> 月を抱けば Maria on the Moon |
STAGE 3 |
教会の朝は遅い。 これは住人たちの信仰心の問題……も、あるかもしれないが、それ以上に夜が遅いことに原因がある。 聖マリア教会が建っているのは、マリアシティのど真ん中。聖母の名前を冠されていても、紛うことなき<スラム>である。街が活気づくのは夕方から。 特定の病人はともかくも、怪我人は夜に集中するのだ。 それでも子供がひとり加わったことで、年長組もそれなりに健康的な生活に引き戻されている。 「リーチェ、朝ご飯、持ってきたよ」 トレイを片手にフォ−ルが扉を開ける。すでに着替えをすませた少女が、窓の外を眺めていた。 「いい天気ね」 「うん。お空、晴れてる」 片言の言葉に、フォールは密やかにため息を落とした。少女はどう見ても十二、三にはなっていると思うが、自分自身の過去とともに、いくつかの常識も失っていた。 言葉も、ひどくつたないものになってしまっている。 医者である紫野が『脳は僕の専門外』と断りつつも、リーチェが頭を打ったらしいことが原因だろうと判じていた。 こぼれ落ちた記憶を無理矢理に必死に見つけようとするよりも、両親を見つけて以前の生活に少女を戻し、そこでゆっくりと療養する方がいいだろうという結論に変わりはない。 けれども、<エデン>との唯一の連絡機関に報告をして、連絡を待って、早一週間。 なんの情報も入ってこない。 そのあいだ、少女は与えられた部屋から出るわけでもなく、ぼんやりと日がな一日そこで過ごしている。 だが、いつまでもそうさせているわけにはいかない。 そろそろアリアも紫野も、リーチェが<スラム>へ捨てられた子供ではないかと疑い始めていた。かくいうフォールもそう感じ始めている。 <エデン>で望まれずに生まれてきてしまった子供を<スラム>へ落とす……。そういったケースは、実際、少なくない。ただ、最初にそう考えなかったのは、リーチェの年齢だった。捨てられる子供は、たいがい、五歳までだ。少女の歳まで育ててしまったら、面倒を最後まで見るのが一般的である。 とはいえ、引き取り手がない以上は、こうやって何もせずに置いておけるほどの余裕はない。 「リーチェ、ご飯を食べ終わったら」 できるだけ、さりげなく。フォールは切り出した。 「お洗濯しようか」 「おーおー、始めたみたいだねえ」 窓から身を乗り出して、紫野が評した。デスクワークにいそしんでいたアリアも、つられて視線を動かす。 広くない教会の中庭の向こう、洗濯物が山盛りになった洗濯かごを抱え、ふたりの少女が歩いている。 身長もほとんど変わらないので、会話さえ聞かなければ似ていない姉妹に見えないこともなかった。 「無事にすむかしら」 知りすぎているフォールのドジっぷりに頭を悩ませる。あのフォールを記憶喪失の少女が手伝うというのだから、はっきりいって結果が恐ろしい。 「なんだったら、アリアさんも手伝いに行けば?」 「どうにもならなさそうだったら、行く。……事件現場がこの部屋でなければ、対処のしようもあるもの」 「たしかにね。先週のコーヒー事件を見たときには、ちょっと回路がショートしそうになったもんね」 まったく笑えない冗談。 「被害があっても、外ならどうにかなるし。洗濯ならもう一度やり直せばいいし」 続ける紫野だが、目がまったく笑っていない。きっと頭の中では、二度手間にかかる様々な費用計算がめまぐるしく展開していることだろう。 頭の良すぎる人間にはついていけないが、何を想像してなんともいえない微笑を浮かべているかが想像できてしまう分が嫌だ。 「それにしても、本当になんの情報もないの?」 「正規の機関への問い合わせではね」 「……どうする?」 問いかけは、簡略。しかし、そこに含まれている裏を紫野は正確に読み取る。 「いちおう、あっちにも問い合わせはしてるけど」 「誰に?<ストーリーテラー>のところ?」 「<ハデス>のとこ」 「なっ……!」 あんまりな返答にアリアが思わず腰を浮かせた。 が。 彼女の抗議を遮るように、教会の裏手……ちょうど洗濯機が置いてあるあたりから、奇怪な叫びが聞こえてきたのである。 肩をすくめて、紫野が天を仰ぐ。 ちからなくアリアは椅子に崩れ、ついでに机に突っ伏した。 「一体何やったんだろう、フォール……」 名誉のために主張するが、やらかしてしまったのはフォールではなかった。 たしかに、ある意味では『やってしまった』のだろう。 相手の記憶喪失が、どの程度であるかを確かめず、今まで小説でお目にかかったことのある程度を認識していたのだ。 すなわち、自分がどこの誰であるかはまったく覚えていないが、日常生活にはなんの問題もない、というあれである。 言葉が不自由になっている時点で、リーチェのそれはもっと深刻であると気づいてなければいけなかったのだ。 そう、どの程度の常識が残っているか、という点を。 洗濯物をかごに入れて、洗濯機のある洗い場まで持って行くのはよかった。 骨董品と呼べなくもない洗濯機のふたを開け、洗濯物を投入するのも問題はなかった。 昨日の残り湯を注ぐところまでは、完璧だった。たぶん。 「あ、リーチェ。洗剤を入れて」 これがいけなかった。 「せんざい?」 きょとんと首を傾げた少女に、フォールは「ああ」と思い当たった。 「ほら、そこにある箱のなかの、粉」 「これ?せんざい?」 「そうそう。<エデン>ではこんな時代遅れな物、なかったからわからないだろうけど」 液体洗剤が基本である世の中、粉石鹸というひどく時代がかった代物をアリアは愛用していた。いや、帰ってきたこの教会の主の倹約マジックを考えれば、これは彼の趣味だろう。 使ってみてわかったが、粉石鹸はとても安かった。しかも、合成洗剤にひけをとらないくらいに綺麗になった。 となれば、貧乏教会はこちらを推奨する。今ではフォールもすっかり慣れている。 しかし、<エデン>から突然放り込まれたリーチェが初めて目にすることは明らかだった。 両手で箱をしっかりと抱え、おそるおそる蓋を開ける。 ふわふわの小麦粉のような石鹸を珍しそうに眺めていた。 「それをこっちに一杯入れてね」 何気ないフォールの一言。これがいけなかった。 彼女から見れば、石鹸のパウダーにささったスコップに一杯、というのが明らかだった。けれども、少女にとっては違った。 ちょっとのあいだ、不思議そうに眉根を寄せ。 どさりと、箱をひっくり返した。 洗濯槽のうえで。 「う、きゃああああっ!!」 悲鳴を上げながら、フォールは固まった。 大音量にもものともせず、リーチェは人形のごとくに静かだった。ただ、なぜか目がきらきらと宝物を見つけたように輝いていた。 「り、り、リーチェ!なにするのっ」 硬直を解いて。パニックのあまりに彼女は無意味な動作を繰り返す。 対して、箱一杯の洗剤を洗濯槽に突っ込んだ……ちなみに、石鹸は当然ながら溶けきれずに白い山を形成している……リーチェは平然と答えた。 「いっぱい」 「!?」 「だって、フォール、せっけん、いっぱいって」 そ、そっちのいっぱい?! やっと思考回路が追いついたが、それはすぐに白紙に変わる。彼女の頭の中で巡るのは、今月の給料からいくら引かれるんだろうという。 まったくもって現実的で切実な問題であった。 「はい、これだけ引きます」 電卓を叩いて、紫野がフォールに提示した。 「ほらほら、そんなに一生懸命目を閉じていたら、見えてないでしょう?」 脅迫のような優しい声である。しかし、見るのが怖い。たかが数字の羅列であるが、むこう一ヶ月の生活を考えると悪魔の宣告である。 「紫野の言うとおりよ。さっさと見ちゃいなさい。そんなたいした金額じゃないから」 呆れたようなアリアに促され、彼女はうっすらと瞼を開く。本当におそるおそるといった調子で数字を確認した。 「よ、よかった……」 思ったより、安かった。不幸中の幸いか、洗濯機は壊れなかったし、消費したのはたかだか石鹸だったのが最大の要因だろう。 そんなフォールを既に無視して、紫野は困ったように腕を組んだ。 「リーチェ、今度から何かをするときは、きちんと確認するんだよ」 どうやら、彼が考えていた以上に少女の記憶は失われているようだ。精神が外見と年相応の状態であったらなら、かなり不安定な状態になって大変だったかもしれない。 なくした過去の分だけ、幼くなってしまっているのは、ある種の救いだったと思う。 「うん。でも、フォールの声、綺麗だったよ?」 すっとんだ方向に、少女はにっこりと笑う。 「嬉しくない……」 「真に受ける必要ないじゃない」 さきほどの絶叫に好評をいただいてしまい、フォールは肩を落とす。今度は彼女の前できちんと一曲歌おう。そして、正しい認識を植えつけなければ。情操教育は幼い頃が肝心だ。 ひそかに拳を握りしめ。決意するフォールに安息の時間はない。 「あ、石鹸まみれの洗濯物、やり直してよね」 笑顔の節約魔人は、きっちり最後の一撃を喰らわしてくれるのだった。 |
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