> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 3 |
フォールが起きて食堂に行くと、置き手紙があった。 最初こそ近くのアパートから通っていた彼女だが、今日のように朝から雨が降っていると教会まで来るだけで命がけになってしまう。 給料を払っているのだからと、天気が原因で休ませてくれるような教会の主ではなかった。そこで、教会の空き部屋のひとつを寝床として提供してもらっている。 値切りに値切って、アパートよりも安くなった。今では家財道具一式を持ち込んでいる。 眠い目をこすりながらフォールが文字を追うと、どうやら件のふたりは出かけているようだった。 「こんな雨が降ってるのに」 窓を叩く雨粒を見て呟く。昨夜、ベッドに入ったときはまだ曇っていた。天気が崩れたのはそのあとだろう。 いくら非常識なふたりであっても大雨の中、外出するような酔狂ではないはずだから、明け方には留守にしていたに違いない。 もっとも、それはそれで物好きである。 手紙にもう一度目を通せば、帰ってくるのは今夜だ。ありがたいことに、それまでに教会の礼拝堂の掃除をしておくようにとの指令が書かれていた。 たしかにこんな天気では洗濯はできない。掃除に向いているとは言いがたいが、アリアが監督してくれない以上は、教会のなかでどこを動かしていいのか、触れてはいけないのかフォールにはまだ判断できない。 それだったら今回のようにはっきりとしてくれたほうがありがたかった。 「……終わるかしら」 それなりに広い礼拝堂を思い出して、彼女は眉を寄せた。いくらなんでも、ひとりでは完璧には綺麗にはできない。 「だからといって、あの子に頼むのもなあ」 リーチェの生活能力はいかほどか。数週間でつかめてしまったフォールとしては、彼女を戦力としてはほとんど期待できない。 それでもまあ、いないよりはましかもしれない。よくよく考えてみれば、一度教えた単純作業であればリーチェの方が成功率が高いのである。 そこまで考えて、フォールはため息を落とした。今度の物は、多分に自分に向けた代物だった。 ひととおり掃除が終わり、雑巾を絞りながら顔を上げた。 視界ではリーチェがどこか遠い視線で外を眺めていた。まるで、今にも飛び出して行きそうな。そんな、表情。 「リーチェ、外は危ないからね」 出てはダメだと告げれば、彼女はおとなしく頷く。 「わかってる。雨にぬれたら、死んじゃうんだもの」 「そうよ、雨には怖いウイルスが入ってるんだもの」 およそ百年前に突如として現れた、裂心症と呼ばれる病がある。ウイルスによって引き起こされるが、それを最も多く含んでいるのが雨だった。 小さな擦り傷や切り傷などに雨が触れると、そこからウイルスは感染して血液に乗って心臓に到達する。 そして最後に心臓で爆発的に増殖し、その筋肉を溶かしてヒトを死に至らしめるのである。感染したらまず助からない。しかも治療法はまだ確立されていない。 免疫を持っている人間ーー免疫保持者と呼ばれているーーは存在するがごく少数で、彼らがどうやって免疫を得たのかはまったくもって不明である。 塩素によって消毒された水は安全だが、自然に降ってくる雨をすべて処理するわけにはいかない。水たまりも危険で、<エデン>では雨がやむとすぐさま消毒される。 <エデン>とは、最初は裂心症から逃れるために金持ちが作り上げた絶対安全なシェルターだったのである。 そこに入れずに昔ながらの暮らしを続けた人間の集まりが<スラム>の原型だといわれている。 もっとも、今では<エデン>=金持ち、<スラム>=貧乏人か犯罪者という認識がはびこってしまっている。 当たっていないわけではないが、改める部分が多いことはフォールは肌で感じていた。 「でも、先生たちは出かけちゃったよ」 「雨が降り出す前に、よ。ほら、リーチェ。さっさと雑巾をしぼらないと水たまりができちゃうってば」 少女の手元、びしょぬれの雑巾から水がぽたぽたとしたたっていた。それほど量が多いわけではないが、教会の床は木だった。シミになってしまうこと間違いないしだ。 しかめつらしい顔で注意しても、リーチェの興味は窓の外から移らない。さてどうしたものかとフォールは考え、すぐに思いついた。 ぱちゃんと雑巾をバケツに突っ込む。汚れないようにと締めていたエプロンを外して椅子に放る。 ばさり音に反応して、少女の視線がようやくこちら。 気がついていたことだが、彼女は音に敏感だ。 「リーチェ、あたしの声、好き?」 先日、瞳をきらきらさせながら呟いた言葉。思い出しながら問う。 「うん!」 間髪入れない返事。迷いもない。 「じゃあ、歌ってあげる」 あんな絶叫ではない、音階もメロディもあったもんじゃない。ただの「音」じゃなくて。 きちんとした歌を。 歌うのは久しぶりだった。 どれくらいだとは数えたことはないけれど、たぶん、二年ぶりくらい。 けれども。からだに叩き込まれた音楽が消えることはない。 教会のオルガンは音程がちょっと狂っている。調律なんかできないから、仕方がないだろうけれど。 Cを叩いてそれを知り。記憶のなかの正しい音を引っ張りだす。 最初は簡単な練習曲から。決して流行の歌ではない。古くから、それこそ人間が地球にだけで満足していた昔の詩。 リーチェくらいの少女が、あるいはフォール自身の年齢の一般的な若者が。好んで聴く曲ではない。いわゆるクラシック。けれども、なによりもフォールに馴染んだ音。 記憶がないからかもしれない。リーチェは退屈する様子も見せずに静かに耳を傾けている。 やがて、数曲を歌い終えると少女は勢い良く立ち上がった。目はきらきらと輝き、手は興奮のためにせわしなく動いている。 「フォール、すごい!」 弾む声で走りながら、飛び込むように相手に抱きついた。 「いままで聴いたことのあるなかで、フォールのがいちばん好き。いちばん、ちかい」 「あ、ありがとう」 思っても見なかった熱烈なラブコールに、どもりながらフォールは天井を眺めて耳を澄ます。雨が屋根を叩く音は、礼拝堂に静かに反響している。 これならば、外に漏れないだろうか。 ふと思ったのは、ここまで喜ばれているにもかかわらず。 本気で歌っていない自分を自覚しているから。 罪悪感につけ込んで、雨の音が大きくなる。 これだけざあざあと降っていれば、多少大きな声で歌っても大丈夫なのではないか。 外に漏れることはないのではないか。外から覗き込まなければ、誰が歌っているのかなんてわからない。 そもそも。 ここは<スラム>だし。 この二年間、ずっと見つかることもなかったのだし。 しがみついたリーチェの期待の眼差しが。 言い訳となって抑えていた衝動を突き崩す。 少女の肩にてのひらを置くと、フォ−ルは秘密めいた視線をリーチェに送る。 「リーチェ」 「なあに?」 「せっかくだから、とっておきを歌ってあげる」 少女が離れたのを確認して、フォールは息を大きく吸い込んだ。ゆっくりと溜めて、喉の準備をする。 細い音がくちびるからこぼれる。……まず、一音。 それが震えないように注意して、さらに重ねていく。 まったく違う音階を、二音、三音と。 独りで和音をつくり、ゆったりとメロディーをつける。 タイトルは『月移民』。 今から一千年ほど前、地球に圧し込められていた人類は初めて月に居を構えた。しかし、数万人の移民者を生み出したところで予想外の事態が発生した。 巨大シャトルが宇宙空間で爆発し、その膨大なかけらが月と地球のあいだにばらまかれたのだ。このせいで月は完全に孤立してしまう。 すべてが片付くまで、七百年がかかった。 地球と月の住人は再会を喜んだが、この短くないあいだに移民たちは地球人と異なってしまっていた。外見が大きく変わってしまったわけではない。 一番の変化の特徴は、多重音を話せるようになっていたことだ。特にいくつもの異なる音を同時に発することができることから、月民の歌姫は重宝された。 かつて最も名誉ある歌姫の称号、セレーネを冠された春日まりあは同時に七音を歌い上げたことから『七日間の虹の奇蹟』の異名も持つ。 もっとも、このような特徴は地球人との混血が進んだことで、現在ではほとんど見られない。 それにつれて月民のために書かれた楽曲は、例えば今フォールが歌っている『月移民』は今や記録媒体のなかでしかお目にかかれない。 なぜフォールがそれを歌えるかというのは、はっきりといってしまって、よくわからない。幼い頃から歌を習い、初めてこの曲を聴いたときにすっかり魅了された。 地球人にはできないというけれども月民だってもとは地球人。そのうえ、たかだか数百年の進化だ。 できないわけがない、と思って密かに練習を続けた。その結果だ。 それが人生を根本からひっくり返してしまうことになるとは夢にも思わなかったけれども、満足しているからまあいいかと考えている。 音を滑らせながら、重ねながら。頭を突き抜ける感覚は、酔えるほどに強い。 (あなたは、歌っていると何も周りが見えなくなるのね) 呆れと愛しさを含んだ甘い声。それが耳を塞ぎたくなるような罵声に変わった記憶に蓋を。 なおも忘れようとするように強く声を張り上げる。 一瞬だけ、音がもう一段重なって。 そのときだった。 がこりという何かがずれる音。低い唸りは機械の音。 なに。 リーチェが立ち上がるのと、フォールが声を止めるのとはほぼ同時だった。 しんと雨だけが響いていたはずの礼拝堂に、モーターが作動を主張していた。 「どこ……?」 「あっち!」 リーチェが叫んで指差した。説教台の裏の部分、ちょうど少女からは死角にあたる場所が、ぽっかりと暗い穴を開きつつあった。 おそるおそるフォールが歩み寄り、腰を屈める。完全に四角いボックスだった台の下半分が解放され、階段が地下へと続いていた。 「なに、これ」 いつの間にやってきたのか、背後からリーチェが覗き込む。モーター音は完全に止まっていた。 「わからない。だいたい、どうしてこんな変な仕掛けが教会にあるの……?」 少女が答えられるはずもなく、呟きは宙に溶ける。 「下りてみる。リーチェはここで待ってて」 「でも、フォール、あぶないよ?」 「大丈夫よ。すぐに戻ってくるから」 屈んで暗闇へと足を踏み込む。数歩階段を下りて、ああと気がつく。 狭すぎて方向転換もできないから、その姿勢のままに彼女は声を張り上げた。 「あの二人には内緒ね?」 だって、これってきっと秘密ってやつ。知ってしまって、そのまま雇い続けてくれるとは思えないし。 ここを追い出されたら、自分には帰るところなんてないのだから。 |
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