大義迷分5 |
凍える空気を裂くように、空を鳥が旋回していた。 見上げて、テオは密やかにため息を落とした。 今回の遠征は変則的だった。この季節に兵を出すことは滅多にない。事態が事態だけに、急を要するのは理解できた。帝国の情報が反乱軍へ流出してしまうことだけは避けねばならない。 だが、都市同盟との戦から帰郷したばかりの兵たちにとって、状況は辛いものだった。疲れたからだを休ませることすらできずに、彼らは戦場へ戻ってきている。 それだけに、いかに被害を少なくロッカクを制圧することができるかが今回の最重要だった。 「テオ様、そろそろ時間です」 ひとりの兵士が刻限を告げる。 中央から外れているとはいえ、この戦は赤月帝国内のことだ。兵の士気は鈍い。それだけではなく、内戦は国を疲弊させる。うまく立ち回らなければ、せっかく押し戻した都市同盟に再度の好機を与えることになってしまう。 そこで、テオは密かにロッカクの長に書簡を送った。曰く、帝国への叛意なければ、刻限までに指定場所に来られたし、と。 「何の備えもなしに行くつもりですか?」 背後から変声期前の少年が問う。 「部外者は黙っていろ」 グレンシールが敵意もあらわに手を大きく振った。ルックは意に介する風もなく、そのままそっぽを向く。 ロッカクの人間は忍びだ。忍びは、軍人には思いもよらない奇妙な技を使う。軍人の正攻法では危うい場面も多いだろうから、せめて魔術師を連れて行ってほしい。 しかし、テオの隊には紋章術に秀でた人材は少ない。そういう口実で、少年はウィンディから『押し付けられた』。 おかげで、グレンシールもアレンも少年を嫌って、なるべく視界にすら入れないようにしている。 一応は同じ陣営に属するのだ。いがみ合っていては絶好の隙につながる。戒めたいところだが、テオ自身がこの少年をどう扱っていいのか考えあぐねている。 ただでさえ幼さを残した子供であるのに、ウィンディの手駒。 なるべく気遣ってやるべきだという感情と、帝国を支配するのに確実に邪魔である自分を始末するための人間かもしれないという理性。 自軍に問題を抱えた経験など久しくない。それだけに、この問題も頭を悩ませる要因だ。 「ふうん。そんなに信用できるんだ?」 呟くように評して、少年がとことことテオの隣に並んだ。 なんのつもりかと目で問えば、少年は悪戯っぽく瞳を光らせる。 「万が一の保険です。僕がついているのといないのとじゃ、随分違うはずですけら」 「たいした自信ですが、もっと自分の立場をわきまえたらどうです」 囁くような音量。突然の丁寧語にルックは目をきょとんと瞬かせる。なぜ、そのように言われるのかがまったく見当がつかなかった。 それを押し隠し、何事もなかったように続けた。 「僕の役目は、将軍を守ること、帝国軍を有利にすること。それだけです」 「……そういうことに、しておきましょう」 それきり、テオは黙った。 下草を踏みしめながら、待ち合わせに指定した、やや開けた場所に出る。 自軍の大将の姿に帝国軍が整然と道を開ける。場にそぐわない子供の存在に胡乱な視線が飛んだが、向けられた本人はものともしない。 平然と進んで、自然な動作で列の最前にとどまった。 正面にはロッカクの長がいた。背後に何人かの忍びを控えさせている。 「私は赤月帝国筆頭将軍のテオ=マクドールだ。わざわざのご足労、感謝する」 朗々と声が響いた。 忍びたちは一言も発しない。 「ロッカクの長よ。返答はいかに」 テオの問いは端的だった。 長の答えも端的だった。 「否」 力強く、老人は補足した。 「我らは赤月帝国の民。しかし、赤月帝国とは信頼をもって関係を築いている。それが守られぬ以上、我らは我らの意義を、独立を守る」 言うが早いか、地面が派手に爆発した。いつのまに仕掛けておいたのか。 もっとも、見かけの割に威力はない。 だが、もうもうとあがる煙と土埃が視界を奪う。 背後に展開した帝国軍の動揺が、テオには手に取るようにわかった。 自分の無事をなんとか知らせたいが、口を開けば乾いた咳が喉を突くばかりだった。 なんとか方向を定めて歩き出そうとする。 と、左側に殺気が湧いた。長年の勘で剣を抜くと、がっしりと受け止める。 (罠か……!) ロッカク側は自分を無事に帰すつもりはなかったということだ。帝国最強の将軍。彼を何らかの形で害することができれば、帝国は迂闊にロッカクに手を出すことはできなくなる。 気配が素早く動く。尋常でない速度にテオは苦笑いする。 さすがは忍びだ。 しかし、甘い。 たかだか即興の煙幕程度で帝国軍の表舞台を戦い抜いてきた自分にかなうわけがない。 筆頭将軍の名を欲しいままにしてきた彼は、戦のさなかでも都市同盟の放った卑劣な刺客を何度も返り討ちにしてきたのだ。 対処の仕方も、隠密を旨として生きてきた彼らの戦い方の弱点も知り尽くしている。 冷静に半身だけを動かして凶器を躱す。相手のもっている武器をどうやら鎖と刃物が組合わさった特殊なものだと判断した。 あまり見かけない武器だ。 鋭く曲がった刃をはじき、テオは冷静に鎖の部分を狙う。そこを断ち切って、凶器の部分を落としてしまえば良い。 応酬の間隙に滑り込み、勢いをつけて剣を振り下ろしたところで、相手が危険を感じたのか飛び退った。好機と思い、彼はそのまま踏み込む。 (……しまった) 誘いか、とテオが急制動をかけた。相手はテオの一歩に合わせて、逆にこちらへと突進をかけていた。たわんだ鎖が蛇のようにテオの首を巻き取ろうと動く。 どうするかと迷う。 瞬間、鎖の部分だけが握り潰されたごとくに砕け散った。 驚いたのは戦っていたふたりだ。しかし、テオは迷うことなく相手の腹に剣を突き立てた。まともに伝わった肉を切る感触は、相手が無防備になったことを明らかにしていた。 一度大きく押し込むように貫いて、一気に引き抜く。どろりとした鉄の臭気。 かすかに風に混じったそれに、既に感慨すらなく。 テオは背後の魔力へと問う。 「礼を言うべきか」 「どちらでも。僕が助けても助けなくても、将軍は勝っていたでしょうから」 ぼやく調子の少年の声。内容はもっともだった。罠だと理解した次には、テオの頭にはいくつかの策が浮かんでいた。迷ったのは、どれを採れば効率よく勝てるだろうかとの選択だった。 土埃は収まっていない。 動揺する味方の気配が影のように漂っていた。 「あなたの力ならこの煙をおさめられるでしょう」 「……どうして、そう僕に丁寧に話すんです?テオ将軍」 「ご自分の顔に聞いてみてはいかがですか。それよりも」 「ああ、わかっていますよ。でもね」 ルックがロッドを一閃した。途端に、さらに砂が舞い上がった。ふたりの姿を完全におおってしまうほどのものだった。 「なんのつもりです。まさか、この場で私を始末するとでも?」 「それこそまさかだね。僕は僕で個人的にあなたに話があったんです、テオ将軍」 ざりりとした砂の嵐はふたりの距離を邪魔することはない。透明な壁に囲まれたように、沈黙の大気が存在する。 「もっとも、この状態では落ち着いて話などできません」 ルックはやや上目遣いに天を仰いだ。ウィンディの監視は弱まっている。風の紋章術はいい目くらましになっているはずだ。 だが。 テッドの意志をすべて伝えるには時間が足りない。 なにより、これは自分が話していいものではない。 テッドが自らテオに告げて、はじめて意味を持つものだ。 ふたりにとって。 「帝都に帰ったら、風の封印球を用意してください。それを通じて連絡します」 「……それは、誰の意志ですか」 テオの言葉にルックは首を傾げた。 男が何をもって、ルックに慇懃な態度で臨んでいるのかわからない。 無視することもできたが、するりと言葉はこぼれた。 「僕の意志だけど」 実際の数秒は、ひどく長く感じた。 初めてといえるほどの圧迫感を感じながら、ルックはテオを待つ。 ゆっくりとテオが動いた。 「承知しました」 返答を待っていたタイミングで、大気が澄んだ。うるさいほどに視界を遮っていた土砂は、見えない力に押さえつけられたかのように地を這う。 しっかりと二本の足で立つ将軍と、傍らの華奢ともいえる少年。 テオの足下には絶命した男が転がっていた。 「テオ様!」 帝国軍から怒濤の歓声があがった。軍が倍に膨れ上がった士気だった。 片手を上げてテオが答える。 「我が親愛なる友よ、聞いたな!?」 朗々と豊かな声が響く。 「ロッカクはバルバロッサ様の正式な使者たる我らを謀り、あろうことか殺害を企てた!これを反逆と言わずして、なんというか!」 兵士たちが拳を振り上げる。 異様な熱気に圧されて、ルックがわずかからだを硬くした。ハルモニアの整然とした軍とも、今まで偵察した他の帝国軍とも、テオの率いる一団は決定的に異なっていた。 「帝国を乱すものに裁きを!」 「裁きを!」 グレンシールがひいてきた馬にテオは跨がる。血に濡れた剣を鞘におさめる。 見事な手綱捌きで馬主を返し、高らかに宣じる。 「我らに勝利を!」 帝国軍が波のようにロッカクの里を圧し包んだ。 百戦百勝と恐れられていても、所詮はただの軍人。一人の男。忍びの業を極めた自分たちの勝利を疑っていなかったロッカクの里は大混乱を極めた。 男も女も、老いも若いも。入り乱れた声は、ほとんど意味をなさなくなっている。 明らかであるのは、恐怖と悲嘆と絶望と。どうしてこうなってしまったのかという疑問の意味。 悲鳴は炎と剣戟に消されていく。 逃げ惑いながらも、彼らも簡単には倒れない。このとき、ロッカクの住人は既に生き残るべき人間を、未来を託す人間を選び、脱出させていた。 帝国軍にそのことを決して知られてはならない。できる限りの時間稼ぎをし、彼らが安全域にたどり着くまで持ちこたえなければいけないのだ。 その様子をルックは少し離れた場所から見ていた。彼はこのような集団戦闘に向いていない。魔術師の本分として後援に徹していた。 風に乗って、焼け爛れた臭いが届く。 これは自分の力が生み出しているもの。 右手の風の紋章と、左手の火の紋章。 火を風が煽り、勢いを増して。村を人を飲み込んでいく。 逆巻いた煙はロッカクの人間の喉を焼いた。灰色の触手に捕らえられて、地面に人間が崩れていく。 抵抗できない村人たちを尻目に、帝国兵たちは生き残りがいないか、一軒一軒家を暴いていく。 森を焼かないように。ロッカクの里だけを効率的に灰にするために。 どこか泣きたくなるような衝動を感じる。 けれども、そうしてはいけないのだ。 先頭を切って戦うテオの姿があった。血を被り、血にまみれ。 本当は迷っているのかもしれないと、ルックは思う。 皇帝の変化に。ウィンディの存在に。テッドの言葉に。……ルックの申し出に。 それでも彼はためらわない。迷わない。自らの進むべき道を走る。 揺るぎない姿は見るものをはっとさせる。安心して寄りかかっていいのだと。託していいのだと思わせるからこそ、彼の部下は一兵卒に至るまで力を尽くすのだ。 散らした命の分までも、将軍に預けるとでもいうように。 テオもそれを背負うのを怖れない。 奪った命の重みを受け止める存在が。自分に求められる最大の部分だと知っているのだ。 いつかその時が来たら、ルックもそうならなければいけないのだ。未来において彼は率いる者。壊す者。国のために、世界のために。迷うことはゆるされない。 だから目を逸らせない。 やがて炎が鎮まり、煙が濃く立ち上り始めた。 力強いテオの背中を見つめながら、ひとつの疑問。 兵の支えがテオであるならば、テオの支えはどこにあるのだろうかと。 彼が友と呼んだ部下か、失った家族か、自ら堕ちることを望んだ皇帝か。 術を終わらせた右手を強く握る。 そこに宿る神の影。 世界の終わりに、自分は誰を隣に見るのだろう。 この日、ロッカクは赤月帝国から消滅する。 身内の毒を絞り出した帝国だったが、同時に優秀な目と耳を失う結果となった。 わずか生き残ったロッカクの子供たちは解放軍に身を寄せると、その持てる力の全てを解放軍主のために発揮することとなる。 <2005.5.24>
|