奏幻想滸伝
          東奔星走6


 どさりと団子になって彼らは放り出された。
 夜露がしっとりと冷たい。
 どこまでも続く腰までもある緑の草原だった。
「……失敗」
 短くルックが評する。とっさに、それも風の紋章と連続して瞬きの紋章を行使したために、着地地点がずれたのだ。おかげで空中から落下してしまった。
「……どこだ、ここ」
 男がぎこちなく周囲を見渡した。草原を渡る新鮮な風を大きく吸い込んでルックは考える。どこ、と明確に転移の目的地を思い浮かべたわけではない。
「パンヌ=ヤクタ地方のどこかだとは思う」
 真の紋章を使った転移ならいざ知らず、自分の瞬きの魔法では、あの状況下だとエルフの集落まで移動できればいい方だ。
 立ち上がってバレリアが目を凝らす。しばらくして首を左右に振った。
「明るくなるまで待つしかありませんね。無闇に動かない方がいい」
 冷静な彼女の判断に、青年が勢いよく抗議した。
「そんなことを言っている場合か?!早く行かないと……!」
 今にも駆け出そうとするカイリの足をバレリアが言葉で止める。
「どこに行くんだ?」
「決まっている。もう一度城に行って、クワンダ様を止めないと」
「止められるの?」
 するりと会話に割り込んだのはルックだった。
 少年に似つかわしくない目で男を眺めている。
「今から城に迷わずに行けるわけ?ここがどこかもわからないのに?それにさっきのクワンダの様子を見ても、止められそうにないことは明白じゃないか。 わざわざモンスターの餌になりに行くの?」
 連々とした質問は真理だった。けれども、頭ではわかっていても、心では納得しない。できないものだ。
「カイリ、こっちへ来な」
 バレリアが少し離れた場所から手招きした。
 訝しげな男たちにバレリアは笑う。
「ふたりで話そう。……悪いが」
「わかった、僕はその辺にいるから、終わったら声をかけて」
 言葉を継いで、ルックは溜息をついた。無理な紋章の行使が疲労を倍増させていた。手近にあった大きな石に腰を下ろす。
 ぼんやりと夜空を眺める。細い月と白い星。澄んだ風が、パンヌ=ヤクタの吐き気のしそうな空気を吹き飛ばしてくれるようだった。
 城内に蔓延していた闇は、クワンダの右手を中心に渦巻いていた。ウィンディが彼にどのような命令を下したかは知らないが、原因がブラックルーンであるのは間違いない。 ブラックルーンは直接宿っている人物だけではなく、周囲にも確実に影響を与えていた。
 彼の従えていた竜型のモンスターは異界から召喚したものか。そんな力も、あれにはあるのか。
 グレッグミンスターに置いてきた人物を思い浮かべた。宿している時間はクワンダと同じか、あるいは、長い。
 ルックができるかぎり影響を打ち消すように対処してあるから、今はなんともない。だが、もっと時間が経ったら。ウィンディがもっと支配の力を注いだら。
 彼もクワンダと同じようになってしまうのだろうか。
 考えると、少し不愉快だった。



 そのままうとうとしてしまったようだ。
 そっと肩を揺すられた時、空の色は微妙に変わっていた。夜明けが近い。
「すみません、こんな時間に」
 せっかく寝ていた所を、とバレリアが謝罪した。彼女の顔にうっすらとしたクマを見つけて、恥ずかしくなる。彼女は眠っていないのに。
「……どうするわけ?」
 単刀直入にルックは尋ねる。遠回しに聞くことに、なんの意味もなかった。
「私は軍を出ます。エルフとドワーフに、それからコボルトたちに知らせに走ります。カイリは……」
「俺はパンヌ=ヤクタに戻る」
 ルックに背を向けて、男は立っていた。すっと伸びた姿勢と声には先ほどとは違った冷静さがあった。
「何も言うなよ、無謀なのはわかってる」
「だけど……」
 それでもルックは尋ねずにはいられなかった。今のクワンダは正気ではない。何を訴えようと彼の良心には届かない。
 低くカイリは笑ったようだった。肩が震えた。
「故郷だからだよ」
 零されたのはひどく簡単な理由だった。
「ここが俺の故郷だからだ。ドワーフがいて、エルフがいて、人間がいて。人間しかいないってのは、違うんだよ」
「いがみ合っていても?」
 素直な質問。
「今さら仲良くしてたら、すっげえ違和感がある。ここはそれでいいんだ。……それがいいんだ」
 だからクワンダを止める。決意したその姿には清々しさがあった。
 何を話し合ったのかは知る由もないが、彼の決意を翻すことはできそうになかった。
「そう……。僕にはよく分からない」
 正直な感想だった。故郷だからといって命を投げ出すようにして守ろうと思うものなのだろうか。
 ルックにとっての故郷はハルモニアだ。けれども、そこまでして守りたいとは思えない。――だからこうして生きているのだけれど。
 自分は間違っているのだろうか。どこかおかしいのだろうか。
 ゆっくりと瞳を閉じる。
 耳元で、かちゃりと金属の音がした。首筋に冷たいものが触れる。
「なんのつもり」
 突きつけられているのはカイリの愛剣だった。狙いを過たずに、ルックの頸動脈に合わされていた。気づかぬ間にここまで距離を詰めたのは、流石は軍人というべきか。
「おまえは帝都に戻ればウィンディ様にこのことを報告する義務があるだろ」
「口封じ?時間稼ぎ?」
「両方」
 慌てもしない少年。様子を見ていたバレリアが顔を歪めた。この地方のすべての種族に危機を知らせるためには、自分たちへの追っ手を減らさなければいけない。 そのためならば。
 多くの命を守るためには。
 苦悩を滲ませるバレリアと反対に、少年はあくまでも冷静だった。
「悪いけど」
 喉元に凶器を当てられたまま、ルックがくすりと笑った。次の瞬間、彼の剣は空に浮いた。
 驚愕に視線を走らせれば、近くの草原にルックは静かに佇んでいた。緑の法衣が風景と同化する。
「僕は今は死ぬつもりはないんだよね。それはそれで面白い結果になりそうだけど」
 風が草を揺らした。自然のものではない。少年を中心に円を描く。溢れ出す魔力の波だ。紋章でもなんでもなく、魔力という力そのもの。
 縛られたように動けなくなった。まるで空気そのものの粘度が増したようだ。息ひとつするにも、重い。
「取り引きしない?」
 風が、少年の髪をやわらかくまき上げた。濡れたように光る瞳。
「僕はあんたたちのことをウィンディに言わない。任務を果たして、パンヌ=ヤクタで別れたことにする。あんたたちはそのままクワンダに仕えた。代わりに」
「代わりに?」
 まるで悪魔と契約するようだ。ふたりは同時に思う。子供の頃に読んだおとぎ話。魂と引き換えに人間の望みを叶える、美しくて強い、恐ろしい存在。
「あんたたちも、僕のことは今後いっさい口にしないこと。たとえどんな状況でも、誰に要求されても、誰に会っても決して」
 ぎこちなくバレリアは頷いた。それを見届けて、ルックの瞳が細められる。
「そっちは?」
「わかった」
 剣があるべき場所に収められる。態度から軽んじる気配のないことを確認してルックはそのまま瞬きの紋章を光らせた。 一眠りして魔力は十分だった。これならば転移を繰り返して無理なくグレッグミンスターへ辿り着ける。
「……感謝します」
 バレリアが軽く頭を下げた。
 別に礼を言われることではない。
 どちらにしろ、最初から自分はウィンディに報告するつもりなどなかったのだから。



「時が、来ました」
 ゆっくりとレックナートは闇を滑る。言葉は彼女の弟子に向けられていた。
「レックナート様?」
「戦が動き始めます。舞台は整いました」
 ササライには彼女が見えぬ瞳で何を捉えたのかはわからない。理解できたのは、ついに宿星戦争が始まるということだ。
「支度はできていますね?」
「はい」
 傍らの石版をササライは見上げる。約束の石版と呼ばれるそれは、戦を導く天魁星がすでに埋まっていた。
 リン=マクドール。
 ここに今回、ササライの名が刻まれることはない。だが、いつか必ず、彼は名を連ねる。すべてはそのときのために。
「行きましょう、彼らに宿星の加護と……奇跡を」
 運命の管理人の声が紡がれ、それを合図に門が開く。
 次の瞬間には、ササライは大広間にいた。
 見知らぬ顔とわずか見覚えのある顔。こんなに大勢の人間に囲まれるのはハルモニアを出て以来初めてだと考える。
 あっけにとられた、むしろ状況についていけていない彼らに向かって丁寧に頭を下げた。
「ひさしぶりです。きちんと覚えていただけているといいのですが。レックナート様の一番弟子のササライです。 師の命で、これからお世話になります」
 それから、と、どこかのんびりとササライは背後を示した。そこにあるのは石版である。
「この石版を置く場所、どこかありませんか?」



 バルコニーから星を眺めていたウィンディの視線が険しくなった。
 星が動いた。
 彼女は妹ほど星見に精通しているわけではない。無論、真面目に取り組めば違った結果が生まれたのだろうが、到底そんな努力をするつもりはなかった。
 彼女は占いが嫌いだった。どんなに力を費やしても、見ることのできるのは確実性を欠いた未来だけ。
 それよりも、もっと実践的な紋章術を極めることを彼女は望んだ。
 今の地位も、それゆえに手に入れられたのだ。満足していると言っていい。
「相変わらずだね、レック」
 久しぶりに愛称を舌に乗せる。かつてのような優しさよりも、苦々しさが勝った。
「目的は同じだったはずだね」
 ヒクサクの力を削ぎ、ハルモニアを滅ぼす。手を取り合って誓った。なのに。
「いつから、違ってしまったのかしら……」
 ぽつりと漏らした言葉を拾うものは誰もいない。


***


 次の日、ルックはグレッグミンスターに戻った。予定通りの報告を済ませると、ウィンディの前を辞した。
 彼女の顔を見ているとどうしてもパンヌ=ヤクタの空気を思い出してしまう。
 すでにクワンダからは焦魔鏡が届いたことについて感謝が伝えられていた。 彼は目的が達成されたことで、ルックたちの態度を不問に処すことにしたらしい。彼らがウィンディの命を受けていたせいもあるだろう。
 長期の任務を果たしたというので、ルックは僅かだが休暇を得られた。
 ずっと外で動いていたからありがたい。読みたい本もたくさんある。城の図書館には貴重な文献も相当数あった。
 いろいろ計画を立てながら扉を開く。
 この部屋で長いこと過ごしたわけではない。だが、なんとなくほっとした自分を自覚した。
 寝転がって本を読んでいるテッドが顔を上げた。
「よ、お疲れさん」
 視線が彼の右手に吸い寄せられた。
 そこに宿るブラックルーンは相変わらずだ。
 けれどもテッドも相変わらずだ。
 それを見て、出てきた言葉も相変わらずだ。
「あんた、そんな高等五行紋章理論なんて今さら勉強してどうするのさ」
 そんな空間にほっとした自分だけが、相変わらずではないなと思った。


***


 これより二か月後の夏の盛り。
 パンヌ=ヤクタ落城の知らせがグレッグミンスターを震撼させた。<鉄壁>クワンダ=ロスマンのまさかの変心は多くの困惑と混乱をもたらした。
 そして。
 解放軍軍主リン=マクドールの名前が赤月帝国全土を席巻する。


<2004.11.7>


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