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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 9−4


「失礼いたします」
 用件を告げようとした女性は、本日の主役がすでに準備万端であるのに微笑んだ。まだ少女の域を出ない容姿には、思いのほか緊張は見られない。目を惹く美人ではなかったが、その分だけ好感が持てた。
「すみません。……気がつかなかった。もう時間ですか?」
 壁の時計は、まだ余裕があると示している。
 大掛かりな舞台ではないから、割と直前まで大丈夫だと教えられていたフォールは首を傾げる。個人のパーティでは予定がくるくる変わるのはよくある、と聞いていたから慌てたりはしなかったが。
「いいえ。ただ、主催の方が始まる前にお会いしたいと」
「そういうことでしたら」
 すっと立ち上がって、フォールは案内を請う。
 正直、舞台に上がるのと同じくらい緊張する。
 結局、あの後ほどなくしてフォールは<エデン>へと移った。
 ただ、家族以外には帰還を伏せてもらった。
 フォールの友人にはレファンシアのファンも多かったし、どこから情報がもれるかわからない。万が一にでもレファンシアが招待状を疑って如月財閥へ問い合わせるようなことがあれば、フォールひとりを消すために手段を選ばなかった彼女のことである。逆上して何をするかわからない。
 財閥側への説明は、拍子抜けするほど簡単だった。顔を赤らめて「恥ずかしいので」と呟いただけである。
 それで納得されるのだから、いかに<スラム>への認識が偏っているのかわかろうというもの。
 悲しくなったが、そんな素振りも見せないように努めた。
 今日の主催は、その<スラム>出身だという。世間的に、彼――カナメ=キサラギは<エデン>で生まれ育ったことになっている。だが、実際の『彼』は<スラム>で育ち、<エデン>へ上りつめ、あたかも最初からそこの住人であったかのように振る舞おうとしている人間だ。少なくとも、フォールの聞いた限りでは。
 けれども百聞は一見にしかず。
 もうひとりの『彼』の主張ばかり信じては不公平だろう。
「本番直前に申し訳ありません」
「そんなことありません。こちらこそ、無名の私なんかを抜擢していただけましたのに、お礼の挨拶もできていない状態でしたから」
「当主はお忙しい方ですから、仕方ありませんよ」
 廊下の突き当り、ひときわ重厚な扉が女性の手で開かれた。
「ふぉーる!」
 途端、呼ばれた名前と腹のあたりへの衝撃にフォールは息を詰める。
 見下ろせば、極上の砂糖菓子のような白いふわふわが目に飛び込んできた。懐かしさがこみ上げる。
「リー……」
 呼びかけて、視線に気がつく。正面からぶつけられたそれは、初対面の人間のものであったにも関わらず、驚くほどに既視感があった。
 当然だ。
 自分は、この男と同じ顔の人間を知っている。目の前の男と、正真正銘の一卵性双生児を。
 髪の色が違うだけで随分と印象が違う。
 ぼんやりとそんなことを認識しながらも、彼女は腰にへばりついたリーチェを丁寧にはがした。
「お会いした早々、失礼いたしました」
「こちらこそ、躾がなっていなくてすまない。リーチェ、来なさい」
 知っている声とは少々トーンが異なる。違いが環境ゆえか、それとも話し方から来るものかは分からなかったが、新鮮だった。
「改めてご挨拶を。フォンテール=グリークファーストです。お招きいただきありがとうございます」
 クラシックなドレスの裾をつまんで一礼する。その一挙手一投足をキサラギの当主はじっと観察していた。まるで<スラム>の匂いを探しているようだ。だが、三つ子の魂百までも。<エデン>育ちのフォールはそれを隠す方が楽だった。
「当主のカナメ=キサラギだ。本日は最高の歌を披露してくれるとのこと。期待しているよ」
「演じる前から最高と言われてしまっては緊張します。ご期待に沿えるといいのですが」
「最高だろう。……何せ、月民の多重音声だ」
 響く声には期待が感じられた。
 ただし、フォールの歌自体にではない。彼女の多重音声にだ。
 単なる天性の体質と、それを生かすための訓練の結果に。
「私は月民ではありませんよ。調べていただければわかりますが」
「けれども、声に間違いはあるまい」
 あくまでそこにこだわる姿勢にフォールは落胆を隠した。お世辞でもいいから、表現力とか、そういうところに注目して欲しかった。
 多重音声以外に魅力はないと断言された気がした。
(よく考えれば当然か)
 そうでなければ、あのレファンシアを差し置いて自分が選ばれるなんて事態にはならなかっただろう。
 アリアが呟いていたのを思い出す。
 不公平。
 かみさまは不公平。
 その通りだ。
 それ以外の何物でもない。
 噛み締めるフォールの心情は知らず、青年は話しかけてくる。
「今日の演目はいかがかな?」
「急なことでしたのであまり時間はかけられませんでしたが……」
「――急だったか?」
 潜められた毒に気がつく。確かに<スラム>へ招待状が届いてからは急だったが、それ以前、<エデン>にいた時代の打診から数えれば時間は十分にあったといえた。まあ、そのおかげで彼女はレファンシアからあの手この手で嫌がらせを受け、命まで狙われるハメに陥ったのだ。その紆余曲折を知っているだろうに、まるですぐに返事をしなかったフォールが全面的に悪いと言わんばかりの態度。
 ヒツギに一票。
 決意を新たにフォールは苛立ちを微笑みに換える。
「ええ。けれども、お望みの声に仕上がったと思います」
 目の前の彼が必要としているのは、特殊な声だけ。
 そう思えば良心も痛まない。
 存分に聴かせてあげよう。
 今も多くの音楽家が求める奇蹟の音を。彼のためではなく、招かれてきた方々へ。
 そして、彼女を育てた<スラム>の恩人へ。
 限りなく本物に近い、精一杯を捧げよう。


 会場の入り口でレファンシアは呼び止められた。
「おや、セレーネ。あなたも招かれたのですね」
「お久しぶりです」
 そつなく返して、時間を確認する。始まるまであまり時間がない。うまく躱して係の者に案内させなければ。
 彼女のそんな焦りも知らず、紳士は続ける。
「確かに、あなたを招かなくては話にならんでしょうな。如月氏が見つけてきたのは多重音声の持ち主だというが、月民は滅んだも同然。どこまで信用できるやら。これは、専門家であるセレーネの意見はぜひとも必要でしょう」
「え?」
 戸惑いを含んだ女の声は、彼女の姿を目敏く見つけ出した人々が取り囲んだことでかき消された。
「そうそう。それに音楽の素晴らしさは技術だけで決まるものじゃあないですから」
「そう考えると、十代の娘さんに深い精神性を求めるのは酷ですかな?」
「いや、その年代でなければ表現できないものというのもありますし……。ああ、失礼」
 目配せして、最後の台詞はわざとらしい。レファンシアに群がっていた誰もが感じたが、当の本人は何の反応も返さなかった。さすがと周囲は感嘆したが、現実、彼女はそれどころではなかった。
 何かがおかしい。
 ようようそれだけ認識した。
 周囲が薄暗くなる。
 タイミングを計ったように、会場の照明が落とされたのだ。
 一カ所だけが煌煌と明るい。
 選ばれた者だけが立てるその場所へ、如月財閥当主自らにエスコートされて現れたのは、レファンシアが取るに足りぬと軽んじようとして、それでも気にかけて、排除しようとせずにはいられなかった存在。
「フォンテール……!」
 ぎりりと押し殺した呟きは、部屋に満ちた喝采に消された。


 今日が晴れていて良かった。
 精巧に作られた体ではあるが、機械であることに違いない。雨水などを媒介として伝染する裂心症のウイルスから解放されているとはいえ、いずれかにある継ぎ目から侵入する水は紫野にとって大敵だ。ショートの恐れがある。
 彼がいるのは<春日文書>が入れられているケースの目の前だった。
 常ならばいるはずの警備員はいない。
 髪をかつての色に染めたヒツギが、現当主のフリをして遠ざけてしまった。自身は扉の外で番犬よろしく目を光らせているはずだ。もっとも、何かが起きた場合は紫野を置いて逃げるように言ってある。いくらなんでも<メシア>である彼の命令に逆らうことはないだろう。
 ケースに背を預ける。
 まるでこのような事態を想定していたかのように、他の<春日文書>のものに比べてこのケースは大きかった。重量もある。
 窓から運び出そうというのは大掛かりな仕掛けなしには不可能で、また、向こうの会場で歌うフォールの声の反応を取るために窓が大きく開いていた。
 この<春日文書>の鍵は特殊な声。しかも機械を通さない二人分のそれが必要。だから、フォールひとり分しかないと考えているこの屋敷の主はこんなにも無防備だ。
 けれども声はふたり分揃っている。
 窓の外、タイミングを待って佇む姿がある。
 微かな光源しかない庭でも、紫野にはくっきりと鮮明だった。
「特等席だ」
 伴奏が届く。
 紫野も知っている曲だ。
 昔々、まだ彼が生身だった頃。正真正銘の月民だった彼の妻が口ずさんでは、はっと止めていた。
 その時は理由が聞けなかった。
 この体になって、アリアが妻の記憶を受け継いで。
 尋ねてみれば、こう言われた。
『この曲は原点だから。でも、一番、不公平がわかるから』
 アリアがこの歌を真剣に歌っている姿を見た記憶は、ない。
 今宵が初めて。
 だから、彼女の答えの意味がようやく理解できる。
 呆れるほどに誤摩化しのきかない多重音声。駆け出しの歌姫から天才までが、歌えるようにそれぞれに見合ったアレンジができるようになっているとも言われている所以を知る。
 かつてこれを聞いて、春日まりあは絶望した。
 今日、これを聞いて、レファンシアは絶望するのだろうか。それとも這い上がるのだろうか。
 フォンテール=グリークファーストは絶望するだろうか。
 きっと彼女には届くだろう。庭で歌うアリアの声が。天才と賞賛された<七日間の奇蹟>春日まりあを地獄に突き落としたのと同じ肉体が紡ぎ出す音。


 昔語りをしましょう
 月を見ればあなたを思い出す
 だから私は腕を伸ばすのです


 涙のような余韻の中、彼の背後で錠が震えた。



 出来る限りの速さで走って、フォールは庭へ躍り出た。
 そこに人間の気配はない。
 薔薇色に染まった頬は、最初の舞台を成し遂げた達成感ゆえだけではなかった。
 耳を澄ましても、求める人物の声はしない。当然だろう。
 目的を達成してもそうでなくても、彼女たちが危険を冒すようにいつまでもぐずぐずしているわけがない。
 本当は知りたかった。
 計画の結果を、ではない。
 確かに彼らが首尾よく欲しかった物を手に入れられたのかは気になる点ではある。けれども、それはいずれ明らかになることだ。成功していれば、この屋敷ももうすぐうるさくなることだろう。
 自分が知りたいのはもっと別のことだ。
 歌っているフォールの耳に、届いたもうひとつの声。
 自分はそれと響けただろうか。
 感謝は通じただろうか。決意は伝わっただろうか。
 教えて欲しかった。
 何かメッセージくらいは残っているかもしれない。禁じつつも、そんな淡い期待をしていた。
 そんなわけはないのに。
 ふと視線を下げれば、芝生のなか、一カ所だけ不自然に凹んでいた。つい先ほどまで人がいた証だ。それも時間が経てば、風が吹けば。たちまちに消されてしまうだろう。
 でも、自分は忘れない。
 あの声を忘れない。
 あそこを目指すのだ。
 今は滅んだ月民の、その残骸があれだというのならば。
 振り仰いだ先、青い月がある。
 今は手が届かない。
 けれどもいつか、あれを。
 あそこに住んだ聖母の名を持つひとを手にする日がくるように。


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