奏幻想滸伝
          志操堅互6


 慌ただしく警護の引き継ぎを終え、副官が魔法兵団へ足を向けようとしたときだった。
 ふわりと周囲の空気が動く。
 なにが。
 疑問は暗くなる意識とともに消滅する。
「これでよし、と」
 柱の影から眠りの風を起こしたルックは呟く。
 どうにかしてここまで入り込んできたのだが、水上砦という閉鎖空間で少年のこの姿は目立ちすぎる。
 ウィンディの命があろうとなかろうと、リン=マクドールを守らなければいえない。それが、ひいては解放軍の勝利に繋がるから。ルックの目的に連なるから。
 ただ一本だけで繋がっていたソニアと魔法兵団の糸はこれで途切れた。
 ちょうどよく柱の物陰で眠ってくれた男の回りに結界を張ってやる。放置しても良いのだが、自分が眠らせたせいで死んでしまっては寝覚めが悪い。
 これで自分の仕事は終わりだ。
 自分のような年端もいかない少年は、この殺気立った要塞で、それだけで目立ってしまう。 紋章を用いて自分の目の代わりになりそうなからくりを作ろうにも、ササライの存在が気になった。
 魔法兵団は水上砦の攻略には不要とのことなのか、彼は湖で待機している。
 相当の距離があるとはいえ、同じ五行の紋章である。どこから自分を嗅ぎ付けられるか予想できたものではない。
 離れていた方が無難だろう。
 いつものように鳥を使うのが一番良さそうだ。
 全てを見届けたあとのことを考えれば。
 彼だけにしかわからない計画を練りながら、ルックは転移の術式を展開する。
 次の瞬間には、彼は波乱の戦場から離脱を果たしていた。
 さあ、ソニア=シューレン。
 貴女は志を貫くのかい?


 水門が閉められた。
 僅かな音の変化で、彼女は理解した。誰よりも砦に通じているからこその反応だった。
 時間がない。
 やがて奴らは火を放つ。この砦を炎に葬る。
 炎。
 脳裏に閃く悪夢。
 愛する人の率いた軍。敗れて帰ってきた兵士たち。悄然とうなだれる装甲は、みな煤にまみれ、どれほどの高温にまかれたのか流れるように溶け、冷えて固まっていた。
 テオ様。
 頭のなかがそれだけで溢れ、何も考えられなくなって。
 テオ様。
 将軍としての体裁も忘れて手近な兵士を掴み上げた。
 ねえ、あの方は。あの人はどうなったの?
 まるで一般兵の妻や恋人のような台詞を自分が連ねる時がこようとは予想だにしていなかった。 なぜならば、彼女の愛した人間は、負けるはずのない百戦百勝の不敗の将軍だったのだから。
 その彼が、どうしてよりにもよって自慢の息子に殺されなければならなかったのか。
 足が速まった。
 時間がない。
 自分の大切な物が崩されてしまう。
 また、忌まわしい炎に崩れ去ってしまう。
「ソニア様!」
 警護の兵が叫んだが、構わなかった。
 確かめなければいけない。
 どうしてあの人の息子が、あの人を手にかけたのか。あのような無惨な戦いを望んだのか。今また、それを繰り返そうとしているのか。
 許してはいけない。
 これはあの人の望んだ戦い方ではないはずだ。戦いの最中であっても、残される民の苦しみを考え、戦を展開したあの人の思想。片鱗さえ認めることができない。
 テオを理想とするあまり、彼女の「戦争」の概念は歪んでいた。所詮、戦争とは人殺しの延長のうえにあるのだということ。 ある種潔癖な思想に馴染んだために、勝利のために蠢くありとあらゆる暗部が彼女の「戦争」からは抜け落ちていた。
 慣れた足が階段を下る。
 勢いを殺さぬように駆け、ふと踊り場近くで正面に気配を感じた。
 ……来た。
 人数は多くはない。
 佩いた剣の位置を確かめながら、彼女は凛と背筋を伸ばす。
 水門を閉じるための人員。実際の作業は軽微だが、役割は作戦の要。確実に軍主に近い、少数精鋭で攻めてくるはずだ。
 ひらりと視界で布が揺れる。
「……!」
 それがなんであるか認めて、彼女はすかさず飛び出した。
「お待ちなさい。リン」
 忘れるはずもない少年の衣装だった。
 彼女がここにいることを予測していなかったのだろう。これが噂に名高い反乱軍の軍主かと疑うほどに、幼い驚きの表情。
 まさか敵の頭がここへいるとは思っていなかったのだろう。かつて感じた親愛の情がこみ上げるのを覚えたが、無理矢理にねじ伏せる。
「お待ちなさい、リン。あなたに聞きたいことがあるわ」
 踵の石畳を打つ音が、やけに耳についた。
 彼の背後に控えていた大男が、抜いたままだった大剣を構えるのを瞳にとらえる。警戒すべき行動だったが、すでに多勢に無勢だ。開き直る。
「お久しぶりです。帝国魔法兵団団長ソニア=シューレン」
 相手も彼女のそんな心境をわかっている。周囲を牽制する意味を込めて、彼女を堅く呼んだ。以前は、「ソニアさん」と呼んでいたのに。
「ソニア?て、これがさっきの帝国軍の大将か!」
「ええ、帝国軍の五将軍も私一人になってしまった……」
 母親から地位を譲り受けた時以来、常に肩を並べる者たちがいた。言葉に出してみれば、寂寥感に似た感覚がこみ上げる。
 それを打ち破ろうと、彼女は尋ねる。総大将として暢気に敵と話すべきではないと感じながらも。
「レン、あなたに聞きたい。なぜ、あなたは帝国を裏切ったの?なぜ、父親を・・テオ様を裏切ったの?乱を起こし、戦いを行い、人々の命を・・・。それが、あなたの正義なの?」
 今まで呑み込み続けていたものを一気に吐き出す。
 ぶつけられた質問に、リンは目を見張った。何を言われているのか、わからないのだろうか。 非難されていることも理解できないほど、解放軍と言う組織はテオの息子を落としたのだろうか。
 もう一度、教えてやろうかと口を開きかけた時。
 ふうわりと。
 それこそ。その名が示すように、光のように彼が微笑んだ。
 まるで戦場に似つかわしくない表情。
 言うべき言葉が空気となった彼女に代わって、リンは。
「貴女の言っていることは」
 唯一言。
「間違いだ」
 理解するのに、数秒を要した。
 理解して、何がと反論しようとしたときだった。
 地を引きずるような重い音が足下から伝わった。
 何が。
 先ほどとは違う、同じ疑問符にとっさに彼女は仇敵の顔を見た。彼らが何やら仕掛けていたのだから、彼らこそ事情をしっているはず。
 予想に反して大男が通路を見遣って叫んだ。
「何?!」
 つられるように彼女もそちらを見る。普段は水が流れている水路。しかし、今そこに溜まっているのは油だ。
 黒、あるいは褐色のはずの液体が、赤く染まっていた。
 否。燃えている。
 奔る炎に肌が熱気を感じた。
 目の前の少年の隣で男がわめいているのがぼんやりと見える。見えるだけで、認識はできなかった。
 紅に照らされた空間、熱気でわずか吹き上げられる髪が炎を映したよう。彼の回りだけが空気が違っている。彼しか認められないほどに視線が惹き付けられる。
 ああ、これが彼の舞台。彼の時代。
「全てを焼き尽くす炎……」
 テオが退いたのは、まさにこの空気を味方につけられなかったせいだ。
 ならば、自分も挑んだところで望みが果たされることはないだろう。
 でも、これが。
「これがあなたの望みなの?それこそが望みなの?」
 いくらその口で「間違っている」と告げられようと、この光景を見てしまえば信じられない。人間は偽ることのできる生き物なのだから。
「テオ様をその手にかけたこと……今、この場で償ってもらう」
 覚悟、と叫んだ女の絶叫を耳にした気がした。
 まさかそれが自分のものだとは思えなかった。
 それ以上、目の前の少年の哀しそうな表情を振り払うべく。必死に剣を繰り出した。


<2006.03.18>


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