> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 4-1 |
「あいつが来る」 朝食の席で、アリアがぼそりと呟いた。まるでこの世の終わりが迫るかのような表情をしていた。白いご飯に焼き魚、味噌汁にモズク酢というAU(アジア連邦)極東地区の典型的テーブルを目の前に、箸が空中で止まっている。 「あれ、アリアさん。なにを今さら」 食事はいらないから、と席を外していた紫野がその呟きをたまたま耳にして、隣の部屋から顔をのぞかせた。 「彼はそれはもう、アリアさんに会えるのを楽しみに楽しみに、楽しみにしてるんだよ?」 「それが最悪に鬱陶しいのよ!思い出させたこの海藻が憎い」 ぶっすりとした顔でモズクをつまむ。 「ご、ごめんなさい」 朝食を用意したフォールはおろおろするばかりだ。たまには凝った献立にしようなど考えたのがよくなかった。どうしてこうも自分の行動は裏目に出てしまうのだろう。 「いや、いいんだよフォール。今日のは記憶から客の存在を抹消していたアリアさんが悪いんだから」 めずらしく紫野がフォローにまわる。彼の砂色の瞳が完全にからかう色彩になっていることで、フォールも少しは救われた気分になる。 気を取り直して、耳にひっかかった単語について尋ねる。 「あの、今日はお客様があるんですか?」 聖マリア教会で働くようになって初めての出来事である。信者や患者が教会を訪れることはあったが、この住人たちがそれを『お客』と呼ぶことはなかった。 いったいどんな人物だろう。興味津々で聞いたわけだが、あっさりきっぱりばっさりと紫野が切り捨てる。 「フォールは休んでていいから」 「え、でも」 おもてなしとか。 「ずっと仕事をしてばっかりだったからね、外に買い物にでも行くといいよ」 笑顔のだめ押しに押し切られる。 「ハイ、お出かけしてキマス……」 そんなに自分の『おもてなし』は警戒されるようなことなのか。たしかに日常生活において前科があるといえば、心当たりがありすぎるわけだが。 肝心な部分で役に立てないのを思い知らされてがくりとする。 そんなフォールの様子を見て、リーチェがふわふわと手を伸ばす。 「だいじょうぶ、あの、リーチェもいっしょに行ってあげるから」 「それはダメだよ、リーチェ」 今度は少女に向かっても一刀両断。 「え〜、でも」 「今日来てくれるお客様は、リーチェのために来るんだからね」 「リーチェの?」 予想外の言葉。 「そう」 にっこりと紫野は腕を組んだ。 「リーチェが誰だか、知っているかもしれないお客様だ」 つまり、少女の身元がわかった可能性があるということだ。<エデン>の役人かもしれない。ならば、見るからにそういったお堅い仕事の人間が嫌いそうなアリアのらしい態度も頷ける。考え至って、フォールは逆にその場にいなくてもいいということに感謝した。 「何時までに戻ってくればいいんです?」 鉢合わせしないようにしたい。 「夕方には帰ると思うわよ。というか、それまでには追い出すわよ」 箸で緑の海藻をつまみ上げながらのアリアの声に、じゃあ夕食の支度までには帰ってきますねと。フォールは久しぶりの休日を満喫することにした。 「さてどこに行きましょう」 いきなりぽんと休みを与えられ、フォールは思案する。追い出されるように教会を後にして、歩きながら呟いてしまう。 青空が眩しい。 百年単位の昔よりも大気の状態は改善されたとはいえ、こんな太陽が輝いている日に外を出歩くのはからだに悪い。 もし、前もって知らされていた休みであれば、久しぶりに劇場にいってミュージカルでもみたかったのだが予約をとっていない。当日券ではろくな席が残っていないのは経験で知っていた。 (図書館でも行こうかな) 今の彼女の薄給では、買い物は大安売りとバーゲンに駆けるしかない。今の時期に買ったら、きっとしばらく後悔する。いや間違いなくだ。 となると日差しから逃げられて、かつ長居をできる場所など限られてしまう。 それに、ちょうど調べたいこともある。 脳裏を鮮やかに横切る写真。似過ぎているふたりの、……三人の人物。おそらくは身内なのだろうと想像はつくが、それ以上にはならない。 もっときちんと勉強しておけば良かった。 学校では確かに音楽史も習った。テストだってあった。けれども実践的な部分ばかりに熱中していて、文字になっている情報は耳を左から右へと抜けていってしまっていた。 改めて、これはいいアイディアのように思える。 方向性も決まったことだしと、図書館へいざ出発しようとして、逆に足が止まった。 実践主義者の彼女にとって知識の殿堂は未開の地である。 当然ながら、場所など知るわけもなかった。 天岩戸にこもりたい。 アリアは切実に思った。外見はまったくAUの極東の住人と似つかないながら、実に日本人的な発想で彼女は心底から願った。 穴があったら、自分からさらに深くして埋まりたいと心底思う。それほどまでに苦手な相手がいるということを、二年前にアリアは初めて思い知った。できれば一生知りたくなかった。 「ああ、我が聖母よ。お久しぶりです」 そして、第一声を聞いて、反射的に扉を閉めた。 ばたんという音を聞きとがめて紫野が顔を出す。 「あれ?今、彼が来たんじゃないの?」 「幻聴を聞いたわ」 むつりとアリアは扉をにらんだ。果たして数秒後。先ほどとは違って、今度はノックすらなくそれが開かれる。 「嫌ですね、アリアさん。そんなお茶目なことをしなくったっていいでしょうに」 「条件反射よ」 冷たい彼女の返事にめげずに、訪問者は続けようとする。少年の域をやっと抜けたばかりといった感じの人物だった。注目すべきは髪だろう。深い緑色……モズク酢の色に似ていた。濃い色のサングラスをかけているので瞳の色はうかがえないが、紫野もアリアも、そこに明るい緑があることを知っていた。 「やあ<ハデス>。いらっしゃい」 「お久しぶりです、<メシア>。今日はいちおう私用ということなので、ヒツギのほうで構いませんよ」 こっちも紫野さんって呼びますから。 言いながら、住人に断りもなくずかずかと上がり込む。しかも、勝手知ったる何とやらで応接間へと迷うことなく足を向ける。彼の氏素性を知っているふたりとしては、ため息をつかざるを得ない。 氏より育ち、というが。それすらも怪しいという見本だ。ヒツギはもともと如月財閥と呼ばれる財閥の後継者として育てられた。しかし、二年前に跡目争いに敗れて紆余曲折の末に<スラム>に流れてきた人間である。それを手引きしたのが紫野とアリアであったのだが、たった二年でそれまでの彼が持っていた気品や凛々しさは見る影もなくなってしまった。 どさりとソファにかけると、偉そうに足を組む。渡されたアイスティをさも当然のように受け取って、喉を潤す。 「さて、お尋ねの件だけど」 テーブルにコップを置くと、柱の影から覗いている少女を遠慮なく指差した。 「そこの彼女?」 「ええ、そうよ。リーチェ、いらっしゃい」 手招きされるままに少女はふわふわとした足取りで三人に寄る。じいっと、初めて会った人物の顔を見つめている。 少女のことを紹介しようとしたアリアが口を開くより早く、リーチェが首を傾げた。 「だあれ?」 「ぼくはヒツギ。<スラム>にどんな人が住んでいるのか、新しくどういう人が来たのかを調べる仕事をしているんだ」 彼の顔に視線を固定したまま、少女の腕が無造作に伸びる。躊躇いなくヒツギのシャツの襟元を両手でつかむと、ぐいと引き寄せるように顔を近づけた。 「何?」 「ヒツギ、カナメとおなじ声をしてる」 リーチェな無邪気な言葉。だが、それがもたらしたのは絶対零度の世界だった。空気も、その場にいた三人の動きも止めてしまう。 少女は発言の意味を理解していなかった。思ったことをくちにしただけ。雰囲気が読めずに、それでも何か重大なことを述べたということだけは感じとったのか。ぱたりと指のちからを抜いた。 逃げようとした細い手を逃すまいと青年が包み込む。サングラス越しでも鋭い気迫。険悪と紙一重の真剣さに、並の子供であればおびえてしまうこと間違いなしだった。 「誰と似ているって?」 「カナメと。ほとんどおなじ声」 「カナメというのは誰?」 「リーチェのえらいひと」 つたない表現。 「……ヒツギ」 紫野が呼びかける。はっとしたようにヒツギはつかんでいた少女の手を離した。思わずちからをこめていたために、わずかに赤くなってしまっていた。 「……ぼくも知っているかぎり、<エデン>からは彼女に当てはまるような子はいませんでした」 静けさは抑え込んだ感情の証。 「でも、今のでおふたりも理解できましたよね?」 語尾は上がっていた。震える一歩手前だった。紫野もアリアも、リーチェが語った『えらいひと』についての心当たりがいやというほどあった。 同じ声をしているということは、骨格がほとんど同じということ。そんな存在が滅多にいるわけがないと笑い飛ばすには、ヒツギの事情はほど遠かった。さらにカナメという名前。決定打としては十分すぎて泣けてくる。 「この子は、如月財閥の関係者です」 如月要――「カナメ」としての条件を満たすのは財閥の総帥しか考えつかない。カナメの性格を考えれば、なんの目的もなしに少女を手元においていたとは考えられない。捜索願が出されていないのは、どうでもいい存在だからというわけではなく、表に出したくない事情があるからと見て間違いないだろう。水面下で手が伸びている可能性が高い。 「それにしても、どういうことかな」 「何がよ」 首をひねる紫野をアリアが見上げた。 一度目を伏せると、決心を固めて彼は逆に問う。 「リーチェはどうして『声』が同じだというんだろう?」 「え?」 「……そうですね。普通なら、『顔』が同じだというはず」 ヒツギも気がついた。 「でも、それはあんたが髪を染めてサングラスをしているからじゃないの?」 相手が誰であるか。判断するときのもっとも重要な部分が隠されてしまっていたり、髪型が違ったり、あまつさえ色彩が変わってしまっていたりするわけだ。だから声で。 「でも、それじゃあ『似ている』とは言えても『同じ』とはいえないはずだよ。ぼくと彼が一卵性双生児だということをこの子が知っているわけがないんだから」 それにカナメがヒツギの存在をリーチェに漏らすなどとは考えられなかった。彼は、兄の存在が世に知れることをなによりも怖れている。 「どうして声なんだろう」 「そういえば、フォールのときも……」 記憶をたぐって、アリアが呟く。洗濯機事件のフォールの絶叫を「綺麗」と誉めたたえたリーチェがよみがえる。 考えてみれば、リーチェは『声』に反応しているのだ。 さらに、さきほどに与えられた情報。 如月財閥の関係者であること。 情報がアリアのなかで結びつく。 「もしかして、春日文書を開くために」 「え?」 「そうよ、それしかないわ。だって、如月財閥が所有している文書の鍵は『ふたりの月民の歌声』が必要なんだもの。声を判別できないとどうしようもないわ」 リーチェがアリアの声を気に入っていた理由も、これで解決する。 こちらが何を語っているのか、少女はわかっていないのだろう。既にヒツギに対する興味は失せたのか、一心不乱にジュースを飲んでいる。無邪気なその姿に、年長者たちは複雑な気持ちになった。如月財閥が彼女の能力に目をつけてどこかからか引き取ったのか、あるいは彼女の能力を生み出すために何らかの手段を使ったのか。どちらにしろ、良い気分はしなかった。 「じゃあ、アリアさんはわかるとしても、フォールは?」 紫野の言葉に、アリアとヒツギは注目する。 「……リーチェの言葉を信用するなら、彼女は月民?でも、純血の彼らは滅んだはずだ」 月との交流が回復して二百年あまりが経つ。その間に混血が進み、最大の特色であった多重音声を持つ純血の月民はいなくなってしまったとされている。 「アリアさん、彼女はどういう素性の人間なんだ?」 フォールは紫野が教会を留守にしていたあいだに雇われた人間。採用に関わったのはアリアひとりだ。当然、彼女を一番知っていると考えられる。 視線を集められて、アリアは冷や汗。 言えるわけがない。 フォールが最低賃金で応募してきた唯一の人間だったから、ほとんど事情も聞かずに雇ったなどとは。 |
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