奏幻想滸伝
          百花陵乱1


 あのとき出会ったのが『彼』でなかったならば。
 今の自分はいなかっただろう。
 だとすれば、支配されているのは己の方?



 春だった。
 視界は霞掛かり、淡い色彩に染まっていた。
 乳白色を貫いて遠い空、側面を取り囲む黄や桃や浅葱。
 彩だけは厭うほどに春。
 けれども彼女のこころはそこからほど遠かった。
 目を開いているとはいえ、何かを見ているわけではなく。
 思考は沈みこんだまま水面のよう。否。水面であれば風が吹けば波も立とう。それすらないということは、闇を透かしたガラスとでもいえば良いのか。
 ぼんやりと意識を漂わせていた彼女を、突然の声が現実に引き戻した。
「大丈夫か?!」
 豊かに張りのある男の声だった。
 あまりにもそれが切羽詰まっていて、息継ぎの音まで聞こえそうで。
 ここまで近づかれるまで気がつかなかったなんて。
 本来ならば、未だにハルモニアから追われている節のある己の迂闊さを感じなければいけない場面。だのに、思わず目を見開いて倒れたままに相手を観察してしまった。
 若さと老いが同居した不思議な雰囲気の男だった。武人、なのだろう。 大柄な身体は甲冑を纏わせて戦場の先頭に置けば、さぞかし映える。それと同時に、彼からは第一線で戦場を走っている猛々しさを感じとることはできなかった。
 焦点を取り戻した彼女に、彼は安心したようだった。強張っていた頬が僅かにゆるむ。
「申し訳ない。驚かせてしまったようだ」
 普通、こんなふうに人が倒れていれば驚くだろう。それも自分のような若い女が、である。
 盗賊や夜盗の類はどこにでもいる。この赤月帝国の情勢は安定しているとはいえ、この状態は襲ってくれといわんばかりだ。 具合が悪くて倒れてしまったと判断して慌てたのは当然だった。
 謝罪と礼を述べながら上体を起こしたウィンディに、男は目を開いた。
「何か?」
 奇妙な男の態度に、ウィンディは首を傾げた。この表情をなんといえば良いのだろう。まるで……まるで、そう。幽霊に在ったような。
 結論に、彼女は記憶を繰る。
 これだけ長く生きていれば、まだ子供だった頃の相手と出会っている可能性がある。 もしそれを覚えていれば、真の紋章ゆえにまったく年を重ねていない彼女を見れば驚くだろう。
 だが、あいにくというべきか。
 自分が赤月帝国へ来たのはこれが初めてだ。
 この男が幼い頃から諸国を放浪している身の上だったら話は別だが。あいにくとそう思えなかった。単なる勘だが、外れているとの感覚はなかった。
 考え事に没頭していたため、差し出された手を彼女は無意識のうちにとった。
 ゆっくりと引き起こされる。
 耳に呟き。
「……つかめる……?」
 これで、ウィンディは思考からはっと我に帰った。
 軽く握られていただけの手と手は簡単に解ける。
 動いた反動で、からりと足元で音がした。魔術の媒介道具でもある杖を蹴飛ばしてしまったのだ。
「ああ、やはり違うか……」
 男はどこか寂しそうに遠くに視線を投げ、宙に浮いた手のひらを眺めた。
 次の瞬間には、表情が一変する。
 転がった杖に目を留める。
「そなたは、魔術師か」
 確認されて、ウィンディは頷いた。
 今までの行動の意味は不明だ。しかし、今、放たれた言葉の選び方から。男がそれなりの地位と権力を持っていることは判断できた。
 それくらいこなせるだけの年月は生きている。
「はい」
 できるだけしとやかに答える。
 もしかしたら、利用できるかもしれない。
 ウィンディは蒼の瞳を走らせた。それと気づかれぬよう、先ほどとは違う部分を素早く観察する。
 上下は黒一色に纏められているが、素材は上質な絹。しかも、袖口や襟元には黄金や宝石がさりげなく散りばめられている。 また、足を固めるブーツも実用性の中にも贅沢さが滲み出ている。
 もっとも、ひとつの謎があった。
 差し伸ばされたのとは別の手、そこに花が数本、握りしめられていたことだ。金銭でやりとりされるような温室の花ではない。 今、彼女たちが立っている平原にもありふれている野草だ。
 ちぐはぐさに、知らず凝視していたようで。
 男は苦笑いした。
「大切なひとの命日なのだ。花の好きな人でな」
 どう、答えれば良いのかわからない。どんな答えを望んでいるのだろう、彼は。
 よほど困った顔をしていたのか、彼が微笑んだ。安心させるように。
「まあ、そなたは旅人であろう。知りもしない人間を持ち出されても困るであろうな」
 またしても、なんといえばいいのか。
 ますます困って今度は眉をひそめる。どうにかして話題を変えたい。
 思った時、風が湿っているのに気がついた。
 ふいと空を仰ぐ。あれほど霞んでいた空気が澄んできていた。長い経験が語る。
「雨になりますわね」
「あれほど天気がよかったのにか?」
「この季節の天気など、ヒトのこころほどにも変わりやすいものですわ」
 訪ねてきたばかりの義理の妹を思い、言いきる。あれほど復讐を誓ったのに、仇の複製を殺すならばまだしも、育てるなんて。
 強い強い感情ですら、風化させてしまう人間がいる。ゆるせない。
 またしても思考の渦に陥りそうになり、ウィンディはすべてを切り替えようと足下に転がった杖を拾い上げた。
「どこへ送って差し上げればよろしいのでしょうか?」
「何?」
 言葉を理解できていない男へ、言葉を重ねる。
「雨が降る前に起こしてくださったお礼ですわ。街の門までお送りします。グレッグミンスターの方なのでしょう?」
 かの都であれば行ったばかりだ。
「ああ、そうだが……」
「なんでしたら、お花を捧げる場所でも。教えてくだされば、世界中のどこへでもお送りいたしますわ」
 彼女の言葉に、男は手のなかの花を見つめ。
 握りしめたまま、告げる。
「グレッグミンスター城まで」



 彼が皇帝だと知ったのは、それからすぐだった。
 彼女が宮廷魔術師となったのも、それからすぐだった。
 けれども。
 彼女が彼女の存在を知ったのは、それからしばらく経ってからだった。



「今度の宮廷魔術師の顔を見たかね?」
「ソニア様を差し置いて、陛下が拾ってきた女か?」
「まだだが、どうなんだ?腕は確かなのか?」
「いいや、腕がどうこう言う前にねえ」
 悪意に満ちた言葉の群れ。
「あの顔じゃあ、陛下も迷うに違いないさ」
「金の長い髪に、蒼い瞳」
「!!」
「それじゃあ……?」
「そう、クラウディア王妃にまるで幽霊みたいにそっくりなのさ!陛下が誰よりも愛したあの方に!」

 花を捧げられた彼女の存在を知ったのは。


***


「集った」
 盲目の女が呟く。
 運命の要は確かに歪めた。しかし、結果は歪まなかった。否、歪んだのか? 
 正しい結果がどうであるのかを彼女自身は確信できず、それゆえに『これ』がどういう兆しであるのかも判断ができない。
 けれども、天地の宿星が全て揃った以上、彼女は動かなければならない。それが管理者の役目。
 死の夢に漂う星を拾い上げねば。



「集まった」
 少年は、目の前の現実に呟いた。
 師より預かった石版、それがすべて埋まっていた。
 ひとつだけ暗く翳った文字はあるものの、空白はない。
 運命の管理者から、神へ約束を果たした証として捧げられる。
 一体なにが起こるのか。
 それを少年は知らない。きっと、この世で知っているのは神と師くらいだろう。もしかしたら、彼の出身国の神官長も知っているかもしれないが、どうでもいいことだった。
 ひどく幸せで、ひどく残念だ。
 自分が宿星であれば、もっとこころから喜べたのに。



 手の中にある斧をリンは静かな目で眺める。
 シャサラザード攻略の前夜、ビクトールから渡されたものだ。誰よりも近しかった、守り役の形見。
 近しさ故に死に狙われたのだろうか。
 そうではないはずだ。
 もとから、それほど強くもないくせに常に自分の正面に出て攻撃を受けようとする人間だった。 だから、今、彼が近くにいないという現実は、間違いなく彼の性格のせいであって、紋章のせいなどではないと思いたい。
 たとえ、それが絶大なちからを持つ真の紋章であっても。
 斧を持つ右手の甲を、左手で包む。
 ここに彼が居る。
 もう消えてしまっただろうか。
 まだ、欠片でも残っているのだろうか。
 どちらにしろ彼は戻ってはこない。死んだ人間が生き返るなんてこの世の理に反することがあっていいわけがない。
 死は誰にでも平等であるべきだ。
 そうでなければ遣りきれない。
 でも、もし。
 取り戻す術があるのであれば。
 自分が喰らった四人のうちで、唯一純粋に『リン=マクドール』のために命を使ってしまった彼に。
 そうしたいと思うのも事実なのだ。



「断る、門の魔女」  月を背に、少年はきっぱりと告げた。
 灯りの一切ない空間で、青白い月光がルックの輪郭を淡く滲ませ、レックナートのそれを浮かび上がらせていた。
 遠く、水音がする。
「死は、誰にでも平等であるべきだ」
「あなたがそれを言いますか?誰よりも死から遠いあなたが」
「死ねないわけじゃない。ただ、普通に死ぬと都合が悪いだけだ。誰にとっても」
 そのせいで、誰よりも死から遠ざかっているだけだ。
 少年の反論に、白い女はたじろがなかった。この方向から攻めても埒があかないと感じ、角度を変える。
「でも、宿星となったのはあなたの言葉ゆえです」
 どんなに些細であっても、彼は天魁星へ誓ったのである。そうでなければ天間星の欄は今も空白で、宿星が揃うことはなかったはずだ。
 ルックもそれを自覚している。迂闊に約束などしなければよかった。だが、過ぎたことをどうこういっても取り返しはつかない。
 反論を諦めた少年に、女は口角を上げるだけの微笑みを送った。その企みが成功したときの表情がまるで彼女の義姉にそっくりだ。 実際の血の繋がりはないはずだが、呆れる類似。
「……で、どうすればいいのさ?」
「指定する日時に、トラン城の屋上へ来てください」
「サラには会いたくないんだけど」
 拗ねたような響き。
 吐き出された台詞は、彼女を苦笑させた。非常に突き放したものの見方をすると思えば、どこまでも子供っぽい意地がある。
「大丈夫です。あの子は広間に押し込めておく予定ですから」
 さらに彼女は付け加えた。
「屋上には結界を張っておきます。あなた以外が入れないように。そして、姉に見つからないように」
 ぴくりと少年の肩が揺れた。
「ふふ……、罪悪感、ですか?」
 最初からその予定だったとはいえ、ウィンディから手を切ったことに対しての。見棄てたともとれる行動をとったことへの。
 返答はない。
 ただ、射抜くように緑の視線を向けてくるのみ。
 同じ顔だというのに、まったくもって彼女の弟子とは似ていない。冷めているくせに感情の振幅が大きい。
 彼女の知る歴代の真の<風>の紋章の継承者を思い浮かべる。未熟とはいえ、彼らとの共通点が多い性格だった。 そうでもなければ、例えばササライのような性格であれば、紋章のもたらす呪いには堪え難いのかもしれない。 真の<風>の呪いは、継承した瞬間に継承者から拠り所のすべてを奪う。
 ルックは変則的に、しかもありえない場所に紋章を宿しているからその範疇ではないのかもしれないが、紋章を継承するうえで共通する資質がきっとあるだろう。
 この少年を育ててみたかった。育てなくてよかった。相反する思いが湧きあがったが、上手に殺して。
 薄暗いことを利用して、微笑みを残して。
「では、頼みましたよ」
 女は消えた。


<2006.05.16>


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