことはしなかったようだ。それでも。 自分を追いかけてくるざわめきが拷問のようだった。長いような、あるいは一瞬だったかのような時間を抜けて、扉にたどりついた。 アリアが握りしめていた手を離したが、もはや彼女に従うほかはないことは明白だった。 暗いホールを裂くように、放たれた扉から光が差し込む。常識や配慮はアリアのなかに存在しないようだった。めいいっぱいの開放で、舞台よりもこちらの明るさが増した。 まるでバックライトだ。 逆行の中、アリアが手を差し伸べた。 「行きましょ」 どうすればいいかわからずに、フォールはただ歩を進めた。 会場の注目を集めているのを肌で感じてしまったから。 なるべく俯いて。 顔を見せないように。 それなのに、最後の誘惑。 これだったら、ちょっとくらい視線を投げても。様子をうかがっても、わからないんじゃないの?自分が『誰』であるかということは。 開け放たれた扉をくぐるその瞬間。 フォールは舞台を見た。そのうえにたたずむ歌姫を。 歌姫は歌っていた。しかし、意識は歌になかった。 セレーネ=レファンシアはこちらを見ている。フォールを。 理解している……! 直感だったが、確実だった。 ばっと顔を背けると、裾が翻る勢いで歩を進めた。 生きていたのね?のこのこと。 顔の判別も難しい距離だったにも関わらず、レファンシアの視線が語っていた。 扉が閉まると同時、フォールは寒気を堪えるように両腕を抱いた。身体の芯から冷える空気が這い上ってくる。体温が奪われていく錯覚。 なんとか足にちからをこめて、その場にとどまった。とても歩けそうにはなかった。 「フォール?帰るわよ」 気づいているのか、いないのか。だいぶ先で、アリアが振り返ってこちらを見ていた。光を受けた赤い髪が、不気味な満月のよう。 こくりとフォールは頷いた。 そうだ。帰ろう。 安全な場所へ。<スラム>へ。 <エデン>で生きていた自分は死んだのだ。幽霊は、どんな理由があっても舞い戻ってくるべきではなかった。 もう二度と、この世界には来ない。 静かに誓って、彼女は揺れる地面を歩き出した。 |
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