もっとも、ノインの言葉に逆らえるようにレアノージュはできていなかった。 ある意味、教育の賜物といえるだろう。十年間の経験が選択の余地を奪っている。 だからこそ、今。 彼はひとつの通りに掲げられたアーチをため息と共に見上げていた。 日付が変わるまで、あと数分。 真夜中にも関わらず、嬌声が耳に響く。艶かしい化粧を、きわどい衣装を身につけた女性たちが見え隠れする。そんな彼女たちに吸い寄せられるようにどこからともなく湧いてくる男たち。次々と通りに吸い込まれていく。 レアノージュはいかにも慣れていない若い男に見えるのか、何人かの女たちが声をかけていく。しかし、欲のまったく見えない顔を認めては去っていく。その繰り返し。何度も。 それでもその場を動かずにいたレアノージュだったが、懐から時計を取り出してようやく行動する気になったようだった。 「そろそろいいか」 鼓舞するように呟く。 アーチをくぐれば、典型的な夜の街だ。雑多な香水が混じり合って、空気の色さえも染めているよう。 隙あらばと指を絡めてこようとする果敢な女たちをなんとか躱す。 レアノージュが目指すのは、通りのさらに奥だ。 奥に行くほど店の格、『商品』の価値はあがっていく。気軽に買える女たちはいなくなり、男の姿も少なくなる。 けれども彼が求めるのは、この通り――ローズブッド通りが売り物にしているものではない。 いつのまにか、辺りを静けさが支配しはじめる。 高級そうな門構えの連なり。控えめな灯り。どこまでもまっすぐで、横道はない。迷うことのない一本道。 と。 ふっと空気が変わった。 例えるならば、重苦しくて、息苦しい。人はそう評するだろう。それはあながち間違っていない。少しでも精霊術学に通じた者ならば言うはずだ……精霊の気配がまったくない、と。 時計を確認する。 真夜中、すぎ。 灯りが点滅する。 視界が黒く塗りつぶされる。 その一瞬で、レアノージュの目にそれまでなかったものが飛び込んできた。 通りだ。 それまでただ足下から一直線に延びるだけだった石畳が、彼の前方でくっきりと交差点を作っている。 まるで最初からそうだったと言わんばかりに。 この通りを何と呼ぶのか。レアノージュは知っている。いや、彼でなくとも名前だけであれば知っている者は多い。 レイジデスヨ通り。 吸血鬼を題材とした有名な怪談の舞台。 先日、傭兵たちのあいだで話題にのぼったときは軽くあしらっていたレアノージュたちだったが、実際のところ、それがちょっとした真実を含んでいることも知っていた。 ……ここは、真実、吸血鬼たちの潜伏場所でもあるのだ。 どういう術で通りを隠しているのか、レアノージュは知らない。ノインは見当がついているようだったが、さすがに教えてはくれなかった。 吸血鬼は、見かけは人間だが、歳を取らない。このため多くの吸血鬼は漂流生活を余儀なくされるが、少数だが定住の道をとる者もいる。定住者は各地を巡る同族たちと様々なやりとりをする。情報や、吸血鬼に特有の必需品。 レアノージュが向かおうとしているのは、そういった拠点だった。 もっとも、<精霊の恋人>である彼にとって、ここは本当に来たくない場所だった。 歩くごとに精霊を剥がされる感覚。まるで服を無理矢理脱がされたような気分は、不快でしかない。他の都市だったが、やはり同じ類の場所にノインに連れられていったときの記憶ははっきりいって最悪である。 あとちょっとノインの体調がマシだったら、絶対に動いてなんかやらなかったのに! いらだちと戦いながらも、ここに来た目的は忘れない。というか、さっさと片付けて帰るに限る。 大股で乱暴に歩く。 目的地を見つけるには、時間はさほどかからなかった。 風を起こす精霊がいない。にも関わらず、きぃきぃと軋みながら揺れる古ぼけた看板がひとつ。 そして、その意匠にレアノージュは確かに見覚えがあったのだ。かつてノインに連れられてこういう場所に足を踏み入れたとき。街は違えどはっきりと覚えている。 緑青の銅の地に、くっきりと黒く浮かび上がった黒い薔薇。その下に飾り文字が刻まれている。 ロゼ=アデルハイト。 世界で最も有名な吸血鬼の名前であり。 この店の名前でもある。 無意識に喉が鳴った。 それまでの勢いが嘘のように、そろそろとレアノージュはそこへ近づいた。扉の前に立ち、それでも決心がつかずにもう一度看板を見上げた。 決心がつかない、というのは正しくない。 彼を躊躇わせるのは恐怖に近い。 なぜなら、扉の向こうからは……何も感じないからだ。 当たり前のように自分とともにある気配。世界に満ちている気配。精霊の気配。それがない。ありえない世界。 通りにいる今でも、レアノージュを取り巻く精霊はいつもの半分以下。その数だって、レアノージュだから保てているようなものだ。中途半端な<恋人>であれば、おそらくほとんど裸にされてしまうだろう。 それほどの特殊な空間だ。怪談のタネになるのも頷ける。 もっと精霊が周りにいれば良いのに。 (……ここには誰もいないんだし) ちらりと誘惑が脳裏を掠める。 自分には簡単に精霊の加護を増やす方法がある。 が、理性がそれを抑える。たしかにこのレイジデスヨ通りは普通とは違う場所だが、普通の場所であるシュトラウスのなかにあるのは事実なのだ。ここで短気を起こしては、リエンに気がつかれてしまう。<剣鎮め>の儀式の巫子である彼女にだけは、真実を悟られてしまうわけにはどうしてもいかない。 そんな無言の戦いを繰り広げいるのをまるで見透かしたように。 扉が薄く開いた。 ノッカーに手を置いたままだったレアノージュの方がびくり揺れる。驚いたなどという言葉では足りなさすぎる。 芯から固まった彼をおもしろがるよう。ことさらゆっくりと扉が動く。 レアノージュの視線の位置には何もない。 それにさらなる動揺を覚えるも、もっと下の位置、ちょうど彼の腹の高さあたりから声が響いた。 ぴんと高い子供の声。そのくせ雰囲気と口調だけは熟成された何かを感じさせる。 そろそろと視線を下げれば、見事な黒髪があった。 ぬけるように白い顔と、奈落のように黒い瞳と、血を塗ったような濡れた唇。 ……そのまま、あの怪談話の少女だった。 ちょっと違うのはドレスの色が藍色だったことくらいか。ご丁寧にウサギのぬいぐるみを片手にぶら下げている。 つい感心していると、少女がはあと重いため息をついた。 「あなたのその耳は飾りなのかしら?<精霊の恋人>さん」 「え?あ、えっと……」 「何をしにいらしたの?って聞いたのよ」 言葉遣いは丁寧だったが、あきらかにレアノージュを疎んじている。その気配を隠そうともしていない。 それもそうだ。彼女にとって<精霊の恋人>は天敵。いくらこの場所の精霊が少なく、レアノージュに不利であろうとも、彼の一声があれば形勢逆転してしまう。 「えっと……その」 にも関わらず、レアノージュは少女に圧された。 用意してきた言葉がくるくる頭で回転する。音になってくれない。 魚のように口を動かすレアノージュを、てっぺんから爪先までしげしげと観察し、少女はまたもやため息。 「……聞かなくてもなんとなく見当はついているのですけれども。お入りなさいな」 大きく扉を開ける。 覗き込めば、暗黒。 実際にはランプの光にやわからく照らされている。上品な酒場といった風情だ。カウンターの中には男がひとり、グラスを磨いている。彼もまた、見事な黒髪をしていた。吸血鬼である。 そこまでも見取れるほどの明るさなのに、やはりレアノージュにしてみれば暗黒だった。精霊の気配が微塵もない! 生まれたときから精霊とともにある彼にとって、そこへ行くのは棺桶に足を突っ込むようなものだった。 それでもなりふり構ってなどいられない。 死地に踏み込む。 ばたん!と背後で自動扉よろしく退路が閉ざされたのには冷や汗。でも、この期に及んでつべこべ言ってもしかたない。 開き直りに近い感情で、カウンター席へ腰を下ろす。疲れたように頬杖をついた彼を面白げに少女が眺めた。 「あなたが、ノインの今の<精霊の恋人>さん?」 「……そうだよ。よくご存知で」 「少し前に、若い仲間から情報があっただけ」 それは、つい先ほどに自分たちを襲撃した吸血鬼だろうなと考える。ということは、この少女はあの男よりも歳をとっているのだ。 「ノインは、相変わらず?」 「……少なくとも、この十年程度は相変わらずです」 「そう。かわいそうに」 ぽつりと少女が呟いた単語。レアノージュは動きかけた肩を抑える。 彼はノインをかわいそうだとは思わないけれど、吸血鬼にしてみれば最大級に不幸なのだろう。 最初で最高の<恋人>に置いていかれて、そのまま五百年以上も過ごしてしまったノインは。 レアノージュの仕草に、少女は感じるものがあったのだろう。 話題を打ち切る。 「あたしは、エミリー。ここの店を預かってるの」 「レアノージュ=トリル=バージニア。ノインに頼まれて、薬をもらいに」 「<精霊の恋人>のあなたが来たってことで彼に何かあったのだろうとは思ったのだけれど……。どうなさったのかしら?」 「例の貧血で動けなくなった」 簡潔な言葉に少女は頷く。同族である彼女たちにしてみれば、日常茶飯事のことであると同時、人間にまぎれて暮らしていくうえでの死活問題であった。 この『例の貧血』は放っておくと、吸血鬼が吸血鬼と呼ばれる由縁――吸血衝動へと繋がるのだ。 それを抑えるための薬をこの店では取り扱っている。 「このあいだ他の店に寄った時にも、けっこう買い占めていったと聞いたのだけれど。仕方ないわ。どれくらい必要なのかしら?」 「渡されたのはこれだけだから、範囲内でってことだと思うけど」 ノインから預かった財布を渡すと、少女は遠慮する様子もない。中身をあらため、硬貨を数える。 「……多いわね。これからどこへ?」 確かに財布にはかなりの額が入っていた。ノインがどれくらいの量を買おうとしているのかレアノージュにはわからないが、少女の言葉を考えるに、かなり多く買いだめしようとしているようだ。 だが、それも当然である。 これから彼らが向かうのは。 「ガーデンの中央四季祀殿に」 大陸の中心。精霊を崇め、吸血鬼を排斥する人々の本拠地である。 まともな吸血鬼であれば、まず近寄ろうとはしない。 尋ねておいて、少女も少し息を呑んだ。あくまでも、少しだけ。 おそらく、彼女はノインのことをよく知っているのだろう。無茶だとも無謀だとも何も言おうとはしなかった。 伸び上がってカウンターの男へ声をかける。 「ジェネラス」 「なんです?エミリー」 男が手を止めた。 「ミレニアムを七……いえ、八本お願い」 「それだったらレジーナを五本のほうがよろしいのでは?」 「いいのよ、ミレニアムで。彼は絶対にレジーナは飲まないもの」 「そうですか。では、準備いたしますので、少々お待ちください」 にこやかに告げると、男は店の奥に消えた。どうやら、そちらに商品が置いてあるらしい。 レアノージュといえば、ちょっと戦々恐々としていた。明らかになった事実に。 思わず、隣にちょこんと腰掛けている少女に念を押してしまう。 「あのさ」 「なんでしょう?」 「ミレニアムって、このっくらいの瓶だよね?」 「そうですけど」 ちょうど自分の肘から手首くらいの長さを確認して、レアノージュは顔がひきつるのがわかった。便宜上、薬と言っているが、その実、それはガラスのワインボトルのような形状だと考えても良い。というか、知らないで見ればワインボトルにしか見えない。 それが八本。 集団行動している時は荷馬車に積み込ませてもらえばいいが、問題はそこまでだ。ここから宿まで運ぶのはレアノージュひとりでやらなければならない。 その苦労にはたと彼女もやっと思い当たったのだろう。 「そうね、たしかに人間にはきついものね」 吸血鬼の筋力をしてみれば、こんな細い少女であっても簡単な仕事だ。が、<精霊の恋人>であるだけの彼にとっては一大事である。 「同族ばかりを相手にしているから、新鮮だわ」 「鮮度は関係なく手伝っては……もらえるわけないか」 病的に白い少女の顔を眺め、自主的にあきらめる。新たな怪談を生み出す片棒を担ぎたくはなかった。 そんな彼に少女は不思議そうに首を傾げた。黒髪が、さらりと肩を流れる。 「あなたは<恋人>でしょう?この通りを出たら、精霊に手伝ってもらえばいいじゃない」 「できることはなるべく自分の手でやったほうがいいでしょうが」 たしかに精霊に頼めば、彼らは喜んで手伝ってくれるだろう。けれども、自分ですこし労力を払えば済むことまでも、精霊に頼りきりになるのは危険だ。 思ったとおりを答える。 少女が軽く目を見張り、くすりと笑う。そのまま止まらない。 その反応をどう解釈してよいのか。戸惑うレアノージュに、手を振って彼女はごめんなさいと断る。 「まったくノインね。相変わらずステキな感じに育ててるわ」 「?」 「ああ、わからなければ良いの」 あしらわれていると思ったが、レアノージュは引き下がった。おそらく少女はノインが歴代行動を共にしてきた<精霊の恋人>のことを言っているのだ。そしてこれは本人に対しても踏み込んだことない領域。こんなところで詮索すべき内容ではなかった。 興味はとてもあったけれど。 「きちんと言いつけを守ってるのは、偉いわね」 「一理あると思ったからだよ。……力を使いすぎると、見つかりやすくなってしまうから」 誰にとは。どこにとも言わない。 しかし、少女はそうねと頷いた。吸血鬼の情報網では、長老と一緒にいる<精霊の恋人>が何であるかは知られているのかもしれない。 ある意味脅威だったが、彼らが祀殿と対立している以上、余計な手出しは無用だった。 しばらく沈黙が流れる。 話題がない。 静けさが心地よいものから決まりの悪いものに変化する直前、計ったように奥から男が再登場した。 手に麻袋を持っている。それをひょいとカウンターに乗せた。 「ミレニアム八本です。どうぞ」 気軽な動作だった。が、レアノージュはだまされない。何せこの男だって吸血鬼。ミスター馬鹿力。 案の定、麻袋を持ち上げようとしたが、動いたのはレアノージュのほうである。 「重っ」 「あら?そう?」 思わずつまずいた彼の脇から、ひょいと小さな手が差し出される。誰が見てもかわいらしいと感じる手が、実にスプーンを持ち上げるような可憐な動作で麻袋を地面から浮かせた。 「これが持ち上げられないなんて不便ね」 「いや、多数派だから」 頬が引きつるのが抑えられない。しかも、この状態では奪い返すことも簡単ではない。 どうにかして主導権を取り戻さなければ、ひょっとすると本当にレイジデスヨ通りの出口すれすれまで少女はついてきてしまうかもしれない。 ……第一、普通の世界に放り出されたら、この大荷物を精霊の力を借りないでどうにかする自信はレアノージュにはなかった。 どうにかしなければ。 必死になって頭を回転させるレアノージュを救ったのは、残る一人だった。 「エミリー。台車があるでしょう。あれを貸してさしあげれば?」 「でもあれ、壊れかけているんじゃなくて?」 「いえ使えれば十分ですというか貸してください」 魅力的な提案を却下されないうちに慌てて滑り込む。 少女は不満そうだったが、しばらく考えて承諾した。 「じゃあ、使い終わったら、いつか新しいのにして返しにきてちょうだいな」 「いつか?」 「そう。いつかでいいわ。……もしあなたが生きているうちが難しいのであれば、あなたの子供か、孫でもね」 それほどの時間が経っても、きっとふたりのどちらかは。この店に変わらぬ姿で生きているだろう。 吸血鬼としては的確で、けれども不幸な未来を示した彼女にレアノージュは微笑むだけに留めた。 なぜなら、彼女の言葉には、レアノージュにはどうしても不可能な未来も含まれていたからだった。 店の棚には法霊石がぎっしりと並んでいる。 精霊術学を修めた者向けの専門店だ。さすがにシュトラウス最大をうたうだけあって、春夏秋冬すべての宝石が人工物も天然物も、屑から最高級品まで揃っている。 祀殿の目の前にあるだけに、術者だけではなく<精霊の恋人>や祀殿の関係者も多い。 ヘレナとウィエルは法霊石を見繕いに来ていた。ウィエルは秋季の精霊の扱いを得意とする術者だ。ちなみに残るひとりはアガットという冬季の術者で、今は巫子の護衛にと宿へ残している。 彼らの雇い主は宝石商だ。法霊石は雇い主から提供される。足りない分は雇い主から安く仕入れる。 彼らはそのうちで上質の法霊石を売り、代わりにすこし劣るものを買うことにしていた。最高級の法霊石を使わなければならないような強敵に出くわしたこともなかったし、だったらよく使用するものを大量に手に入れたほうが効率的だ。 そんな恒例だった。 ただ、ひとつ違う点があった。 「それにしても良かったのか?」 「何がよ」 「勝手に持ち出して売り払ったりしてだ」 「大丈夫よ。どうせ気づきやしないわ。あの男が法霊石を使ってるのなんて見たこともないんだし」 ヘレナがとげとげしく示したあの男とは、無論、レアノージュのことだ。春季が専門と言ったレアノージュに雇い主が与えたエメラルドの良い物のいくつかを、彼女は勝手に持ち出していた。 (それに、弱みも握っていることだし) 彼が気がついたとしても、ヘレナのやったことだとわかれば何も文句も言うまい。……うまい相手を見つけたものだ。 もっとも、彼女は知らないことだが、先の襲撃でレアノージュは最高級のエメラルドを大量に懐に入れていた。襲撃者が持っていたものを、丁寧に全部拾い集めていたレアノージュ。そんなことをしなくても精霊王すら呼び出せるのに、これもノインの教育である。 ウィエルは肩をすくめるに留めた。 長年の付き合いで彼女の性格は知っていたし、臨時の同僚に対して何をしているのかも知っている。まあ、レアノージュの経歴詐称疑惑については、術者全員が同じ意見なので別に感慨はなかった。 その間にもヘレナは次々と籠へ法霊石を入れていく。よく使うランクの石は決まっているから、迷いはしない。 それに加えて臨時収入があるから、彼らの足は自然と最高級品のあるエリアへと向かった。 他と厳密な区別してあるわけではないが、明らかに客層が違う。 人はまばら――今は祀殿の衣を羽織った初老の男性がひとりいるだけ――で、それぞれの法霊石は透明のケースに入れられている。手に取るときは店員に頼まなければならない。 「このルビー、良いわね」 「ああ。このサファイアもなかなかだ」 長年、宝石商の雇われているだけあって、彼らの鑑定眼は厳しい。それでも、手を出してもいいかという値段と品質だ。 「アガットにも買っていってあげましょうよ。留守番してくれているし、ノージュのおかげで潤ってるし」 冬季のコーナーに並べられたダイヤモンドを見ながら、ヘレナが言う。彼女は気に入っている人間には気前が良いのだ。 「そうだな。アガットが気に入るとなれば、どれだ?」 屈んで品定めに入ろうとした時だった。 すっと視線に靴が見えた。 先にひとりいた、祀殿の男だった。 明らかに意図的に近づいてきていた。 ふたりは身構えた。今の自分たちの仕事は、巫子と法霊石の中央四季祀殿への輸送警護である。巫子については巫子自身の独断だが、法霊石はそうではない。 付け加えれば、術者である以上、祀殿は無視できない。 「何か御用でしょうか?秋季の祭司様」 服装から素早く位階を読み取って、礼をとる。 彼らの様子に微笑んで楽にするように示すと、祭司は『個人的なことで恐縮なのですが』と前置く。 「懐かしい名前を聞いたもので、つい声をかけてしまいました」 「?」 穏やかそうな表情のなか、祭司の目は真剣だった。 「ノージュとは……、まさか、<精霊の恋人>のレアノージュのことではないですかな?バージニアの」 「そう、ですけれども」 ウィエルが答える。 レアノージュが<精霊の恋人>であるのは事実だ。 彼が今回の仕事の登録のときに使っていた名前は、たしか『レアノージュ=ヴァーン』だったか。けれども、どうやらそれは偽名らしい。とにかく、バージニアの出身であるのは本人の口から出ていたことだし、確実のようだ。 おそらく祭司の言う人物と、彼らの知る人物は同じ人間だろう。 ヘレナに互いに目で確認する。 隠し立てするのは良くない。 ヘレナが切り出す。 「……彼が、何か?」 「彼?彼、ああそう、彼ですか、彼女じゃなくて。そうですか」 一瞬、祭司の雰囲気が険しくなる。が、ふたりがあれと思ったときには霧散。もとの穏やかな気配が続いていた。 何度か確かめるように呟いた単語にヘレナは人違いかと思った。 彼女じゃなくて。 ということは、この祭司の言う『レアノージュ』は女性なのだ。 慌てて訂正しようとしたヘレナを遮って、何事もなかったように祭司は誘う。 「では、すこしお時間よろしいでしょうか?」 夜明け。 一行は何事もなかったかのように、シュトラウスを発った。 リエンも、ヘレナも、ウィエルも、ノインも、レアノージュも。誰ひとり欠けることなく、中央四季へ。 ただ、シュトラウスの秋季精霊祀殿から一羽の鳩が飛び立った。 彼らより遅く、彼らを追い越して。 |