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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 1


 うららかな日差しの五月。しかし、聖マリア教会の懺悔室だけは雰囲気が曇天だった。
「一枚、二枚、三枚」
 紙幣を数える少女の目は真剣だった。
「四枚、五枚、……ううう」
 六枚目を数えようとした指が空を切った。無念の呻きがくちびるから漏れる。
「た、足りない」
「……フォール、何度数えたってないものはないのよ……」
「だって、だって……!」
 あきれを含んだ女性の声に、金を握りしめたフォールが敢然と立ち向かう。
「今月のお給料が足りないってどういうこと?どういうことよ、アリアさん!」
「あんたが壊した備品の代金をそこから出したのよ、文句ある?」
 名は体を表すというが、まことにもってそのとおりなアリア=ルージュは見事に緋色の髪をかきあげた。
「でも、一気に半額も抜くことないじゃないですか」
「今日の夕方、帰ってくるのよ、紫野が。あいつのいないあいだに勝手に人を増やしたあげくに、病院の備品まで壊れてましたなんてことを知られたらどうなるか」
『節約』の二文字が大好きなドクター紫野。その彼が二ヶ月ぶりに帰ってくるのだ。忙しいからの理由で増やした人間については了解してくれるかもしれないが、それ以外については断じて認めてくれないだろう。患者の誰もがだまされる聖母の微笑で、こちらを一発KOにしてくれるだろうこと請け合いだ。
 そもそも、唯一の医者である紫野が所用で教会を離れていたために完全な開店休業状態。出費はあっても収入はほとんどなかった。
「初日の電子天秤、演算ソフト、内線電話……」
「あ、あたし、今日の分の薬剤包装やってきますね!」
 頬に手をあてて被害者を並べ立てるアリアから逃げるようにフォールが立ち上がった。ぱたぱた遠ざかって行く足音にため息をつく。
……あの勢いだと、また何か壊すだろう。
今度は精密機械でなければ良いのだけれど。
とりあえず被害は未然に防ごうとアリアは席を立った。
そのタイミングを見計らったように。
ぴんぽーん
はなはだ原始的なチャイムが鳴った。
それに続いて、爆発音が轟いた。
「……」
 ここが治安のそれほど良くない<スラム>地区だからといって、シティで唯一の医者のいる教会に爆弾を仕掛ける人間がいるとは考えられない。となると、考えられる可能性はただひとつ。
「あの子拾ったの、間違いだったかしら」
 帰ってきた医師と新たな惨状を確認するために、彼女はこめかみを懺悔室を出た。


 地面にプリントされたカエル。
 まさにそう表現するのが妥当とでもいう状態で、フォールは壁にへばりついていた。
 彼女の周囲は惨劇が広がっていた。
「コーヒーの悲劇」
 扉から入ってきた青年が無表情で呟いた。だが、手に握られたレーザーガンの照準はぴたりと彼女の頭に定められている。
 しっかりと銃口を見定めながらも、フォールは身動きがとれなかった。悲鳴のひとつでもあげたいのだが、どうやら声帯は本来の役割を忘れてしまったらしい。
 ぱくぱくと口を開け閉めするだけの彼女の様子に、青年はゆっくりと近づいてくる。コーヒーにまみれたカルテを無造作に踏みつける。
「侵入者さん。君はいったいどこの組織のもの?」
 砂色の瞳からは感情を感じられない。いや、それよりも、その組織ってなに?どこもなにも、自分はこの教会で雇われただけの人間で。頭の中で言い訳が回るが、実際には空気が抜ける風船のような音がもれるだけだ。
「まったく、貴重な患者さんの情報をコーヒーまみれにするなんて」
 シュレッダーにかけるよりも、嫌がらせとしてのランクは高いよねえ、と。青年はにこやかに笑う。
けれど。
笑ってない。目が、完全に笑ってない。
「しかも、半年前に買ったばかりの電子レンジまで壊してくれちゃって。もう」
 ぴたり。
 額に冷たい金属の感触。
「楽には殺してあげないよ?」
「紫野。殺さないでよ、その子」
 ゆったりと女の声がフォールの危機を救った。
「あ、アリアさーん」
 やっと出てくれた声は、我ながら情けない。青年の肩越しに、扉に背を預けたアリアが息を吐くのが見えた。
「何、アリアさん。この子、知り合い?」
「教会の新人。あんまり忙しかったから雇ったの」
 ガンを腰のホルダーにしまいながら、青年は近寄ってくるアリアに微笑む。さきほどの物騒な表情とは打って変わった笑顔だった。
「いくらで?」
「これ」
 ぱっと両手を広げる。
「十万〜?ちょっと高くない?」
「最初五万からスタートして、十万まであげたところでやっとこの子の応募があったのよ」
 そうなのか。もっと値段がつり上がってからにすればよかった。ちょっとフォールは後悔する。
「じゃあ、これは?新手の歓迎会?」
「……それは違うと思う」
 部屋中に飛び散ったコーヒーで汚れた書類。いやな臭いのする煙を吐き出している電子レンジ。完全に壊れているだろう。
「フォール」
「えっと、書類整理をしておこうと思って、コーヒーでも飲みながらやろうかと思って」
「……それで電子レンジを爆発させた?」
 再び頭を抱えたくなったアリアだった。どこをどうすれば、こんな単純な機械を爆発に持ち込めるのだろうか。
「ご、ごめんなさい〜〜〜」
 ひたすらに深々と頭を下げる。たしかにフォールだって聞きたい。どうしたら、こんな機械音痴に育つことができたのだろう。
 さらなるおとがめを覚悟した彼女だったが、意外にも追求はなかった。否、追求は別の方向へ向いたのである。
「紫野、こっちも聞きたいんだけれど」
 アリアがドアを指差しながら尋ねた。
「あのお嬢さんはどこから連れてきたのかしら」
 言葉にフォールはそちらを見た。ドアの影に隠れるようにして、それでも顔だけをのぞかせている少女がいた。歳は十歳前後といったくらいだろう。髪はプラチナブロンド、目はウサギのように真っ赤だった。
(あの子……)
 見覚えがあるような気がした。しかし、フォールにはどうしても思い出せなかった。あれほど印象的な色彩だったら忘れるはずなどないだろうに、ふがいない。
 アリアの視線に圧されて、紫野が天を仰ぐ。
「紫野?」
「……ごめんなさい、拾ってきました」
 白状する姿は、とても先ほどの青年は同一人物に見えなかった。


「マリアシティの入り口で泣いてたんだよね」
 椅子に座って紫野が説明を始めた。
 少女の前にはホットミルク、アリアとフォールにはコーヒーが置いてある。
「それでどうしたのかって聞いたら、『あそこから落ちてきちゃった』って、<エデン>を差して言うから」
<エデン>。この<スラム>に住む者たちにとってのあこがれの土地。裕福な人間だけが住むことを許される、清潔で安全な街。
 たしかに、少女の身なりは整っていた。着ているワンピースは薄汚れていたが、素材はいい。もとは真っ白だったのだろう。
「どうしようかと迷ってたら、ちょうど雨が降りそうになって。思わず手を引いて一緒に雨宿りしたら、なつかれたみたいでさ」
「ふうん?<エデン>との連絡機関には届けたの?」
「いちおうは」
 この子供が本当にかわいがられている子供ならば<エデン>から捜索願が出されるはずだ。それを待って、両親の元に返せばいい。何らかの理由で捨てられた子供であるとは考えたくない。
 じっと見つめてくるウサギの目に、フォールが問いかける。
「お名前は?」
「リーチェ」
「リーチェ、歳は?両親の名前は?」
「わからない」
 少女はかわいらしく首を傾げながら言った。
「ああ、その子、記憶喪失みたいなんだよね」
 困惑する女性陣を尻目に、紫野がさらりと言った。まるで、昨日の天気を話すような調子だった。
「はい?」
 目を瞬かせたアリアに、青年はとどめを刺す。
「だから、自分の名前以外まったく覚えていないっていうんだよ」
 こうして、彼らの新たな日常が始まったのだった。




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