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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 0


 高台を走っていた。
 乾いたコンクリート、しかし雨音が耳に響く。
 濡れないのは道路を完全にアーケードが覆っているからだ。
 後ろを振り返れば、明るすぎる白い点滅。
 逃げても逃げても距離は縮まらない。むしろ、迫ってくる。
 道が続く限り、あれは自分を追ってくる。
 かわす方法は簡単だ。脇に逸れればいい。わずか数段積み上げられたブロック塀を乗り越えて隣の芝生に駆け上れば、それだけで逃れることができる。
 だが、そんなものは選択の範疇にない。
 そんなことをしたら、雨に濡れてしまう。
 雨に濡れたら、死んでしまう。
 追跡者から逃れるために、生きていくための最低限の常識を放棄してしまうのは本末転倒だ。
 だから、相手があきらめるまで走り続けるしかない。
 足がだるい、もつれそうになる。
 息は完全にあがっていた。無理な呼吸のせいか、喉が灼けるように痛かった。
 大切な商売道具なのに。
 思っても、どうしようもなかった。
 緩やかな坂道を転げ上る。
 単調なコンクリートの帯が消え、ゆっくりと街が現れてくる。明かりがぽつぽつと灯っているが、闇に沈んでいるそれは得体の知れない領域だ。 今、走り抜けてきた<エデン>地区とは全く種類の異なる人間たちが住む<スラム>。
 考え、はっとする。
 街が見える。
 それはすなわち、道路が途切れているということだ。
 惰性のまま駆け抜け、なんとか手すりの前で立ち止まった。
 錆びた鉄の向こう、安全を約束するアーケードはない。しとしとと降る雨。恐怖で身を翻せば、白い光がそこにあった。
 ばたんと乱暴な音がして、男がオートカーから降りる。手を不自然な形で構えていた。
「手間をかけさせてくれるじゃないか」
 不思議と静かな気分だった。どうしてだろう、あの男が持っているのは明らかに武器。それも拳銃なのに。これから、自分はどうなるのかの予測くらいついているのに。
 横には動けない。前には男。後ろには死の雨。
「逃げる場所なんてどこにもねえよ」
 男の腕が上がる。両手で構えた先にいる自分のどこに照準があっているのか。
「そんなに、邪魔? それとも、嫉妬? 招待状が、自分のところにこなかったからっていう?」
「さあな」
 詰問に男の表情は動かなかった。雇われもので、本当に知らないかもしれない。
 じりじりと後ろへ下がった。退路がないのはわかっている。
 けれども、こんなことで殺されるのは嫌だった。
 ……スキャンダルを残すのが嫌だった。華やかな世界の裏にある確執。実力世界の実情。醜い嫉妬や野望。
 <エデン>の人間は娯楽に飢えている。パーティの舞台出演を巡って歌姫が殺し合いをしたとなれば、連中は飛びついてくるに違いない。
 この世界が綺麗でないのは知っていても、わざわざ話題を提供してやるのは嫌だ。
 それだったら、いっそ。
 予備動作もなく。
 手すりを乗り越える。
 男は止めなかった。だが、銃をおろしたりもしなかった。死んでくれさえすればいいと思っているのだろう。
 憎らしくは思ったが、ありがたい気もした。明日の朝、ここで頭を打ち抜かれた死体が発見されることはないはずだ。
 足下は湿っていた。一歩でも退けば、垂直に切り立った斜面。
 雨が頬を叩く。生まれて初めての、そして最後の感触だ。
 そっと瞼を閉じると、空中へと踏み出す。
 浮遊感、次いで落下の空気が体を包んだ。
 意識は不思議と冴えていたが、次の瞬間には痛みとともに暗闇に沈んだ。




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