志操堅互7 |
ポケットの中にはマッチがある。 何の変哲もないマッチだ。どこの酒場でも置いてあるし、旅人であれば必需品だ。あるいは、煙草を好む人間も常に携帯しているだろう。 だが、彼は酒場に出入りすることは滅多になかったし、旅人でもなかった。また、煙草はいっさい吸わない。 したがって、普段はポケットの中にマッチなど入っていない。 これが所謂『神の思し召し』というやつなのだろうか。 つんと鼻を突く臭いを嗅ぎながら、彼は思った。 彼に与えられた仕事は、秘密裏に邪魔者を排除すること。 どうしてかと言えば、顔を知られては困るからだ。今までは邪魔者があとからあとから湧いてきて、一つを潰せば次にすぐ行かなければならなかった。 けれども、もうそんな遠慮はない。 ここで最後。これで最後。 ここを潰さなければ、彼の愛するものが失われてしまう。 「マッシュ様!中央の仕上げは完了です」 着々と進んでいく光景に、彼はポケットのマッチを握りしめる。 「ご苦労様です。では、軍主殿が戻り次第合図を上げましょう」 そんなことはさせない。 たとえ、あの方がこんな自分を望んでいなくとも。 その高潔なる志に逆らおうとも。 全てを失ったあとに、自分だけが残っていても仕方がない。 どこまでもあの方の……皇帝の意志に沿うという自分の志を潰すことになっても、裏切ることになっても。 それでも、もう構わない。 皆に気づかれないようにじりじりと後ずさった。至る所に運び込んだ油は零れている。どこか一カ所に火がつけば、炎の津波が発生するだろう。 (陛下……) 私は。 一度だけ。 陛下に逆らいます。 あなたを救うために。 数日前の夜、固めた決意。どこまでも揺らがず。 手のひらに嫌な汗。 ちょうど死角と思われる場所、ポケットからマッチを取り出した。そっと屈んで、マッチを擦る。 おかしいと思うほどに両手が震えていた。指先は自分のものでないように焦点が定まらず、何度も何度も空振りする。 早くしなければ。気ばかりが急く。 「サンチェス?どうしました?」 出し抜けに声がかけられた。 どこまで周囲が見えなくなっていたか。 危機感に視線を上げれば、まだ遠く。赤毛の軍師が歩み寄ってくるスローモーション。 間に合う。 妙に冷えた思考で判断が下る。視界が拓けて、隅々まで神経が研がれた。 現実感を失いかけていた指先に力がこもる。確かな手応え。 「サン……!」 彼の手元になにがあるのか。マッシュの顔色が変わった。けれども、もう遅い。 火がついたマッチを放り投げる。狙いなど定めもせずに適当に放り投げたが、どうでもいい。ここまでやってしまえば、この砦は燃えるしか末路がない。 死ぬしか、末路がない。 この場面では誤摩化しようがないのだから。 どうせだったら今まで皇帝を慮るあまりに動けなかったあらゆる分を取り戻してしまおう。 懐に忍ばせ居ていた短刀に手を伸ばす。 万が一のときの自害のために。それとはまったく使用方法が違う。 (赦してください) 邪魔だと言わんばかりに鞘を捨てた。 近づいてくる男の細い目が、心ばかり開かれる。取り乱す素振りなど見せたことのない相手の表情の変化に、なぜだろう、愉快な気分にさえなった。 (赦してください) 己の志すらも全うできない、自分の弱さを赦してください。 陛下。 懺悔とともに、視界が赤く染まった。 気がつけば、目の前にいつのまにか軍主がいた。 ぽっかりと記憶が欠けている。 地に伏したのは、軍師。そして傍らに膝をつく医者。 引きつった顔で軍主が伝令を飛ばす。 「ササライを呼べ。大至急!」 少年は今、流水の紋章をつけている。回復役としては申し分ない。 どこか遠くで、たとえるならば劇を鑑賞しているような視界だった。 その場合、観客であるはずの自分はといえば後ろからハンフリーに拘束されている。 「サンチェス!貴様、なぜマッシュを刺した?なぜ勝手に油に火を放った?」 激高している青年。もとから沸点が高いとはいえない彼だが、この感情の昂りは普通ではなかった。 どうして。逆に感じた疑問に、目の前の光景が答える。青年の質問がそのまま答えになる。 「答えろ、サンチェス!」 はて、答えろと言われても。 冷静になれば、どうして自分が動いてしまったのか。しかと言葉にすることはできなかった。どうして自分は皇帝の意志に背いてしまったのだろうか。 しばらく思考を巡らせて、ああと思う。フリックが求めているのは、己の行動原理などではない。 だったら簡単だ。 「申し訳ありません、フリックさん。私は今まであなた達を騙してきました」 「なんだと?」 「私は七年前の継承戦争の折から、皇帝陛下に仕えてきたのです」 サンチェスにとっては、どこまでも誇らしい事実だった。あの黄金皇帝のために尽くしてきた。影から赤月帝国を支えてきた。 言葉にフリックは俯いた。拳が握りしめられ、小刻みに震えていた。 「では、では……貴様が。貴様が間諜だったというのか」 「そうです」 隠すことでもなかった。もしかすると最初から隠すつもりはなかったのかもしれない。 もし解放軍の誰かがサンチェスが間諜だと告発したならば、サンチェスは自ら命を断つつもりでいたのだから。 無実の罪をかぶせられた。死をもって抗議する。そうして、解放軍に泥を塗って最後の忠誠を示すつもりだった。 「継承戦争のころの陛下は素晴らしい方だった。誰もが陛下に忠誠を誓った。私も皆と同じように陛下に身を捧げることを誓いました」 忘れることなどできようもないあの日。 障害のない対面。自身のすべてで誓った。自身のすべてをこの方のために使おうと。つい昨日のように覚えている。 「では、アジトが襲われ、オデッサが……オデッサが死んだのも貴様のせいなのか」 顔を上げたフリックと、まともに視線がかち合った。 「結果的にはそうなりました。否定はしません」 皇帝を知るがゆえに、皇帝の苦悩ですらも想像できてしまう自分にとって、バルバロッサの存在そのものを否定する彼女はどうしても許容できたものではなかった。 それでも彼女の理想は素晴らしかった。彼女の語る夢の国に住むことができたらどんなに良かっただろう。 「しかし、私は悩み続けていた。あなた達と一緒にいるうちに、何が正しいことなのか? 自分はどうするべきなのか?」 夢を語る彼女はかつてのバルバロッサのようだった。力強く兵を率いるリンは、継承戦争で先頭に立った黄金皇帝を思わせた。 「でも、私は皇帝陛下への忠誠を守ることを選んだ。この年で、生き方を変えるのは難しいようです」 違う。他の生き方など存在しなかった。だから、心から申し訳なくも思うのだ。打算も我欲もなく、赤月帝国の未来を憂えた女性を殺してしまったことを。 「オデッサさんのことはすまなく……」 「オデッサの名を呼ぶな。貴様にその資格はない。」 遮られて、納得する。たしかにそうなのかもしれない。彼女の恋人であったこの青年には――もしかすると、この世界の誰にも――この矛盾する感覚を理解してもらうことはできないのかもしれない。 フリックが動く。彼が愛し、自分が殺した女性の名を冠された剣が光った。 「俺は、お前を赦しはしない」 赦されなくて構わない。自分の役目は終わった。これ以上生きていても恥をさらすだけ。 「我が剣オデッサにかけて、お前の首をもらう」 だったら早く楽にしてほしい。 「はい。私には思い残すことはありません。ただ……」 剣を構える彼の姿が眩しい。フリックにとってのオデッサは、きっと己にとってのバルバロッサに匹敵する。 ただし、フリックほど純粋になれなかった自分をサンチェスは知っている。 「サンチェス、覚悟!」 言おうと思った言葉は怒号にかき消される。 これで終われる。 静かに瞳を閉じたとき、耳へとありえない声が飛び込んでくる。 「待ちなさい!」 瀕死の重傷を負っているとも思えぬ語気に、サンチェスは思わずそちらを見つめた。 リュウカンに押しとどめられるよう、マッシュがこちらを見ていた。整わない息、眉間によった皺。 「マッシュ。どうして?!」 フリックが中途半端に剣を下ろして振り返った。 それはサンチェスにとっても同じ悲鳴だった。 どうして、どうしてここで最期にしてくれないのか。 険しい顔でマッシュがサンチェスを見る。まるで楽にはさせないと宣告されているようだった。 「マッシュ殿、大丈夫ですか。無理は」 「今、サンチェスを斬り、彼が間諜であったことが全軍に知られれば、解放軍全体の士気に係ります」 身体を気遣う医師を気力で抑えるマッシュの姿を誰も止めることができなかった。 「彼の処分はあとにして、今は軍を整え、すぐにもグレッグミンスターを目指すべきです……!」 圧倒される。 いつも物静かな彼だからこそ、誰も何も言えなかった。 威圧感のある沈黙。 誰も音を立てられない状況で、医者の使命感を支えにリュウカンがマッシュを抑えようとする。 「馬鹿なことを、マッシュ殿。あなたは重体なのですよ。今、動けば命に……」 それも軍師の視線一つで完結しなくなる。 「この世には流れというものがあり、戦いには時機というものがあります」 マッシュの言葉は、驚くほど正確に心を撃ち抜く。 「今、この機を逃せば帝国を倒すことができません!」 ご決断を!と叫んだ声は、サンチェスにとって帝国の最期を予感を確信させるものだった。 視界の端、駆けてくる法衣の少年の姿が見えた。 おそらくあの出血だ。どれほど優れた紋章術師であろうと、マッシュを助けることはできないだろう。 けれども、遅かったのだ。 あたかも報復のように、マッシュは帝国を道連れに沈む。 初めて、サンチェスのこころに後悔が湧いた。 誰にも同調されることのない後悔が。 ソニア=シューレンが舟に乗った。 彼女も、陥落した。 仲間になった雰囲気ではなかったが、大切な事実は揺るがない。 シャサラザードは沈んだのだ。 知るや否や、ルックは転移術を行使する。 彼だからという理由でソニアを見逃したことをゆるすほど、ウィンディは甘くない。すぐさま拘束されるだろう。 挙げ句にブラックルーンでもつけられて赤月帝国の魔法兵団長にまつりあげられでもしたらとんでもない。 なんとしても回避する。 今日このときまで裏切りの影すら匂わせなかったつもりだ。赤月帝国に潜り込んだ日からの日常を、今朝、グレッグミンスターを出てくるときまで崩さなかった、はず。 テッド絡みを除いて。 築いた力場が拡散する気配に瞳をひらけば、そこは見慣れた部屋。 一息つくのも惜しく、ルックは動き出す。 まずクローゼットを開け放つと、袋を取り出す。士官扱いされていたために与えられていた多いとはいえない給与が貯めてある。 それを確認すると、今度は風でシーツを切り裂いた。 持っていける品は多くない。だが、どうしてもここには置いていたくない、ハルモニアまで持ち帰りたいものがあった。 テオ=マクドールから譲り受けたティーカップ。軟禁生活のために自由に動けなかったテッドと楽しんだ時間の象徴。 よくはわからないが、シーツでぐるぐる巻きにして、そうっと扱えば割れてしまうことはないはず。 作業しながらも、城内の風を読む。 何名かの兵士がこちらへ向かっている。 焦りながらもカップをシーツでくるむと袋へ突っ込んだ。 使いの者との距離を計って、ルックは小さく毒づく。予想よりも近い。慣れない瞬きの紋章で転移術を編み上げることができるだろうか。微妙だ。 反射的に窓を眺める。 右手の紋章ではなく、真の紋章。肉体ではなく、もっと深いところで混じり合っている真の<風>。望みさえすれば、すぐさま使える。 窓から飛び降りて、真の紋章による転移を行う。 考えられるかぎりの最も確実な方法。 しかし、ルックはそれを振り捨てた。 それはルール違反。ヒクサクと交わした約束を破ることになってしまう。たとえ安全に逃げられようと、彼に認められなければ帰る意味がない。 荷物を抱きしめると、焦りの中で魔力を編み上げる。 視線の先、扉が解錠される。もともとの用途もあり、この部屋は外から鍵を開け閉めできるのだ。 細く、空間が生まれる。 ルックが魔術師であることを知っている兵士は迂闊に室内へ飛び込んだりはしなかった。 だが、それがルックにとっての幸いとなった。 僅か数秒の猶予で。 少年の姿はグレッグミンスターから消えた。 *** 地下牢から上がってきた人影を認めて、リンは顔の緊張を解いた。 「クレオ」 「ああ、リン様」 家族同然の女性に作り上げた軍主の顔は必要ない。難しさを正直に表情に現して尋ねる。 「ソニアさんの様子は?」 「さすがテオ様の選んだ方、というべきでしょうか」 肩をすくめて言われた台詞にぴんとこない。 疑問符を浮かべていると、クレオが苦笑いしながら付け加えた。 兵士からの報告を受けて、ウィンディは眉をひそめると身振りで退出を促した。逆らうことなく、兵は部屋を後にする。 それを女王然とした姿勢で見届けてから、おもむろに机に散っていた書類を薙いだ。彼女の感情を煽るように、開け放してあった窓からの風がそれを散らす。 感情は複雑で。相応しい名が見つからない。 ソニアを失うことは覚悟していた。 だが、それ以外は考えてもいなかった。 サンチェスは暴走し、ルックは消息を絶った。 「どうして」 うまくいかないのだろう。 いつもいつでもこの手から。 光はするりとすり抜ける。 <2006.03.21>
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