奏幻想滸伝
          異花接木1


 それは影のように。
 それは解けない鎖のように。



 彼女は花が好きだった。
 彼女は小さな花が好きだった。
 特に白くて可憐な花。
 彼が華やかで大きな花を好んだのとは対照的だった。
 彼が愛したのはバラだった。優秀な庭師を雇い、四季折々、バラを屋敷に咲かせた。
 身体の決して強くなかった彼女だったが、夫とともにお忍びで彼のバラ園を訪れることがあった。
「わたくしも、ここにバラを植えても良いかしら」
 思いつきで、彼女は一度だけ呟いた。城には空中庭園があったが、彼女は彼の庭に花を咲かせることを望んだ。それだけで、彼は充分だった。充分すぎた。
 けれども、そのささやかな幸福が叶えられることはなかった。
 彼女はいってしまったのだから。
 理解していても、面影を追うことを止められなかった。



 パーティ会場は盛況だった。
 きらびやかに着飾った男女が笑いさざめきながら、なめらかに歩いて行く。盛りつけられた料理は燭台の光を受けて、つやつやと輝いている。闇を払うかのような光の洪水。
「恐ろしいこと」
「本当に。まさかあの方が謀反に加わるなんて」
「進んでクワンダ様が反乱軍に加わるはずがありませんわ。きっとこれですわよ、これ」
 妙齢の夫人が、小さく手を動かした。指でつくったのは金銭を現す文字。
 パーティ会場で、先日の敗戦については禁句だった。しかし、今現在の最大の話題であり、禁止されればなおさら話したくなるのが人の心というものだった。
 まあ、まあ、まあ。ふんわりとレースで縁取られた扇で驚きを示しながら、彼女たちは視線を巡らせる。こんな現場を皇帝の寵妃に見つかったらと警戒しているのだ。
(警戒するくらいなら、最初から話さなければいいのに。ゲルトルード夫人にノースランド夫人。それからファーレン伯爵令嬢)
 その様子を壁にもたれかかってルックは眺めていた。名目は会場の警備。本質は宮廷貴族の顔を覚え、彼らの人間関係と力関係を把握することにある。
 時折、場違いな少年に興味の目が向けられる。しかし、話しかけられることはなかった。 彼が発散している不機嫌な空気が、整って冷たい印象を与える容貌が、興味を上回った躊躇を持たせるらしい。 さらには自分より美しい異性に声をかける女性は滅多に存在しない。
 このパーティにはルックと同じくらいの年齢の貴族の子弟も招かれている。 だが、彼らは明らかに知らない顔である――貴族ではない――ルックに積極的に声をかける真似はしない。話しかけられても、ルックも無視しただろうが。
 はるかむこうにウィンディが見える。皇帝の傍らで微笑み、国内の有力貴族たちとそつなく会話をしている。そのなかには帝国水軍を預かるソニア=シューレンの姿もある。
(ふうん)
 叩き込んだ情報では、帝国軍では最強を誇る魔法兵団を率いている、テオ=マクドールの恋人。つまりは、解放軍主のリン=マクドールの義理の母親になるかもしれなかった人物。
(魔力はまあまあ。でも、それだけ)
 あっさりと判断を下す。情報部に籍をおいてつかんだ情報では、解放軍の魔法兵団はササライにまかされている。単純な魔力比べでは、彼女がかなうわけがない。 兵法を考慮に入れても、どうか。
 そのとき、ひときわ大きな歓声が上がった。扉から波のように押し寄せる。
「まあ、ミルイヒさまですわ」
 花将軍と呼ばれる男性が到着したのだ。女性たちが彼の衣装を一目見ようと身を乗り出す。
 もっとも、そのファッションセンスはルックには理解できないものだ。 いくら贅を尽くしていようとも、ストライプのシャツにグラデーションのかかったバラ模様のパンツを合わせる彼を理解しようとも思わないが。
 ミルイヒは注がれる視線には慣れている。応えるように軽く手を振っていたが、迷うことなくバルバロッサとウィンディに近寄ると膝を折った。
「このたびはお招きありがとうございます。到着が遅れて大変申し訳ありません」
「おお、ミルイヒ。気にするな。そちらも忙しいのであろう」
「そうですわ。気になさらないでくださいませ。わざわざスカーレティシアからいらしたのでしょう?」
 おっとりとウィンディも微笑んだ。皇帝の腕に手を絡ませると、覗き込むように視線を送る。
 そんな彼女の様子を、ただ静かにミルイヒは見守っている。
「そういえば、ミルイヒさま。そろそろお屋敷のバラの花が見頃なのでしょうか」
 花将軍の異名を取るのは、彼の外見の華麗さや戦いの華々しさだけではない。 グレッグミンスターやスカーレティシアに咲き誇るバラの素晴らしさを讃えるものでもある。
「ええ、私の庭には早咲きも遅咲きも揃っております。いついらしても、満足頂けると思いますよ」
「まあ、それは楽しみですわ。ねえ、バルバロッサ。 ミルイヒさまのお屋敷に伺ってもいいかしら?」
 ウィンディは皇帝の寵妃だ。城外に皇帝の許可なしには出ることはできない。たとえ行き先が皇帝の信篤い将軍の屋敷であろうとも、それが男性であれば大問題だ。
「……そうだな。ミルイヒのバラは見事だ。楽しんでくるといい」
「ありがとうございます。ミルイヒさまはいつまでグレッグミンスターに滞在なさる予定なのでしょうか?」
 いくらなんでも、彼の居城にまで押しかけるわけにはいかない。
 現在、彼の領地であるスカーレティシア地方は緊張が高まりつつある。
 パンヌ=ヤクタ地方を抑えたからといって、反乱軍がそのままグレッグミンスターを目指して北上するとは考えられない。 次に彼らが牙を剥くとすれば、それは隣接するミルイヒの土地だった。
「そうですね、五日ほどはと考えております。それ以上は、やはり自軍の士気に関わりますから」
 将軍不在のままに襲われでもしたら、どれほど持ちこたえられるか。本来ならば、すぐにでも帰らなければならない。けれども、彼はそうしようとは思っていなかった。
「では、のちほど遣いを送ります。それでは、楽しい時間を」
 給仕の差し出したワイングラスをふたりは軽く持ち上げた。



「今度はミルイヒ=オッペンハイマーですか」
 宴のあと、いつものようにルックはウィンディに呼び出された。
 パンヌ=ヤクタ以降、彼女は頻繁に彼を呼び出す。一度汚れた仕事を任せた以上、とことんまで使ってやろうと考えているのかもしれない。
 ルックにとっては好都合だった。より深く、帝国に食い込むことができる。
 それだけではない。彼女は貴重な文献を、まるで菓子でも与えるようにルックに渡すのだ。主に門の紋章や闇の紋章に関わる知識だった。 彼女が貯えてきた知識は膨大で、さらにハルモニアでは学ぶことのできないものが多かった。
 おそらく、ルックを自分のなかでの信用できる部下のひとりにしようという判断なのだろう。 わずか十四歳の少年がここまでされれば、普通はあっというまに忠誠を誓う。
 当然、故国でかしずかれて生活してきたルックにはなんの効果もなかったが。それでも演技は完全だ。彼女の命に忠実に働き、成果を上げる。彼女に気に入られるために。
「ええ。スカーレティシアを突破されると面倒ですもの」
 長椅子に寝そべり、彼女は砂糖菓子を口に運んでいる。深紅に塗られた爪を宙にかざして眺めていた。
「けれども、帝都とは反対方向でしょう。反乱軍がスカーレティシアを攻めている間にソニアさまの水軍が背後を衝けば良いのではないですか」
 冷静に指摘すれば、ウィンディは満足げに目を細めた。
「おまえは本当によく気がつくわねえ」
 でも、と言葉を朱唇にのせる。
「彼女を動かしてしまっては帝都が丸裸になってしまうわ。テオ=マクドールがいれば違ったのでしょうけれど」
 帝都の守りを最低限は残しておかなければならない。近衛兵だけでは足りない。 そのためにも、ソニアを動かすわけにはいかないのだ。
「スカーレティシアはできるかぎり死守しなければいけないわ。後々のことを考えれば」
「後々?」
「そう、竜洞騎士団」
 彼女は呟く。
「あそこに敵に回られるのは避けないと」
 竜洞騎士団の団長は真の紋章である<竜>の紋章の継承者だ。紋章の性質上、彼が戦いの前面に立つことはない。 けれども、竜騎士の威力は絶大だ。彼らには、強固な城壁など意味をなさない。
 そして、竜洞に行くにはスカーレティシアの東の山脈を抜けるしかない。
 反乱軍に竜洞と手を結ぶ機会が存在するかはどうでもいい。接触の手段を断つことが重要だ。
「どちらにしろ、ミルイヒには頑張って反乱軍を削り取ってもらいましょう」
 ミルイヒが勝てば文句はない。
 たとえ彼が負けたとしても、こちらにたいした損害はない。勝敗に関わらず、反乱軍は消耗する。勝って人員が増えれば、食糧も乏しくなる。 さらに、人数も増えるだろうが、ろくに訓練されていない人間がいくら加わったところで脅威ではない。逆に系統性を欠く集団に成り下がる。
 そこへ。
 百戦百勝の将軍をぶつけてやろう。
 暗い笑みを押し隠し、ウィンディは命じる。
「明日の朝、ミルイヒの屋敷へ。週末に時間があるか聞いておいで」
「かしこまりました」
 一礼すると、ルックは部屋を出て行った。
 少年の姿を見送って、彼女は椅子にさらに深く沈む。
 尋ねるまでもない。
 時間があるかなんて。
 あの男は、きっと。なにがなんでも時間を作るだろうと。
 予測できてしまうことが、悔しかった。



 部屋の扉を開ければ、しんと静かだった。
 テッドは寝台にもぐりこんでいた。眠っているらしく、帰ってきた自分に気がついた様子もなかった。
 信頼されているのか、どうでもいいのか。
 はかりかねて、ルックは自分の寝台に腰掛けた。灯をつけようとしたら、蝋燭が切れていた。外の松明がぼんやりと部屋を滲ませていて、なんとか物の輪郭は捉えられた。
 視線の先には、弁当箱が置いてあった。
 ルックが今日はパーティーに出席すると聞いて、テッドが「ウマイ物を詰めてこい」と無茶な要求をした名残だ。
 お上品な貴族連中が集う場所でそんな真似したら。情報部員にあるまじく目立つだろう、と。冷たく切り裂きを見舞ってやった。ちょっと甘い顔をすればつけあがる。
「まったく」
 呟いたが、やはり反応がない。
 わずかでも期待をしていた自分に、ルックは息を吐く。どうかしている。
(この部屋がいけないんだ)
 暗い部屋。闇が支配する部屋は、かつて自分が閉じ込められていた空間を思い出す。
 ……先ほどのように、人の反応を窺って演技することも、だ。
 頭を振って、嫌な記憶を追い出す。
 もう寝よう。眠ってしまえば、きっと忘れる。
 これは感傷に過ぎないのだと。自分に言い聞かせる。
 そして、明日の朝にはいつもどおりの自分にならなければいけない。


<2005.2.18>


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