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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 4-2


図書館でフォールは手を伸ばす。
背表紙には「近代音楽歴史人物辞典」。タイトルそのままに、最近三百年程度の音楽史における重要人物について掲載した辞典である。著名な音楽家は、もちろん才能によって新星のように現れるケースもあるが、多くの場合は環境が先んじている。音楽家の血筋であるための幼い頃からの教育に恵まれたり、あるいは才能を見いだされるきっかけとなる事件が起こるべくして起こっているのだ。
 それを考慮して、この辞典には音楽家たちの経歴が細かく記されている。もちろん、家族関係に関してもだ。
 先日、教会の隠し部屋で見た名前を思い出す。
 春日まりあはいうまでもなく音楽界における有名人だった。七日間の虹の奇蹟。今でも燦然と輝く才能。
 その反対側にいた人物。春日いつき、とあった。名字が同じなのだから、血がつながっている可能性が高い。それだけでなく。
(あそこまで同じ顔をした赤の他人がいるわけないよね)
 双子か、よく似た姉妹か。前者の可能性が高いだろう。だとすれば、同じように歌姫であってもおかしくはない。
 まりあの才能の前で、「いつき」という女性の存在がかすんでしまっても。
「か、か、かすが、い……」
 ページをめくる。春日いつき。
 ーーいない?
 該当者なし?
 愕然と、フォールは辞書を見る。だとすれば、「春日まりあ」の項にはあるのだろうか。
 慌ててページを進める。
 きっちりくっきりと、彼女の名前は存在した。
 生年月日。両親の名前。そのすぐ後に、きちんと探していた名はあった。
「春日まりあの、妹……」
 

春日いつき。春日まりあの双子の妹。
 アジア連邦研究所にて心理学博士として活躍。春日まりあの自殺後に生命工学者に転向、後の人型自動機械(ドール)の基礎を構築する。夫は脳科学者として有名な紫野栄。アジア連邦研究所の最後の所長を務める。25歳で裂心症により死亡。


「紫野、栄?」
 それは、教会のあの医師と同じ名前ではないか。
 偶然で片付けるにしては、珍しい名前だった。
 フォールは紙媒体の辞書を戻ると、今度は手近にあった電子端末を起動させた。素早くキーワードを打ち込む。紫野栄。
 凄まじい量の検索結果がはじき出される。略歴、と書かれているそこをクリックしてフォールは視線を左右に振った。


紫野栄。天才養成所として名高いGGを開設以来最優秀の成績で卒業する。専門は医学であり、特に神経科学、脳科学の分野において多大なる功績を示した。アジア連邦研究所の所長の任期中に研究所にて世界初の裂心症が発生し、その研究中に自身も感染、27歳で死亡する。妻は生命工学者で、後のアジア連邦研究所所長である春日いつき。


 このふたりの名前はセットなのだろうか。新たな画面を開くと、写真が載っていた。
「同じ顔だし」
 春日姉妹と、アリア=ルージュが。紫野栄と、紫野栄が。
 いったい、これはどう意味を持つのだろう。
 調べてみてはいいものの、情報はフォールの許容範囲を超えていた。





「つまり」
 眉間に皺を寄せながら、紫野はアリアの言い分を繰り返した。
「な〜んにも、考えてなかったわけだ」
 最初に置かれたアクセントにビビりながら、アリアは驚くほどびくびくしていた。普段の教会の彼女しか知らないフォールが見たら、目を疑いそうである。
「だって」
「中途半端な言い訳が、この僕に通じないということをこの頭は忘れてしまったのかな。ねえ、アリア=<マリア>=I=K=ルージュ」
 顔は笑っている。しかし、目は全然、そうではない。オーラとやらが見えるならば、今の紫野を取り巻いているのは黒だろう、確実に。そもそも、アリアの本名を多少略しながらも通常よりは正確に呼んでいる時点で、彼と親しい人間に撮っては怒りのほどがうかがえる。
「まあまあ、いちおう来客中ですよ?」
「君を客ということは僕にはできそうにないよ、<ハデス>」
 これまたあでやかな笑顔のオプションで言い切られてヒツギは詰まるしかない。たしかに紫野の言い分はもっともだ。ヒツギと彼らの関係は良くて共犯者である。だいたい、このふたりに命を救われた過去がある以上、頭が上がるわけがない。
 しかし、目の前で人生最大の危機に置かれているのは彼の憧れの聖母。彼の女神。彼女が苦しむのを放っておいていいわけがあろうか、否。
「そ、それで話題のフォールとはどんなひと? 場合によっては、ぼくが調べられると思うから!」
 じろり視線にもめげずに精一杯主張。
「ヒツギが?」
「それはもちろん。ぼくは<ハデス>ですよ?」
 問いに対しては問い。
 彼が何者であるかを、目の前の天才に思い出させる。サングラスの奥から瞳の意志が青年を貫く。
<スラム>ーーそれもアジア連邦だけでなく、EU、オセアニア連邦、アメリカ連合、アフリカ共同統治機構、すべてーーの<スラム>の人間情報を持っているのだ。特に<エデン>から<スラム>へと何らかのかたちで流れてきた人物については、ほとんど穴がない。外見と年齢、それからいくつかの情報さえあれば、天上から死の国へと落ちてきたのが誰であるかを照合することが可能。それゆえに、ヒツギは母から死の国の王の称号を授けられたのである。
「フォール、どうしたの?」
 それまでおとなしくしていたリーチェが不安げに顔をあげた。過ごす時間が長いせいか、少女はフォールになついていた。不穏な空気を感じとって、心配している。
「大丈夫、フォールにひどいことはしないから」
 子供を簡単に欺く笑顔。年長者組は紫野に対して「本当かよ」とつっこみたくなる。
「うん、本当本当。だけどね、どうやらフォールは隠していたみたいだけど、リーチェと同じで迷子みたいなんだ。リーチェはお家に帰りたいだろう?」
「……うん」
 ちょっと間が気になったが、肯定は肯定。
「きっとフォールもそう思ってるよ。だから、ね」
 優しく微笑む姿は伊達に<メシア>と称されるわけではないと感じさせる。もっとも、彼の称号の由来はまったく別の部分から来ていることを知っているので、生暖かい反応を返すことしかできない。
 それでもこれ以上は口撃にさらされたくないと、迎撃しようとしたときだった。
 ふいに紫野が視線をあげる。
「ああ」
 呟いて、続けて。
「どうやら、本人が帰ってきたみたいだ」
 視界を天上に固定して、どこを見つめているかわからない表情で紫野。
 ヒツギが立ち上がる。
「じゃあ、おいとまついでに顔を見ていこうかな」
「あら、帰るの?」
 明るいアリアの音に対して、残念ながらと返す。思ったよりも長居をしてしまった。
 最後に腰をひょいと屈めて、少女の低い視線と自らを合わせる。くいとサングラスを指に掛け、隠していた鮮やかな緑があらわになる。
「カナメと同じ」
 思わずというような少女の言葉に、優しく訂正。
「カナメが、同じ」
「どうちがうの?」
 どちらも変わらないとのリーチェは正しい。けれども、ヒツギやーーひいてはアリアのような生まれのものにとっては重大な事柄。
「全然」
 こころの底からの疑問に、この簡潔で完結した答えは難しいだろう。ただ、それでもおさない精神になんらかの波紋を生み出すことに成功はしたようだった。返事はなかったけれど、考え込む色彩が赤い瞳に浮かんでいた。





「あ、早かったですか?」
 帰ってきたフォールは、扉でちょうど来客と鉢合わせした。
 てっきり政府の役人だと思っていたのだが、どう見ても違う。今も昔も、役人の格好は変わらない。現れた人物はその基準から大きく外れていた。
 いくらなんでも苔むした岩のような頭では、お役所仕事は勤まるまい。偏見だが、あながち外れてもいないはずだ。それに、室内でもサングラスを外さないというのは怪しい。
 過去の商売用の笑顔に切り替えて、とっさに素顔は隠した。
 それが功を奏したのか、相手はにっこりと微笑んで手をあげた。濃すぎるガラスのせいで瞳の色も表情もわからないが、ゆるめられた口元だけで笑みの形は十分に理解できる。
「いえ、こちらも帰るところですから」
「お邪魔にならなくてよかったです。……あの、リーチェのことについてはなにかわかりましたか?」
「はっきりとはわかりませんでしたが、今日、お会いできたことでいくつかわかったこともあります。彼女の身元については、こちらできちんとお調べして、あとで連絡を入れます」
 口調と内容から、男は探偵のようだとフォールは判断した。<スラム>では様々な事情で人探しが多い。金銭や怨恨が絡みあうのが<スラム>だ。わざわざ<エデン>から落ちてきてまでそういったものと縁を切る場合も少なくない。だから、必然的に、そういった人間を捜し出す職業もある。  この男もそうなのだろう。
「あなたもこの聖マリア教会に?」
「ええ」
 男に尋ねられ、改めてフォールは気がついた。この教会の名前にも『まりあ』が冠されている。言うまでもなく、キリスト教において『マリア』は聖母であり、信仰の対象だ。だから気にも留めていなかったが、こうなるとなんらかの意味を持っているのではないかと疑いたくなってくる。
 春日まりあとの関連を。
「こういうところに拾われて、あの子供は運がいいですね」
 <スラム>に不用意に落ちてきた人間で、しかも身を守る術を持たない小さな子供は、生きることすら難しい。あるいは、意味も知らないままに自分を切り売りするような流れになっている。
 それを考えれば、リーチェの境遇は破格なのだと言いたいらしい。
「ところで、あなたはアリアさんのご親戚ですか?」
「いいえ?」
 初めて言われる言葉に戸惑う。そんなフォールに構わずに青年は続けた。
「瞳の色などが、どことなく彼女に似ている気がしましたので」
 そうだろうか。思い返してみて、実はアリアの色彩をよく覚えていないことに気づかされる。アリアの顔を見ると、まっさきに見事な赤毛に視線を奪われてしまう。そのせいか、瞳の色までは記憶があやふやだった。……今度、きちんと見てみよう。
 思考に流されているところで、男が思い出したように付け加えた。
「ああ、ぼくはヒツギ=キサラギといいます。あなたは?」
「え?あ、フォール=アルファです」
 反射で応えると、青年の口元がかすかに緩んだような気がした。なんだろう。疑問は小さすぎて、簡単に溶けて消える。
「それでは、失礼しました。すみません、引き止めてしまいまして」
「いいえ、そんなこちらこそ。お帰りになるところをすみませんでした」
 丁寧な挨拶に好感を持って、フォールは足を進める。
 扉が閉じる最後の瞬間、ヒツギが振り返ったのには気がつかなかった。


「さて、不思議なお嬢さん。情報はいただきましたよ」


 ここからは、自分にしかできない仕事だ。





 じいっと目の前の顔を眺める。
「何、帰るなり人の顔をじろじろ見てるのよ。ゴミでもついてる?」
 さすがに居心地が悪くなったのか、アリアが抗議の声をあげた。五分も保たなかったが、正常な人間として当たり前だろう。
「え、いえ、なんというか」
 あの『春日まりあ』と同じ顔だと思うと、感慨深くなってつい眺めてしまった。
 しかし、正直にそんなことはいえない。礼拝堂の隠し部屋に入ったことは、秘密なのだから。
 どう言い訳しようかと悩んで、さきほど会った青年の言葉を思い出す。
「さっきのキサラギさんに、あたしとアリアさんが似ているって」
「誰と誰が似てる?」
「だから、あたしとアリアさん」
 言葉に彼女が顔を近づけた。同性だとはいえ不自然な距離に、知らず頭を退く。
 アリアの赤みを帯びた茶色い瞳の中、自分の顔が映っている。だが、彼が言ったように瞳の色彩が似ているかどうかはよくわからなかった。
「……そうかしら」
 聞きたいのは、自分の方だ。
 フォールはそう思った。
 アリアに似ているということは、伝説の歌姫に似ているということ。奇蹟の歌い手は純血の月民。
 純血の月民は絶えて久しい。目の前にいるわけがない。
 そして自分は生粋の地球人だ。仮に血筋のどこかに月民がいたとしても、その性質は地球人の血が入ると消えてしまうのだから、意味はない。
 そのまま落ちた沈黙が痛くて、フォールは立ち上がる。
 かつてよく使った作り物の穏やかな表情で言う。
「コーヒーでも入れますね」
「壊さないでよね、コーヒーメーカー」
「……大丈夫ですよ、たぶん」
 変わらない会話。これがいつまでも続けばいい。
 キッチンの脇の窓、そっと仰いだ空から細い月が見えた。



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