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月を抱けば
Maria on the Moon
STAGE 9−2


「はぁい」
 酒場の喧噪のなか、モズク色が手をあげた。相変わらずの明るい声。語尾にハートマークか音符が似合う。
「ヒツ」
 最後の一文字を音にする前に、彼はフォールの手を引っ張ると強引に自分の隣に座らせた。
「その名前は今は秘密です」
「えっと、じゃあ」
「名前なんて呼ばなくたって、会話はできるでしょ?ふたりならね」
 軽い調子でヒツギは続けたが、視線は油断なく周囲を気にしている。
 招待状を受け取った後、アリアに連絡した。すぐに人を寄越すので、その人物に招待状を見せるようにと言われたが、まさか彼が来るとは考えていなかった。なんとなく来るのは紫野だろうと思っていたのだ。
「……大丈夫なんですか?」
 声を潜めたフォールにヒツギは苦笑した。
 如月財閥の誰かが、この酒場を見張っている可能性は多いにある。
「奴らの知ってる人物と今の僕とは姿形で結びつけるのはとても難しいからね。その辺の心配はしなくていいよ。ただ、名前がまずいんだ」
 曖昧に濁されて、けれども追求はできない。
 頷くだけに済ませると、彼女は注文メモにまぎれさせておいた招待状をすっとテーブルを滑らせた。彼はそれをすかさずメニューに挟むと、何喰わぬ顔で眺める。視線だけは真剣に。
 書かれた文面を読み、その視線が最後に辿り着いた時。
 彼の口元がふっと緩んだ。
「どうしました?」
 覗き込めば、そこには達筆な招待主のサイン。
「いや、ねえ」
 なんでもない風を装って、誤摩化しきれていない。本人も自覚しているのだろう。
「可愛いところがあるなと思ってさ」
「なんとか、なります……よね?」
 まさか直筆サインがあるとは考えていなかったので、これは手こずるかもしれないと、招待状を受け取ってから彼女はずっと考えていた。
 そんな彼女の心配など杞憂だと言わんばかりの余裕の表情で、ヒツギは招待状を自分の懐に落とした。
 不自然なところなどまったくない動作だった。
 彼に割り当てられた仕事をするために、どうしても一度招待状を持ち帰る必要がある。複写ではだめだと、計画の段階で断られていた。たしかに、そそっかしい自分がとっておくよりも安全かもしれない。
 言い淀んだフォールにかまわず、ヒツギは本当にいくつかの料理を注文する。
「君は心配なんか全然しないでさ、帰ることだけ考えてればいいよ?」
「でも」
 彼は、奪われた椅子を取り戻すために生きていると聞いた。ならば、いつか戻った先の財産をむざむざ減らすような真似に悔しさを感じないのだろうか。
「僕にとってはさー、フォーンテール=グリークファースト。僕がすべてを終わらせた頃に君が看板歌姫に、それこそセレーネを名乗ってくれていた方がよっぽど良い。だいたいさ、手つかずで<春日文書>が残ってたら、真っ先に聖母サマに寄付するね!」
 熱血に一息に言い切って。最後にひとつ。悪戯っぽく。
「申し訳なく思うんだったら、一杯サービスで」
 彼の<マリア>崇拝を出し切った台詞に面食らったものの、フォールもそろそ彼のこんな調子には慣れっこになってきていたので、ウェイトレスらしく可愛らしくにこりと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、ビール一杯、サービスで」
「せめて、ブランデー水割りとか、だめ?」
「採算が取れませんから」
「それこそ将来への投資だと思ってー」
 彼らの応酬は、酒場の喧噪に混じって埋もれていった。



 かたんとポストが鳴った。
 それは非常にめずらしいことだった。
 彼女宛の郵便物のほとんどは劇場か、あるいは所属の事務所に届く。自宅の住所はもちろん公表していない。
 ただ、今まで数えるほどではあったが、熱烈なファンが自宅を調べあげて手紙なり何なりを投げ込んでいったことはあった。
 今回もその手の類だろう。
 だとすれば朝早くからいい迷惑というものだ。
 ブランケットをかぶりかけ、しかし彼女はふと思い当たる。
 もしかしたら、数ヶ月前に頼んだ『あの仕事』に関わることかもしれないと。当然の用心として彼女は己の身分も住処も相手には明かしていない。すべてすべて偽りで済ませている。
 だからとて、彼らが彼女のことを探り当てないという保証などない。
 こればかりは家政婦に任せるわけにはいかない。訪問時間になる前に確認しなければ。
 彼女はざっと髪に櫛を通すと寝間着のまま外へ出た。この辺りの住人は朝は遅い。誰かに見られるおそれもそれほどない。
 扉を開けると、ひんやりとした空気に身が震えた。ポストまで十数歩の距離だが、おそろしく遠く感じた。ショールくらい羽織ってくるべきだった。後悔したが、取りに戻る気にもなれなかった。
 気が急いた。
 まさかあの小娘の生首が入っているなんてことはないだろう。けれども例えば、ばっさりと落とされた髪とか。生臭いところで手首とか腕とか。もしかするとそんなものが入っているかもしれないではないか。
 血に塗れた妄想は、ひどく彼女を駆り立てた。
 がくがくと震えてその場に留まろうとする足。焦れて走り出そうとする足。言うことの聞かないふたつの状況。
 矛盾をなだめながらポストの前に立つ。
 深呼吸をひとつし、かちりと蓋を開けた。そのつもりはなかったのに、しっかりと両の瞳は閉じていた。
 そろり手を伸ばせば、触れるのは乾いた紙の感触。生臭さもぬめる感触もなかった。
 複雑な感情で瞼を上げれば、指先にあるのは一通の手紙だった。
『レファンシア=デディ様』
 彼女にとって見慣れた、……パーティの招待状。
 そうであれば事務所に送れば良いものを。なんて紛らわしい。
 昂っていた緊張の分だけの悪態を胸の内で呟き。
 次の瞬間にはそれも霧散した。
 一見するとくすんだ白は、天然独特の色彩だ。
 四隅を縁取る金の細かな文様。
 差出人欄はプリントだったが、宛名書きは手書きだ。
 このご時世、これだけ揃っていれば相当な地位と富のある者を連想させる。そして、レファンシアの読みは正しく、かつ、彼女が今か今かと待ち焦がれたものであった。
 逸る心を抑え、駆け出しそうになる歩調を抑え。
 なんとか玄関に飛び込むや否や、ナイフの類を探すのももどかしく手で封を解いた。適度な強さの糊で留められていたそれは、綺麗にはがれた。
 震える手で折りたたまれたカードを開く。
 読み進めていくうちに、震えの種類が変わる。
 緊張から喜びへ。
「やったわ」
 知らず、言葉が零れる。
 なんとしても手に入れたかった招待状。如月財閥の後援を受けるために、どうしても欲しかった。
 優れた歌い手を援助するとしながら、厳しい基準をクリアする者が誰一人としていないまま、数年も資格を得られない、。あの、如月財閥に支援されたという事実が。自分が獲れなければ、誰が相応しい?
(むしろ、自分がとれなければ恥ずかしい)
 当代一の名折れだ。
(あんな小娘に盗られるなんて!)
 灼ける痛みを覚えたが、かつてほどではなかった。
 勝った。
 実感が、あれほどまでに固執した存在の重さを一瞬にして変えていた。
 そうだ。これで片付いたのだ。あの小娘は<スラム>にいる。よもやあんな場所へ如月財閥ともあろう一流が招待状を出すまい。一生あれは、スラムのゴミに埋もれて生きるのだ。
 そう考えると、ふとレファンシアの心が暗くなった。
 ただし、罪悪感にではない。そのゴミを処分するために、この自分が手を汚すハメになった。自分の人生にシミをつくってしまった。そのことでだった。
 依頼の取り消しは今更出来ないだろう。それとも、金を払わないと言えば良いのだろうか? それではだめだ。逆に彼女が逆恨みされる可能性が高い。
 どうしようかと悩んだものの、ついぞ結論は出せなかった。
 どうでもいいか。そんな情がじわり広がる。そう。ゴミが一個、処分されようが、こぼれてどこかに行ってしまおうが、大差ない。ゴミはゴミだ。
 それよりも考えなければならないことは、たくさんある。
 曲は指定されている。どれも馴染み深い曲だ。
 一から解釈を組み立てる、最悪のケースは免れている。ただ、この短期間で三曲というのは想定外。けれど、それをこなしてこそレファンシア=デディの価値がある。
 だけではない。アンコール用の曲は何がいいだろう。やはり伴奏のないアカペラの方が自分の声を生かせるはず。さっそく考えなければ。
 衣装もだ。会場は財閥の当主の屋敷だ。劇場でまとう大げさなドレスは必要なくても、人目を奪う、洗練されたドレスはいる。それに合わせたアクセサリーや靴も。
 そうなると今日の午後は練習などしている場合ではない。打ち合わせだ。それも極秘のだ。わざと少しだけ情報を流して注目度を上げるという手段もあるけれど、今回のそれには不向きだろう。
 様々なプランを練るレファンシアの頭の中から、フォールの存在はもはや消えていた。


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