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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 5−3


「はあい、マイ聖母」
 やたら高いテンションでクラクションを鳴らしたのはモズク色であった。
 よれよれのシャツにジーンズ、適当にとりあえず引っ掛けてみましたというジャケット。日も暮れるというのにサングラス。
 なにやら怪しげな薬に手を出していると言っても、十人中の誰かは納得してしまうであろう。
 事実、フォールは完全にひいていた。
 この青年には見覚えがある。リーチェの身元の件で、自分が外出していたときに訪れていた人物だ。 だが、あのときにあれほど常識的に挨拶を交わせたのが夢幻ではないかと思いたくなる格差だった。
 エアカーの前で完全に足が止まってしまったフォールとは対照的に、慣れているのかアリアはずんずんと近づいた。
 そして。
 遠慮会釈なく、青年の耳を引っ張った。
「ヒツギ」
「はい?なんでしょう?」
「わたしは目立たないようにって言ったわよね?目立たないって言葉の意味をわかってるのかしら、あなたのこの優秀な頭は」
 耳を引っ張られたまま青年はへらりと笑った。
「わかってますよ。こうでもしなきゃ、ぼくが目立つじゃないですか」
 否、今日の方が十分に目立ちまくっている気がする。フォールは思った。
「……ごめん、私が悪かった」
 細く長い溜め息をついて、アリアは素直に手を離した。
 ……どうして、あの説明でアリアも納得できるのだろう。世の中、謎に満ちている。
 そうこうするうちにアリアはちゃっかりと助手席に乗り込んでいた。我に返って、フォールも後部座席に滑り込む。
「はい、じゃあ姫さまたちを劇場までごあんなーい」
 ふざけたかけ声とともにアクセルがかかる。
 どこで調達したのか不明だが、エアカーだけはぴかり磨き上げられていた。型がかなりの旧型であるのは予算の問題か、あるいはアンティーク趣味なのか。 どちらにしろ、『古くさい』というイメージは与えない。
 やや固めのシートに腰を下ろして、隣の前後で繰り広げられる会話を聞く。
「それにしてもごめんなさいね。頼んじゃって」
「いえいえ、貴女のためならこのヒツギ、たとえ火の中水の中」
「……やっぱり栄に頼むべきだったかしら」
「それは無理でしょう。あの人が乗ったら、その時点で重量オーバーですよ」
 そんなに重いのだろうか、紫野は。
 見た目はかっちりとしているが、筋肉質というわけでもないし太っているわけでもない。 第一、エアカーは一般的な乗り物だ。普通に考えられる肥満の範囲の人間を定員だけ数えても余裕なはずなのだが。
 はて、と疑問を覚えたところで。アリアがフォールのストールを引っ張った。
「<エデン>よ」
 指差した先、黒光りする金属の扉があった。いわゆる検問というモノだ。 普通は<スラム>から<エデン>に入るには厳重なチェックが幾重にも設けられていて、通過はまず不可能。
 それが、今日に限っては。
 運転手が軽くかざしたチケットで、質問さえなく素通り状態。
 突如として風景が変わる。
 それまでのごみごみとした景色、崩れかけたコンクリートの塊、土地を浸食する勢いで伸びる雑草、目を凝らしてようやくわかる人間の住んでいる証。
 廃墟と見紛うばかりの<スラム>と比べれば、ここはどこかと思う。同じ地球上であるのかと。
 それほどまでに違うのだ。
 一定間隔で並ぶ街灯のあいだをエアカーはすべっていく。道をいく男女がこちらに注目もしないことに安堵した。 <スラム>から来た事が知られるのは、なによりも恐ろしい気がした。
 やがて、劇場やホールなどの娯楽施設の建ち並ぶ一角に到達し、そのなかでも真新しいホールの前でエアカーは止まった。
「はい、お着きですよ。お姫さま方」
「ありがとう。予定通りにして迎えに来てちょうだい」
「了解」
 軽く彼が手を上げると同時、エアカーの扉がすいと開いた。アリアが最初に降り、フォールへと手を差し出した。
 素直にそれをとると、かつりとヒールが地面を打つ。久しぶりの視界の高さに、衣装の感覚に身が引き締まる。
 背後で去り行くエアカーを見送って、アリアがにこりと微笑んだ。
「では。いざ行かん、戦場へ」



 客の入りは上々だった。
 チケットは完売している。
 普段のレファンシアは決して開演前に会場を目にすることはない。けれども、今日に限っては例外だ。 招待した如月財閥の御曹司がやってくるのか否か。本人は無理でも、せめて代理人くらいは来て欲しい。
 控え室には続々と花やメッセージが届けられていたが、如月財閥からのものは未だにない。それも彼女の焦りに拍車をかけていた。
「セレーネ=レファンシア」
 背後からそっと付き人の少女が声をかけた。
「そろそろ、お時間が」
「……わかってるわよ!」
 強い調子で放つと、おどおどした少女を突き放すように踵を返した。真っ青になった表情が見えた気もしたが、気にする事などない。
 彼女がこの世界でもっとも力ある存在なのだから。



「けっこう混んでるわね」
 チケットに記された番号を確認してふたりは腰を下ろした。
 上流社会特有のざわめきと、貴金属のきらめきが頭上を飛び交っているが。そんなものはふたりの興味の範疇になかった。
「へえ」
 と呟きながらアリアはパンフレットをめくっているし、フォールは前傾姿勢になって前の座席に突っ伏していた。
「大丈夫?具合悪いの?」
「……ひとに酔ったみたいです」
 よろよろと反応を返す。
 もっとも、これは真実ではない。
 この程度の人ごみで酔うような華奢な神経はしていない。していたら舞台なんぞに立てない。久しぶりだとはいえ、今も昔もそれは変わっていない。
 答えは単純。
 知り合いがいるのである。
 ぽつぽつではあるが、学校に通っていた時代の顔見知りが。
 そりゃあ、音楽学校だったのだから知った顔があるのは当然予想できる。そのくせ、フォールは会場に来るまでまったく想定していなかったのだ。
 ばれませんように。
 そればかりが頭の中をワルツする。
 いつもならば幕が上がるまでのこの時間ですらも。コンサートの楽しみのひとつであると断言できるのだが。
 今日のこれは拷問である。
 しかも、あろうことか先ほど舞台の袖にちらりと人影が見えてしまった。
 いつもは姿を見せないはずの人間を認めてしまい、パニック寸前だったりする。こうなれば、もう始まるまで顔を伏せているしかない。
 そして数分後。
 待ちに待ったベルが鳴った。
 開幕である。



 薄暗い照明でも、訓練された視界には支障はない。
 皆が舞台に集中するなか、アリアはひとりさりげなく目を周囲に走らせていた。
 目的の人物の席の配置は<ストーリーテラー>から聞いて頭に入っている。だが、求める顔はそこになかった。いちおう空席ではないから、代理人だろう。
 本人が来ないのは予想済みだった。すでに審査は終わっているのだから、当然だろう。駄目だと知っているのに何度も足を運ぶほど、如月財閥の当主はヒマではないのだ。
 如月の判断は正しい。
 実際に歌声を聴いて、アリアは冷静に判ずる。
 たしかにこれでは無理だ。気合いの入っているコンサートなのだから、持てる最高の技術を尽くしているはず。もし、できるのであればやっているだろう。月民の多重音声。 ないということは、無理だということ。
 もっとも、今のご時世では仕方がない。
 すでに純血の月民など自然には生まれない。たった三桁の年月で混血はあっという間に進み、取り戻せなくなった。
(あの女は予想してたのかしら)
 ぼんやりと思い。
 回答はすぐに与えられる。
(予想よりも、わずかに早かったけれど、それでも差はあまりないわ)
 もともと、自分は計算は得意ではなかった。
 最終的には生体機械に足を突っ込んだけれど、まりあを殺してしまうまでは心理学の世界にい……。
(いけない)
 慌てて彼女は流れる記憶を断ち切った。
 引きずられた。思い出をたどるときに避けがたい症状だとは知っているが、アリアを不愉快にさせるには十分だった。
 いらだちの矛先をそれでも自分の内側に向ける。慣れた感情コントロールのすえ、イライラを決意へと変換する。
(まったく、さっさと春日文書回収して決着つけないと!)
 そして、ちらり横を見た。
 舞台を食い入るように見つめている少女。
 多重音声、それも。
 礼拝堂の地下室の鍵を突破できるだけの代物。あそこを開くためには、最低でも同一人物の四音の同時の音階が必要なのだ。 もちろん、からくりを知ってしまえば録音という手段はある。だが、何も知らないはずの彼女がそんな用意をできるわけがない。 だとすれば、フォール自身が四音の多重音声の持ち主だと結論するしかない。
 これが二百年前であれば、これほどまでに疑いを持たなかっただろう。声の持ち主は珍しかったが、探せば存在していた。今ではもう、探してもほとんど見つからない。
 彼女が、彼らの手の届くところまで落ちて来た。
 おそらく、この現実こそが奇蹟。
 あとはどうやって確かめるか。
 ストレートに尋ねる方法もあるが、<エデン>から離れた<スラム>にいてさえ偽名を使っていた彼女だ。素直に応えてくれるとは考えにくい。
 どうにも尻尾を出さない彼女に焦れて、人脈でここまで引っ張り出してきたのである。
 アリア自身が、その容姿ゆえにこういった場面では目立ってしまいがちだ。髪と瞳、純血の月民特有の色彩がいやでも視界を惹き付けてしまう。 だから、これは本当に最後の手段だった。
(それでも、こう暗いと見えないのよね〜)
 スポットライトの中の歌姫は鮮やかでも、舞台から見ればこちらの顔は明らかではない。 座っているのも、正面ではあるが距離はけっこうあるので目鼻立ちまでくっきりと見分けてくれるわけではないだろうし。
 となると、なんとか自分たちが目立つ方法をひねり出さなければならない。
 かつて『世界最高の頭脳のひとつ』と賞賛された電子回路が、ほどなく答えをはじき出した。
 暗闇の中、わずか楽しげに歪んだくちびるを。
 隣に座る少女ですら、確認はできなかった。


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