奏幻想滸伝
          大義迷分1


 彼は疑わない。
 彼は迷わない。
 忠誠か、惰性か。
 確信か、妄信か。
 いずれにせよ、それはどこまでも普遍にして不変。



 グレッグミンスターの空は灰色で覆われていた。前日まで降り続いた雨はようやくあがったものの、雨雲の去る気配は遠い。
 そろそろ冷たい風が吹く季節、街の窓はぴたり閉ざされたままだ。
 だが、城がかかえる多くの尖塔、そのひとつの窓は天候など関係ないとばかりに開け放たれていた。
 まっすぐに一羽の鳥がそこを目指す。伝書鳩でもなく、どこにでもいる野の鳥は、けれどもまるで訓練を重ねたかのような飛翔だった。
 小鳥が窓に吸い込まれてしばらく、ようやく思い出したように窓が閉じられた。


「テオ=マクドール、凱旋」
 小鳥の足にくくられていた紙片を少年は読み上げた。
「嬉しい?」
「当然」
「それは謝る相手が生きているから?」
「おれの自己満足では、そう。リンのことを考えた他己満足でも、そう」
 ルックは首をわずかにかしげた。その髪の毛を小鳥がついばんで遊んでいるが、眉をひそめたのはそれが理由ではないだろう。
テッドの言葉を理解しかねての仕草。負けず嫌いな性格のためか、彼がそう正直に白状するとは思えなかったが。
 ひょいとテッドが手を伸ばす。
 ぴいっと高い警戒音で鳴いて、小鳥が大きく威嚇する。
「おまえが気にする必要なんてないんだぜ?」
 見かけによらず鋭いくちばしでついばまれ、けれども笑顔のままで言う。
「これはおれとリンの問題。おれとテオ様の問題。で、テオ様とリンの問題。 ウィンディがいてもいなくても、いつかは解決しなきゃいけないことだったし、だから、なおさらルックが考える問題でもない」
 言葉にも、少年は表情を動かさなかった。ただ、からだじゅうをふくらませている小鳥をそっと肩から取り上げると、窓の外へとうながす。 小鳥は名残惜しそうに彼を見つめていたが、やがて一度だけ頭に乗るとそのまま空へと消えていく。
 テッドに背を向けて、ルックはそれを眺めていた。窓枠に手をついたまま、平坦に呟く。
「……あんたは、ずるい」
 何を。
 問おうとして、言葉は宙に放置される。
 ルックが前触れもなく転移したからだ。
 忽然と消えた姿の残した像。音のない声。くちびるの動きだけ。
 あんたは、そうやって間違った先回りをして、封じるんだ。


 転移した先はマクドール邸だった。
 無意識に転移先を選んだとはいえ、なぜよりにもよってという思いが強い。
 とにかく城にいたくはなく。かといって、離れすぎるわけにもいかず。
 そうとなれば、グレッグミンスターで人目につかないだけの高さを持つ建物は、マクドール邸と花将軍の屋敷しかない。ミルイヒの気配を感じたくはないという感傷は未だに大きい。
 遠くから号外を配る声が聞こえた。百戦百勝の将軍の帰還は、沈みがちだった帝都にわずかな活気をもたらしていた。
「勝利ではなく、パンのためだけど」
 こぼれ落ちるのは、現実的すぎる言葉。
 凱旋には必ず皇帝から何らかの報賞が、民にまでも下賜される。
 近隣の町や村ほどひどくはないが、グレッグミンスターの城下町にもひたひたと飢餓の触手は忍び寄っている。
 今回のパンの配布は慣例だが、抑えきれない期待が民衆から漏れている。明日のテオの入城に、人々は大挙して押し寄せるだろう。 しかし、彼らの関心は長年にわたる都市同盟との小競り合いにはないのだ。負けて領土を奪われたならいざ知らず、勝って当然の将軍が勝利をおさめたのだから。
 遠く灰色の視界に、数本の旗が翻っているのが見えた。
 テオの本陣だ。
 明日の朝、グレッグミンスターの城門をくぐるのだろう。民衆のあいだを進み、そして、バルバロッサに拝謁したあと、ルックの足下にある屋敷に戻ってくる。 家族も、親しい者もいない、この屋敷に。
 なんだか形容しがたいもやもやを感じて、彼は眉根を寄せた。
 言葉に直そうとして、するりと逃げられる。
 はっきりとできないもどかしさに、もう一度。思考をなぞろうとして、割り込んできた声に中断された。
「難しい顔をしているわね」
 若い女性の姿が、次いで陽炎のように浮かび上がった。
「ウィンディ様」
 反射的に腰を浮かせれば、目で制された。中途半端な姿勢でいるのも難しく、かといって立つのも止められて、仕方なしに再び腰をおろした。
「ああ、ここからだとテオ=マクドールの陣がよく見えること」
 すっと背筋をのばしたまま、少年がしていたのと同じように彼女は遠くに視線を流す。
「……テオ=マクドールをどうなさるおつもりですか」
 前を見据えたまま、ルックは呟いた。問いかけにもなっていない独り言だが、ウィンディが言葉を継いだ。
「もちろん、<ソウルイーター>とぶつけるわ」
「ブラックルーンを使うおつもりですか」
「ええ」
「また、同じことの繰り返しになるかもしれないのに?」
 ルックの問いに、初めてウィンディの視線が動いた。蒼い瞳が、少年を見下ろしていた。逆に、ルックが顔を背けた。
「すみません。くちがすぎました」
「いいのよ。確かにそのとおりかもしれないんだもの」
 風がドレスの裾を揺らす。金の髪がなびき、つられるように瞳も揺れていた。
 ブラックルーンを使って皇帝への忠誠心を盲信の域にまで高める。彼女の思い通りに動く、絶対に裏切らない人間を作り出してきた。 けれども、そうやって生み出された人形は、ブラックルーンが砕けるとともに自らを恥じ。創造主を討とうとする。
 彼らの敬愛する存在が、魔女によって歪められている現実を正そうと。
 テオ=マクドールにブラックルーンを以て命じれば、同じことが起こる可能性が高い。しかも、反乱軍の軍主はテオの実の息子であるのだ。 バルバロッサがウィンディに支配されていることを知れば、彼の皇帝を、本来の皇帝を取り戻すべく反乱軍に寝返ることも想定される。
 だが、ブラックルーンがなければ、テオが全力で戦うとウィンディにはどうしても信じられない。
 今までの将軍たちがそうだったこともある。
 それ以上に、実の息子に本気で剣を上げられるのか。
 忠誠心の高さは、親子の情愛を超えるのか。
 誰かに対して、そういう感情をもったことのない彼女にはわからない。
 沈黙が戻る。
 常にない彼女の様子に、ルックはずっと尋ねたかったことを音にする。
「ウィンディ様は」
 彼女の意識がこちらに向く。言葉を切ってしまいたい、恐怖にも似た感情がわき上がってきたが、それを彼は抑えた。今を逃すと、もう聞けない気がした。
「なぜ、そこまでするのですか」
 彼女の事情は知っている。彼女が思っているよりも。
 赤月帝国に潜入する前、直接に聞かされたのだ。他ならぬ彼女の敵。ルックの創造主。ハルモニア神官長、ヒクサク。
 門の紋章を巡る争い。村を焼き、老若男女を問わない虐殺。そこまでしても手に入れることができなかった、真の紋章。ただ二人、逃れた姉妹。
 その片割れが、ここにいる。
 数百年の時間をもろともせずに、国を喰らい、国を滅ぼそうとしている。
 ……彼女には、紋章の見せる未来が見えているはずだ。
 なのに、ウィンディは進むのだ。
 いずれ滅びる世界が、ハルモニアを道連れにするのを待たずに、自らの両手を血に染めて。
 星の動きを読むと称して、影に徹して世の流れをずらすレックナートとは、まるで対照に。
 どちらが優れているとは、一概に判断はできない。
 しかし、目的へ向かって茨の直線を進むウィンディを『賢い』とは評せない。表現するならば、愚直。
 ミルイヒの一件を見るだけでわかる。あれだけ傷ついていた。バルバロッサの側にいるだけで、亡きクラウディアを意識して負っているプレッシャーはどのくらいだろう。
 既に門の一族は、彼女と妹だけだ。
 復讐する意味も、自己満足以外のなにがある。あるいは、ウィンディは自らを犠牲にしてまでも、この行為に意味を見出しているのか。
 だとしたら、それは何?
 女の応えはない。
 聞いてはいけないことを聞いたと、謝りかけたルックの頭に温かい重みを感じた。
「ウィ……」
「そうだね……」
 白い指が、ルックの髪を梳いた。子供をあやすような仕草だった。
「こんなことをしても、と思っているんでしょう」
 思いがけずに、優しい声。常には強い視線が、解けている。
「失ったものは取り戻せない。そんなことは知っているよ」
 どんなに血を流しても、過去の血は戻らない。死んだ人間は生き返らない。
「でもね、もう後悔だけはしたくないのさ」
 動かずにはいられないだけだと、ウィンディは微笑んだ。堅い口調から、彼女の意志の強さが覗いた。
「妹のようにすることもできたでしょう。けれど、それではダメなの。少なくとも、私にはダメだったのよ」
 そういう人間なのだと、ウィンディは続けた。
「失望したかしら?」
 弱気な単語とは裏腹に、そこには静かな気迫が込められていた。たとえ自分の姿勢を責められようともまったくかまわない。彼女は自身の持つ強さも弱さも自覚している。
 自分の生き方は柳のようなしなやかな強さではなく。
 例えるならば、杉のような頑固な生き方であると。
 理解していながらも、曲げない。
 それは、諸刃ではあるけれど。
 とても難しい在り方で。
 評価に値するは違いない。
 だから、ルックは否定する。
「いいえ?」
 返答に、ウィンディは淡く苦笑した。
「別に何を言ったとしても怒りはしないわ」
「子供扱いですか。不愉快です」
「……私が何百年生きていると思っているの?あなたなんか、まだまだ立派な子供よ」
 正論にルックは返せずに押し黙った。同じ真の紋章を持つ者であっても、ウィンディのたどった膨大な時間は、ルックにとっては未知のものだ。そして、未来においても知り得ないもの。
 静けさがふんわりと空気を包んだ。
 マクドール邸は現在、リン=マクドール謀反の咎で閉門扱いになっている。残っていた使用人もすべて解雇され、強制的にそれぞれの郷里へと送られていた。
 屋根の上で語らう不審な人影に注意する者は誰もいない。
 灰色の雲が、ゆっくりと移動していく。だが、いつまでも風景は停滞していた。青空が現れることはなく、ひたすら曇天が続く。
 時間が同じところを循環しているような錯覚のなか、ウィンディが言う。
「城に帰るわ。明日は、テオと会わなければいけないもの」
「……結局、どうするんです?」
 ブラックルーンを彼に宿すのか。
 含まれた質問に、ウィンディはマントをばさりと払った。
 転移の光に包まれながら、彼女は宣言した。
「ブラックルーンの使い道は、相手に宿すだけではないのよ」
 消え去り際に残した声に、少年ははっと顔を上げた。
 光の残滓に向かって呟く。
「まさか……」
 そういう、こと、か。
 彼女の用いようとしている方法。
 テオ=マクドールにはきっと有効に働く。
 そのやり方に素直に感心しながらも、素直に同調できない自分をルックは自覚する。
 今まで、誰がどうしようと、どうなろうと。合理的であれば、こんな気分になったことはなかった。自分が捨て石の道具として扱われる作戦であろうとも。
 こんな。
「気分の悪い……」
 口に出して、くちびるを噛む。

『……できれば、テオ様に説明とかしたいし謝りたいし』

 ふっと脳裏に浮かんだ、自分を『友人』といった人間の顔を振り払うように屋根を強く蹴る。乱暴に呼んだ風をまとわせながら、彼も城へと座標をとった。
 不快なのは、ウィンディのせいではなかった。これが彼女のやり方。彼女の生き方。理解できているから、そんな気持ちにはならない。
 このざわめく感情は、自分のせいだ。
 他人なのに。
 関係ないはずなのに。
 それなのに、なぜこんなにも、テッドの意志が奪われることに苛立つのだろう。
 そんな自分が、ルックにとっては一番の刺だった。


<2005.5.7>


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