奏幻想滸伝
          異花接木5


 「そんなに身を乗り出されると危険ですよ」
 注意に少年は耳を貸さなかった。
 神官も、既に少年の態度には慣れていた。ため息だけで心情を表し、机に課題を広げる。
「本日の紋章術の訓練ですが」
 話しかけられても、彼は無反応。
「どうして、お出来にならないのです?ササライ様」
 固有名詞の四音に少年の肩がぴくりと反応した。
「あなたは真の紋章の継承者なのですから、もっと土の紋章を操ることができるはずです」
「僕が持ってるのは、真なる土じゃない」
 少年の否定に、神官は耳を貸さなかった。
「ご努力すれば、結果は出るのですよ。今までそれほど得意ではいらっしゃらなかった風の紋章の扱いがあれほど上達したのです。 なぜ、あれほどまでに秀でていた土の紋章の扱いを粗雑になさるのですか、ササライ様」
「僕は」
 言いかけて、少年はくちびるを噛んだ。これ以上の反論は無駄だと、悟るほどの日常が流れていた。
 握りしめた手の震えだけが、少年のこころを表していた。
 気づかぬ風に神官は続ける。
「ああ、そういえばササライ様は以前に比べてお部屋の整理がたいへん上手になりましたね。やればできるのですから、相応の努力をなさってください」
 念を押すように、また名を呼ぶ。
「ササライ様」
 こらえようとしても思った。抑えようとして悟った。
 もう、ながくは保たない。



「さて、どのようにおまえのことを呼べばいいか」
 見た目こそ子供だが、テッドの実際の年齢を知ってのことだろう。バルバロッサはゆっくりと髭をなでた。
「どうとでも呼べばいい」
 冷たく突き放しながらも、テッドは焦っていた。まさかこんなところに皇帝がいるとは予想だにしていなかった。
「ふふふ、意外だという顔をしているな。そんなに私がここにいるのが不思議か」
 明確にテッドの心情を突く。
 男の顔を見据えながら、テッドは奇妙な気分に襲われていた。バルバロッサもブラックルーンを宿している。 気配からわかるし、おそらくテッドよりも長く呪いの紋章に侵されているはずだった。ウィンディは皇帝を完全な傀儡とするために、ほぼ完全に意識を縛りつけていると考えていた。
 それを裏切って、バルバロッサの眼には明らかな意志の光があった。彼自身の精神があった。
 そういえば、彼も真の紋章の継承者。ウィンディの支配下にやすやすと置かれるはずがない。
 だが、だとすると彼女の操り人形のふりをしている理由はなんだろう。自らの国土を魔女に差し出す理由はなんだろう。
「……俺が、ここにくることを予想していたのか?」
 それで、ウィンディがここに皇帝を監視に残していったのか。ルックが倒れたこと事体が、なにかの罠だったのか。
 疑念が表情に出ていたのか、バルバロッサはおかしそうに笑った。
「いや、偶然だ。それより、この部屋に何用だ。わざわざいらぬ波風を立てに現れたのではあるまい」
 それでもテッドは警戒を解かない。これだって演技かもしれないのだ。
「何を探していた?彼女の弱みか?」
「違う」
 反射で否定して、テッドはくちをつぐんだ。バルバロッサの言葉が真実だとしても、どう対応していいかわからない。焦りが余裕を失わせる。
「そうか」
 一言を残して、あろうことか皇帝は踵を返した。そのまま階段をのぼっていこうとする。
「待ってくれ!」
 決断は一瞬だった。根拠は勘。
(皇帝は正気だ)
「ウィンディがミルイヒに贈ったバラ」
 強い調子でテッドは尋ねる。
「毒のバラのことか?」
「そうだ」
 肯定に、頷く。
「解毒剤はどこにある」
「知ってどうする?おぬしの親友に渡すつもりか」
「違う。でも」
 一言一言を噛み締める。
「あいつじゃないけど、今の俺にとっての一番の理解者がその毒のせいで倒れた。……俺は<ソウルイーター>で親しい人間の魂を喰らい尽くしてきた。 今の俺はあの紋章を持っていない。持っていないから余計に、あいつを死なせたくない。できる限りをしたい」
 無言で皇帝が階段に足をかけた。
 だめだったかと、テッドは血が重力に引かれるのを感じた。なれば、自分のとる道はひとつ。いくら不可能に感じても、すべてをひっくり返して目的のものを見つけるのだ。
 強張った表情で彼は棚に手をかけた。
 その背に声がかかる。
「解毒剤は右から三番目、下から五段目の棚のなかだ。半透明の薬包紙に包まれている粉薬だ」
 驚きにテッドの手が凍った。
 停止した思考はバルバロッサの靴音で回り始める。
「……どうして」
 理解を超えた皇帝の行動に、テッドは言われた引き出しを機械的に開けた。確かに、彼の告げた特徴をもつ薬が存在した。
 ひとり部屋に取り残され。
 テッドはてのひらに薬を握りしめた。
 皇帝の意図などわかるわけがない。
 けれども今は詮索のときではない。
 動くときだった。



 もう限界だった。
 耳を塞いでも。目を閉じても。
 どこまで否定しても。
 それは見えない影のように。解けない鎖のように。
 いつまでも『彼』の存在は自分を縛り続ける。
「どうなさいました、ササライ様?」
 急に廊下に座り込んだ自分に、神官のひとりが不安げに覗き込んできた。
(違う)
 灰色の生気のない顔。誰も彼も同じ顔で、同じ言葉ばかり。
「ササライ様?」
「……違う」
 今度は声になった。
 相手をきしりと睨みつけながら、少年は静かに悲鳴を上げる。
「僕は、ササライじゃ、ない」
 聞いて、神官たちは顔を見合わせた。困ったものだと微笑みさえを浮かべて。
「ササライ様はササライ様でしょう?あなたは、他にどのようなお名前をお持ちなのですか?」
「それは……」
 答えようとして気がつく。
 ……答えは存在しなかった。
(だって、僕には……ない)
 閉じ込められていたときには、もちろん名前なんかなかった。番号で。または、『おい』とか『これ』とか、『それ』とか。そんなふうに認識されていた。 それが自然で疑いもしなかったが、外の世界に出て、世界を知って。
 今、改めて突きつけられて。
 噴き出した疑問。
(僕はなに)
 ササライの代わり?いつも選ばれる子供の、しかたないからの代わり?
 あのとき。ササライが神殿から姿を消したとき、レックナートが現れたとき。彼女の呼びかけに応じたのはササライだけではなかった。自分だって、手を伸ばした。 けれども、彼女は自分を選ばなかった。
 自分が失敗作だと知っている。存在するだけで、世界を滅びに導くのだと知っている。しかし、それは『自分』であって、ササライではない。
 その『自分』がどこにも存在しない。
(僕は)
「まったく、ササライ様はご冗談がお好きだ」
「本当に、何を仰っているのです?ササライ様」
「さあ、立ってください。こんなところでいつまでも座り込んでいては、通行の邪魔になってしまいますよ、ササライ様」
 笑みさえ混じって、重ねられる言葉。
 ササライ様、と。
(僕はササライじゃない)
 じゃあ、何?
(僕は、だれ?)
 誰かが、腕を強引につかんだ。
 不快だった。気持ち悪かった。嫌だと思った。
 叩かれるよりも、殴られるよりも、蹴られるよりも。他のどんな暴力よりも。
 もう耐えられないという限界を超える。
 返答は、鋭い風と赤い液体だった。
 中心の凪で、少年は世界から弾かれ。ただ、座り込んでいた。



 部屋に戻ると、テッドは真っ先にルックの呼吸を確かめた。浅く、速い。熱にうかされているときと症状は似ている。額には汗がうかび、べったりと髪がはりついていた。
 急がなければ。
 震える手で薬包紙を解くと、水差しの水にすべてを溶かした。箸を使ってかき混ぜる。
 粉が見えなくなったのを確認して、寝台の脇のテーブルに水差しを置く。
 そっと背中に手をいれて上体を起こさせてもルックの反応はなかった。
 くちを開かせて、薬を飲ませる。
 きちんと嚥下したのを確認しながら、水差しを空にする。
 効果が出るまでにどのくらいかかるのだろう。
 せめて意識だけでも戻ってくれれば安心できるのに。
 冷えた少年の右手を、両手で包み込むように握った。
 自分の手にはすでに真の紋章はない。親しい人を、こころを寄せた人を喰らった疎ましくも愛しい紋章はない。
 だから、久しぶりにあきらめずに祈ることができる。
「目、覚ましてくれよ」



 自分が暴走しているという意識すらなかった。
 視界には自分が切り裂いたに違いない人間の一部が、まるで模型のように転がっていた。 切り口から確かに鉄さびた臭いの液体がどろりと流れているのが見えるのだが、それがなんであるかを認識できない。
 すべてが灰色の世界は現実味に欠けていた。
 自分に色覚がない、と少年が気づいたのは『外』に出されてすぐだった。色の濃淡程度は判別できるのだが、それ以上はわからない。
 だから飛び散る血液も、濁った灰色で。
 現実感なんてどこにもなかった。
 大事にされているのは自分ではない他の人間で。
 自分は常に死を望まれて。
 そのくせ、普通の方法で死なれては困るとばかりに腫れ物のように扱うのだ。
 別に彼はこの世界がどうなろうとかまわない。
 いっそのことこのまま暴走を続けて、そのまま死んでしまっても面白いかもしれない。 自分の存在を認めない人間も、世界にも、滅んで悲しいという未練など持ちようがなかったから。
 そのとき、ふと彼は近づいてくる気配に気がついた。
 身を裂く嵐のなか、無造作に近づいてくる。
 死にたいのだろうか。
 こくりと首を傾げて、荒れ狂う風の帳のむこうを眺める。
「……ヒク、サク」
 しっかりとした足取りでこちらへ来るのは、この国の神である男。自分の創造主。
 数年後の自分の顔を見ながら、嫌悪がこみあげた。
 この男が動きさえしなければよかったのだ。もとより、真の紋章はヒトに宿りながらも、ヒトから離れることを望むものだ。 理解していたかは知らないが、男の行動が歪んだ自分を生み出し、紋章のあり方を歪め、ひいては世界の歪みをもたらしたのだ。
 男を射る視線に憎しみが混じるのを止めることはできなかった。
 憎悪に男はひるむことはなかった。おびえた様子などみじんもなく、彼は少年にむかって歩を進める。
 ぴりりと風が男の頬を裂いた。灰色の筋が整った顔に一文字に刻まれた。
 身を包んでいる白と青の裾の長い法衣も風に巻き込まれるように大きくはためき。次には容赦なく、ざくりちぎれる。
 互いに視線を外すことなく。
 どれほど経ったのか、男は少年の目の前に立った。初めて見えたときと同じように、交わった同じ色彩の瞳。
「僕は、だれ?」
 少年が言葉にする。
 かつて、男の名を尋ねた口調で。今度は自らを問う。
「おまえは、なんだと思っている?」
「僕はあんたの複製。真の紋章を保管しておくための人形。世界を歪める失敗作。永遠を断ち切る毒。ササライが戻ってくるまでの、身代わり」
「おまえは正しく、そして間違っているね」
 ヒクサクはうずくまったままの少年に手を伸ばした。頬を撫で、頭を撫でた。
「もう一度訊く。おまえは自分をなんだと思っている?」
「僕は、……」
 ふと瞳を伏せて、彼は考える。
 自分の台詞を考える。ヒクサクに答えたほとんどは、自分が知っていることだ。認めていることでもある。けれども嘘がひとつだけある。 理解しながらも、受け入れることなどできない唯一がある。
「僕は、僕だ」
 それだけは譲れない。明確に示す言葉がないだけで、それだけは生み出されてからずっときっと変わらなかった。
 だから。
 沈黙がおりた。



 少年の呼吸は相変わらず苦しげだった。
(くそー。あの薬、本当に効くのかよ)
 今のテッドにはバルバロッサを信じるしかない。
 しかし、まったく症状が好転しない以上、疑いたくもなろうものである。
「戻ってきてくれよ。……人が目の前で死ぬのは、もう嫌なんだからな」
 いつもだったら、少年からは『ちょっと勝手に殺さないでくれる?』程度の厭味は戻ってくる。それが聞こえないことがさびしいと思うのは、重傷だろうか。
「おまえを待ってるのは、俺だけじゃないんだから」
 気づいているかもしれないけれど。
 彼が持っていた指輪に刻まれた、まじないの文字。
「目、覚ませよ」



「闇を知るおまえだから、自らを照らす光を見つけなさい。そして、できることならば。闇の深さを知るおまえだから、闇を抱えた人間の光となりなさい。 ……私がおまえに、最初の光を与えよう」



「「ルック」」



 呼ばれた。
 かすむ意識が音を認識する。
 応えないといけない。そうしなければ、自分が自分である証が失われてしまう気がする。
 ふだんよりも意識して苦労して、まぶたを持ち上げる。灰色の天井が広がった。……天井?
 からだ全体がだるい。胸にのしかかられるような圧迫感がある。背中もじっとりと濡れていて不快だ。それだけではない。右手が奇妙に生暖かい。
 のろのろと首をめぐらせれば、真正面からルックの右手を握りしめていたテッドと目が合った。
「……うっとうしい」
「だ、だ、だ」
 気怠げなルックの言葉に、テッドが思わず手を放した。そのまま横たわっている少年を指差して叫ぶ。
「第一声がそれかーー!!」
「うるさいよ。……頭に響く」
 耳を抑える仕草までするが、それだけだった。起き上がろうという気配はなかった。動きたくても動けないのかもしれない。
「悪い」
「いいよ。……」
 不自然な沈黙。気になるが、待った方がいい。そういえば、この少年は過去にも何度か、言いかけたことがあったと思い出す。
 今回も言葉を飲み込むのかと多少の気落ちを感じたが、予想は裏切られる。
「……あんた、僕の名前、呼んだ?」
「ああ」
 テッドはたしかに、ルックが目覚める直前に彼の名前を呼んだ。
「あんた、……ササライに会ったことがあるよね」
「ああ」
「……僕は、ササライに似てる?」
「さあ?」
 正直にテッドは答えた。ルックがきょとんとテッドの顔を見つめる。
「なにそれ。あんた、目悪いの?」
「視力は両方とも2.0だ」
 威張っていうと、ルックはいぶかしげに眉を寄せた。
「僕はササライと同じ顔をしてるだろ」
「世の中には同じ顔の人間が三人いるっていうだろ」
 確かにこの顔は自分を含めて三人存在するが、テッドはそれを知らないはずだし、そもそも自分が聞きたいのはそんなことではない。
 さらに言葉を浴びせようとしたが、テッドが声を継ぐ方がはやかった。
「だって、俺はササライのことなんかほとんど知らないし。似てるかどうかなんてわかるわけないだろ?そりゃ、顔は似ていると思ったけど、よく見ると全然違うし。 だいたい、一度しか会ったことのない人間とここ数ヶ月ずっと顔をつきあわせてるやつとを比べること自体がバカらしいし」
「全然違うって……同じ顔だろ?」
 寝台に肘をついて、ルックが上体を起こした。伸ばした右手が、テッドの袖をつかんでいた。浮かんでいる表情はどこまでも真剣。
「あのなー」
 テッドは悪戯っぽくルックの顔を覗き込んだ。
「いくら瓜二つだからといって、俺は友達の顔を区別できないほど耄碌したつもりはないんだけどな?」
 そうして、子供をあやすように髪を撫でてやる。不思議なことに、予想していた抵抗はまったくなかった。
「ねえ」
 再び、寝台に沈みながらルックが尋ねる。
「じゃあ、もし」
「仮定の話はしたところで意味がないだろ。俺がここでこうやって話してるのはあいつじゃなくてルックなんだしさ」
「うん……じゃあ、他のこと」
 いつになく素直な少年の態度にテッドはどこかほっとする。タオルで額の汗をぬぐってやった。そういえば、こうやって病人の看病をするのは初めてだ。 <ソウルイーター>を持っていた頃は、誰かが病で倒れれば自分はその場を離れた。どんなちいさな病であっても、紋章が命を奪わないように。魂を喰らわないように。
「なんだ?言ってみろよ」
「あんた、いつから僕の友人になったわけ?」
「いつから、って聞かれても。いつの間に?」
「僕の意向は無視するの?」
「……うーん、じゃあ」
 問いかけるルックの口調に負の感情は感じとれなかった。純粋に戸惑っていた。
 芝居がかって、テッドは寝台の横に跪いた。ルックの右手をとる。紡がれる台詞は人をくった口調で。
「では、あなたの友人になる名誉を与えてくれないでしょうか?未来の神官将サマ」
「好きにすれば。それから、わかってるだろうけど」
 言葉は了承の証。
 下がった気圧に、テッドはめげない。
「あー、もちろんだよ我がこころの友ルッくん」
「変なふうに呼ぶなーっ!」
「親愛の表現だ冗談だ部屋のなかで切り裂きはやめろー!!」
「うるさい!!」
 病み上がりで威力半分の切り裂きを避けながら、テッドは告げようと思っていた言葉のひとつを飲み込んだ。 きっとルックは知っているだろう。持っていた指輪に刻まれたシンダル文様の意味。
(あなたの道に、光あれ)



 ソニエール監獄にて、リン=マクドールの付き人であるグレミオがミルイヒ=オッペンハイマーが用いた人喰い胞子によって死亡。 骨のひとかけら、髪ひとすじたりとも人間の痕跡は残らなかった。
 後日、スカーレティシア陥落。
 解放軍は将軍を処刑することなく、組織に引き入れた。
 城の備蓄を解放軍へ提供するためにスカーレティシアを解放したミルイヒは、自室の奥で一枚の絵を前に呟いた。
「愚かなことをしたと、思っています」
「……それは、なにに対してですか?」
 隣に並んでいた解放軍軍主は静かに尋ねた。家族を目の前で殺した人間の横で、ここまで凪いでいられるというのが逆に恐ろしくもあった。
 本来であれば、グレミオを殺したことを詫びるべきなのだろう。
 だが、思い浮かぶのはウィンディだった。
 愛しい哀しい、孤独な魔女。
 あなたは私の花にはなれなかったけれど。
 そのことで目隠しをさせてしまったけれど。
 いつか気づいてください。自らで知ってください。


 自分が間違いなくバルバロッサの光であることを。


<2005.3.22>


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