奏幻想滸伝
          大義迷分3


「テッド」
 ベッドで眠っていた少年を覗き込んで、ルックは呼ぶ。
 だらしなく緩んだ寝顔に、彼のいらいらは増大した。どうして、この状況で暢気に眠っていられるのだろう。
「テッド!」
 怒鳴りつけるように呼べば、びくりとテッドが飛び上がった。はずみで毛布が床へ落ちる。
「うわっと。いきなり大声を出すなよ」
「いきなりじゃない。きちんと呼んだのに起きなかったのはあんただろう」
 きしりと感情の揺れを自覚し。それを抑えようと自らの髪をくしゃりと乱暴な所作でかきまわした。
「何を怒ってるんだ……」
 ルックの態度にため息をつきながら毛布を拾うと、テッドは立ち上がった。目の前の子供の顔を覗き込む。
「怒ってなんかない」
「じゃあ、機嫌が悪い」
「そんなことはない」
「だったら、様子がおかしいのはどうしてだ?」
 ん?と問いかける調子に、ルックのこころのどこかが切れた。
「お、おかしいのはあんただ!!」
 ――テオが帰還したというのに。
 ウィンディがどのような手段を使おうとしているのか、ルックよりも遥かに長い時間を生きてきたテッドが予測できないはずはないのに。
 なのに、どうすれば落ち着いていられるというのだろう。
 まるで子供の癇癪だと、片隅の冷静なルックは思う。しかし、どうにもおかしいことに勢いを止められずにいるルックが存在する。
 初めてのことにどうすればいいのか、わからない。
 混乱状態にあるルックの頭をテッドは撫でてやる。悔しかったとき、怖かったとき、遠い昔に祖父がしてくれたように。
「落ち着いたか?」
「……」
 言葉の代わり、てのひらの下の頭がこくりと動いた。意外にもおとなしく。されるがままになりながら、ややあってぽつりとこぼした。
「ごめん」
「おまえが謝ることじゃないだろ」
 間髪入れない答え。
「だって、このことはあんたのことだ。なのに勝手にいらいらして、八つ当たりした」
 淡々としているが、そこには確かに抑えた感情が存在する。
 めずらしい姿。
 でも、こころを動かすのはそんなことじゃない。
「僕には関係ないことなのに」
 なぜ、こんなにも揺れるのだろう。  理解できないとばかりに見上げる緑。気づかぬまま、覗く意志。テッドに対する。
「別に、迷惑じゃないんだぜ?」
 むしろ、嬉しいとすら思うのだ。かつて巡った土地。出会った人間。彼らは確かにテッドに居場所を与え、親しくなった人間もいた。 なかには、そのまま<ソウルイーター>に喰われてしまった者までもいた。けれども彼らのほとんどは、共通して真実を知らなかった。 少年に見える彼の実際の年齢も、真の紋章も、背負った過去も。
 過去なんて関係ない。どんなことがあっても、君は君だよ。
 頑なに昔を語ることを拒めば、そう言ってくれる人間もいた。
 それでも、明かすことはなかった。
 彼らは『知る』ことはできても『理解する』ことはできないと知っていたから。
 ずっとそう考えて生きてきた。リンに真の紋章のことについてなかなか伝えられなかったのも、そのせいもある。
 なのに、紋章を奪われて、あとは朽ちるだけの身になって。
 思いもよらない存在ができてしまった。
 そして、その大切だと思う人間が自分のことを気にかけてくれる。
 それだけのことで、自分は笑っていられる。いくらなんでも、こんな状況に独りきりでおかれたならば。 戦うことはできても、笑うことはできない。死なないでいることはできても、生きていることはできない。
 今を生きていられるのだから、それだけで上等。どんな状況でも、それを確認できることが最上で。そうすれば必ず道は拓くことができるのだ。
「落ち着いたか?」
「……うん」
 最後に肩を軽く叩いてやると、テッドは天を仰ぐ。
(テオ様が戻ってきた)
 ならば、自分にはやりたいことがある。告げたいことがある。
 何故、親友が帝国を離反したのか。最大の原因が自らにあることをテッドは将軍に伝えなければならない。
 だが、絶対にウィンディに邪魔をされるだろう。今の状況でそれを知ったならば、テオがウィンディの排除に動くことに間違いない。 彼女をバルバロッサから遠ざけるために、解放軍ですら利用する可能性がある。
 黙り込んだテッドの耳元、ルックがわずかに背伸びして口を寄せた。
 囁きにも満たない空気の振動。にもかかわらず、たしかな意味をテッドは理解する。
「……ルック?」
 問いかけに、少年は眉をつり上げる。怒っているようにも見えたが、緑の瞳はどこか決意を含んでいた。
「聞いてなかったの?あんた」
 あきれたようにルックは髪をかきあげた。ふん、と見上げながらも見下す視線で、ちょうど正面にあるテッドの胸を指で突いた。
 それを合図にテッドのからだが緑の光に包まれる。
「おわっと、おいルッ」
「何度も言わせないでよね」
 ロッドも詠唱もなしでルックの宿す瞬きの紋章が発動していた。
「ウィンディ様がお呼びだよ!」
 淡い光の残滓を部屋に、テッドの姿が消失する。
 一人になってもルックはしばらくその体勢のまま動かなかった。ただ、慎重に城内の魔力の流れを探る。特に、<門>の魔力を。
 テッドはウィンディのもとへ転送できたはずだった。だとすれば。
 ややあって、魔力の流れがこちらから逸れる。どうやら読みは当たったらしい。
 ようやく緊張を解いて、ルックはベッドに上半身を倒した。
 あの魔女は長年の習性から側近ですらも信用していない節があったが、それが最近では特に著しかった。 ミルイヒが離反したあたりから、城内の味方に対する監視の眼を感じるようになっていた。
 もっとも、これだってルックの紋章に対する感受性が並外れていたからわかったことだ。ほとんどの人間は監視されていることすら気がついていないだろう。
 普段の会話程度ならば、こっそりと誤摩化すことができる。
 だが、先ほどはウィンディの意識がこちらに注視される寸前だった。
 風を動かしてとっさに隠蔽したのと、言いつけどおりにテッドを彼女のもとへ送ったのとで、どうにか見逃してもらえるといいのだが。
 あんなふうに自分を制御できないなんて、情けない。そればかりでなく、どうしてあんな突拍子もないことを言ってしまったのだろう。
 どうしていいか、わからない。わけがわからない。
 はあ・とため息をついたところで、胸元に落としてあった指輪が震えた。
 どうしようかと一瞬迷った末に、彼は鎖をたぐった。テッドを使った大芝居を打っているあいだ、彼女の魔力の流れはこちらにはまったく届かないはずだ。
「なんですか、こんなときに」
 不機嫌に指輪に向かって文句を言う。と、銀のそれからはルックと同じ声が返された。ただし、こちらは随分と楽しげだった。
「こんなときだから連絡をしているのだよ。さっきは危なかったじゃないか」
「申し訳ありません」
「謝ることはない。私としては、おまえのそういう感情豊かな部分が見れてとても楽しいからね」
 本当に嬉しそうな声に、ルックはがばりと起き上がる。
「……ヒクサク様」
「なんだい、ルック」
「見つかったらまずい事態だとわかっていて、おっしゃっていますか」
 もちろん、とヒクサクの声は笑んだままだった。指輪を通じて音だけのやりとり。 しかし、遥か遠い北の大国で、神官長が浮かべている表情の予想がついてしまってルックはため息をつくしかない。
「その程度で終わってしまうようならば、ハルモニアの神官将などとても務まらないからね。感情を殺せとは言わないが、感情の揺れが魔力の状態に現れてしまうようでは問題だ」
 先ほどのルックの状態を冷静に指摘する。指輪越しですらわかってしまうほどの情緒不安定だったのかと、ルックはくちびるを噛んだ。
「自分を責めることはない」
 タイミングを計ったように声がいたわる。
「友人がどんな目に遭うかわかっていて、それでも何も感じないような人間は、私は好ましいとは思わないからね」
「……友人、なんかじゃ」
 反論は、そのまま消える。
 テッドはルックのことを「友人」だと言った。けれども、ルックにはそれがわからない。今まで、自分にむかってそんなことを言った人間などいなかったから。 だから、どこからが「知人」で、どこからが「友人」なのか。定義が全然理解できない。そもそも、この感情自体がわからないのだ。
「難しく考える必要はないんだよ」
 指輪を支えたまま黙り込んでしまったルックに、ヒクサクは言葉を重ねる。
「なにかできることはないかと思ったから、最後にああ言ったのだろう?」
「……」
 映像は伝わらない。指輪に風の魔法をかけたのはルックだから、これが声しか運ばないと承知している。
 けれども、きちんと音に出して肯定するのが怖くて。それ以上に照れくさくて。首を静かに縦に振る。
 見えていないはずなのに、青年の声が続いた。
「相手のためになにかをしてあげたいと思うのは、相手が大切だからだ。友人とはそういうものだよ」
「そういう、もの」
「おまえは何事も理詰めで考える癖がある。覚えておきなさい。知人と友人の境界など、おまえのこころひとつだよ」
 その言葉を最後に、会話は途切れる。
 ルックは指輪を握りしめた。冷たいはずのそれが、どうしてか熱い。
(僕の、こころひとつ)
 テッドに向けた秘密の言葉。
 聞いていたはずのルックの主はそれを否定しなかった。肯定もされなかったが、禁止もされなかった。
 ならば。
 瞳を閉じて、深呼吸をひとつ。
 再び開いた緑からは、不安定な迷いは消えていた。


<2005.5.15>


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