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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 9−3


「今、何て言いましたっ?」
 初めは丁寧さを心がけていた口調が、突然の申し出で切り替わった。語気に滲む勢いに、<エデン>にはないものをフォールは感じとってひやりとしたが、聞き手は気にしなかったようだ。職業柄、表情に関してそれだけの訓練を重ねているのかもしれない。
 昼間の酒場は、閑散としている。現に、だだっ広いホールにフォールと訪問者のふたりきり。夜の喧噪からは想像もつかない。
 フォールは流石にど真ん中で会談する心境にはなれなかったので、使っているのは扉に近いテーブルのひとつだ。しかも、周りは椅子が机に上げられたままになっている。――そんな雑然とした状況でも、如月財閥から来たと名刺を差し出した男は眉ひとつ動かさない、……ように見えた。
 むしろ、唐突な訪問に動揺しているのは、住み込み労働者のフォールである。
「ここから出ていただきたいのです」
「で、ででで出て、どこに行けばいいんでしょうっ?」
 ここを追い出されたら行き場なんてない。
 もう一度、教会に戻れば良いのだろうか。そうするとアリアたちが注目されてしまい、この計画上、とてもよろしくない。
 そんな少女の反応に、逆に男は驚いたようだった。初めて、感情をこめた声が出てきた。驚いた、と。
「フォンテールさん。あなたは元々、<エデン>の方でしょう。ご両親も、ご学友もあなたを待っていらっしゃる。どうしてそのような……」
 心底不思議そうな男に、彼女はしまったと思う。
 彼はレファンシアとフォールの間に起こっている命がけの確執を知らない。
 ヒツギが偽造した招待状がレファンシアのもとに届いているはずだから、フォールへのマークは薄くなっているだろう。だからといって、ここでフォールがのこのこと<エデン>へ戻れるのは問題外。レファンシアが警戒心を起こしてしまうことは間違いない。
 でも、それだけではない。
 実際は、男が想像するような反応が普通なはずだ。
 事故で<エデン>から<スラム>へ転落してしまった世間知らずの女の子。<エデン>に帰るためにどうすれば良いのかわからずに、それでも生きていくために歌い続けた健気な少女(シナリオ担当:アリア=I=K=ルージュ)。
 だったら、ここは素直に喜ばなければ。
 それにずっとずっと、彼女自身だって帰りたいと願っていた。そう感じていた。
 脳裏に浮かぶのは両親。友人。思い出す顔。甦る声。
 懐かしい。その懐かしさは、喩えるなら望郷。歌っているとき、仕事をしているとき、眠る前に、ふうっと心を鳴らすもの。
 今のフォールから<エデン>はとても遠い。もう帰ってはいけない場所だと、言い聞かせて。ずっと、<スラム>で暮らしていくことに慣れようとしていた。
 そのせいかもしれない。
 ただ、自分の心境を整理しようとして黙り込んだ少女の反応に、男は別のことを考えたようだ。
 つまり、周囲の好奇心を怖れているのではないかと。
 彼のように仕事で<スラム>への出入りが多い人間にとって、この場所は<エデン>で言われているような地獄でも無法地帯でもなんでもない。特に彼女が落ちたマリア・シティはAUの<スラム>でも五本の指に入る治安の良さだ。下手な<スラム>と隣接している<エデン>に比べれば、よほどまし。
 が、<エデン>から出たことのない大多数にとってはそうではない。
 彼らはフォールがありとあらゆる悪徳に染まったと言うだろう。言わなくても当然のものとして想定するだろう。
 十代の敏感な少女が「家に帰れない」「行くところがない」と思い込むには十分だ。
 家族や友人にだって知られたくないだろう。
<エデン>の人間として、ひどく真っ当な判断を下す。
 如月財閥としては「<スラム>」すらも彼女の経歴のインパクトとして利用しようとしていたが、背に腹は代えられない。上の許可は後回しだ。ここで決定打を得られなくても、少女のこころをほどよく傾けておかなければ失敗する。
 彼女だって<スラム>で多少なりとも揉まれているのだから、いざというときの逃げ方も心得ているはずだ。逃げられてしまっては振り出しに戻る。
 愚を犯すような真似はしたくないのだろう。
「もちろん、あなたのイメージは我が財閥のイメージにも大きく関わりますから……」
 最初から用意されていたような台詞が男の口からとうとうと流れた。フォールはそれを聞いているようで、理解できていない。相づちだけは適当に打っていたが、話の半分も頭に入らなかった。
 とにかく、彼女が最も実感したのはただ一点。
「すみません……。少し、時間をください」
 自分に決心は十分だったけれど、覚悟は足りていなかったということだ。



 ばっかじゃないの?
 顛末を聞いて、アリアはふんぞり返った。
 いつものように担当のステージを終えたフォールは客として訪れていたアリアを舞台裏に引っ張り込んでいた。
 これはすでにお馴染みの光景になりつつあった。教会から酒場へと生活の拠点を移してから、アリアがフォールの練習を見る機会を作るのは難しくなっていた。そこで舞台については歌姫をひとり追加してフォールの持ち時間を減らし、来られる時はアリアが仕上がり具合をチェックしている。状況が芳しくないことに変わりはなかったが、なんとかフォールも安定して五重音声を出せるようになってきたので、招待主の不興を買うことはないだろう。
 万が一に失敗しても、今の彼女の実力で十分、他のスポンサーがつく。
「それとも何?この子は<スラム>に落ちてたかわいそうな子ですーって、注目されるのが嫌?」
 アリアも昼間の男と同じ、けれどもさらにストレートな表現をする。
 ただし、これについての見解は両者、平行線で交わらない。 「そんなの、良い宣伝材料だと思いなさい。どんなに才能があったって、名前を売るのは一苦労なのよ。踏切台だと思いなさい」  いざとなったら、<エデン>にフォールを守る人間もいる。友人は淘汰されるかもしれないが、家族くらい信頼してもいいはずだ。調べたかぎり、彼女が家庭に恵まれていないという情報はなかったのだから。 「そういうのじゃなくて」  アリアの強い口調に、それでも押されまいとフォールがつかえながらも口を開いた。 「なんていうか、帰るっていわれても実感ないし……」 「実感なんか帰れば湧くでしょ」 「アリアさんに練習見てもらえなくなるし……」
「要点は教えたわよ。プロでやってく気なら、自分でどうにかする努力もなさい」
「<スラム>にいたってことで、とやかく言われるのもヤダし……」
 最後の台詞に、フォールは息を吐く。そうだ。これだ。
 フォールとしては、別に<スラム>で過ごしたことに負い目が生じるとは思っていない。けれども<エデン>では違うだろう。
 昔の自分だって、<スラム>になんているのは救いようもないどうしようもない人間だと信じていた。
 しかし、実際に<スラム>で生活してみてそれは思い違いだったと気がついた。ここにだって、きちんと人間がいる。確かに闇もあるけれど、種類の違う闇だったら<エデン>にだって存在している。身を以て、フォールはそれを体験した。
 そういう意味で言うならば、ここはフォールにしてみれば立派な居場所だった。
 自分を成長されてくれた、貴重な大切な場所だった。
 フォールの表情から、何を考えているのかアリアも察する。それは、この<スラム>のリーダーとして嬉しいことだったけれど、世界中の他の<スラム>の実情を知る者としては喜べないことでもあった。
「何勘違いしてるの?」
 だから告げる。真実であって、真実でない。辛辣な事実。
「アリアさん?」
「<スラム>なんてものはね、恥ずかしいものに決まってんのよ。ある意味、究極のゴミ捨て場よ?それに愛着持ってどうするのよ」
「ご、ゴミ捨て場って、そんな」
「事実だから仕方ないでしょう」
 強く言い切る。
 フォールとアリアとでは年季が違う。生きてきた時間の長さも密度も、比べものにならない。
 勝負にならないことはフォールにもわかった。敗北は最初から察している。
 でも、主張せずに引き下がる選択肢はなかった。
「でも、あたしはここをゴミ扱いしたくないんです!」
「ゴミ扱いされたくないのは、あんたでしょう、フォンテール」
 話題が核心に触れる。
「ゴミ箱に落っこちて、今回運良く拾ってくれる人間が見つかった。宝石箱に移されることになったけれど、いつまでも『これ、ゴミ箱から拾ってきたのよ』って言われるのが嫌。そういうことでしょう」
 少女は言い返せなかった。
 思ってもいなかった、というわけではない。考えながらも、気がつかないようにしていたと理解してしまったからだ。
 それには気がつかないフリをして、アリアはさらに畳み掛ける。
「そして、それはあんたの逃げが招いたことでしょう。ツケは自分で払いなさい」
 例えば最初の時点。フォールは<エデン>に戻ろうとすれば戻れたのだ。確かにレファンシアの影響力は脅威かもしれないが、それでもどうにかできただろう。
 それ以降だって、いつだって。
 帰らないという選択をし続けたのはフォール自身だ。
 もし、完全に逃げようとするのだったら、もっと徹底的にすればよかったのだ。基本的に<スラム>間の移動は自由なのだから、極論、出身の<エデン>からさらに離れた<スラム>へ行ってしまえばいい。その上で、外見も変えて、何がなんでも歌わない。
 そうせずに、中途半端に逃げ続けたのが今の状況だ。……偶然から必然に操作したとはいえ、これだけ美味い話に繋がったのだから、清算の責任くらい果たすべきだ。
「そのくらい、できるでしょう?<スラム>で生きてきたよりも、よほど簡単よ」
「簡単ですか……?」
「命がかからない分だけね」
 事実はそうだろう。命よりも重いモノはない。
 けれども、フォールにしてみればそうは思えないのだろう。当然だ。今回のこれは、命の保証はされている。傷つくことがわかっているのに、あえて飛び込むのだから。
 けれども、それが彼女が望む世界。彼女を望む世界。
「どうしてもできないっていうんなら、この件白紙にして、今から代わりを考えるけど」
「それはっ」
 困ります。
 反射で言いかけて、フォールは逃げ場を失ったことを認めざるを得なかった。
 ただ俯く。
 論点を巧妙にすり替えられたとはいえ、結局何も反論できなかった。
 的外れだけれど、それが無性に悔しい。
 少女の心境に気がついたのか、アリアは視線を和らげた。
「じゃあ、わたしに手間かけさせた分は追加料金をもらわないとね。帰る場所があるのに勘違いしてだだこねたおバカさんには」
 言葉にフォールが顔を上げる。僅かに青ざめた表情におやと思う。
「えっと……アルバイト代から天引きに」
 今まで散々に電化製品を壊した時の常套句。
 なるほど、そっちへきたか。
 懐かしくなってアリアはくつりと微笑んだ。
「そんなんじゃ、足りないわよ」
「え、ええっと」
 思いもよらない切り返しにたじろいだフォールの耳元にアリアは吹き込む。


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