奏幻想滸伝
          志操堅互4


「というわけです、ササライ」
「なるほど、概略はわかりました」
 軍主と軍師と魔法兵団長。三人だけの秘密会議が開かれていた。真夜中の地下牢だ。
 蝋燭の光は頼りなく揺れて、三人の影を岩の壁に刻む。
「できますか?」
「ええ。ただ、ちょっと時間をいただきたいですね。大地の紋章を外して流水に切り替えますので、調整しないと……」
「水系の紋章は、回復中心じゃないのか?」
 紋章学にそれほど明るくないリンが質問する。ササライは自分の手を示した。
「五行はどの紋章でも攻撃は基本的に可能ですよ。火の紋章を使えば火がつく、風の紋章を使えば風が吹く、それと同じです」
「そういうものなのか、初耳だ」
 それはそうだ。
 その発動形式はほとんど一般に広まっていないのだから。
 最後の一言をササライはこころに飲み込んだ。
 力の平衡が崩れる事を恐れてか、ハルモニアが紋章術に関しては徹底した管理を行っているためである。……本来であれば一つの紋章で行使できる術は四つどころではない。 クロウリーあたりは知っているだろうが、詳細に教えるのは面倒くさかった。
「専門的な話はまた別の席でお願いします。調整にはどのくらいかかりますか」
「明日の朝、一番にジーンのところへ行ってきます。十日もいただければ十分です」
 わかった、とリンが頷いた。彼は既に自分のやるべきことを追跡し始めている。
「マッシュ」
 これだけは念のために言っておかなければ。ササライは軍師を見つめた。
「僕ひとりだとこれだけの術を操るのは無理ですから。魔法兵団の半数以上のちからをかき集めますよ」
「ああ、大丈夫です」
 皆まで聞かず、マッシュは微笑んだ。
「魔法兵団に魔法兵団をぶつけるほど、愚かな真似をするつもりはありませんから」
 断言して、マッシュは念を押した。
「くれぐれも、このことは内密に。間諜の疑いもありますし、何より……」
「何より?」
 悪戯を企んでいるようなマッシュの声音。ササライが乗る。
「手品の種を明かしてしまうわけにはいきません。一晩にして船が五百現れると言う、手品のね」
 これを聞いてリンが噴き出した。たしかにそうかもしれない。マッシュの策は奇抜ではあるが、いつも抜かりなく準備がされている。 裏を知らない人間には、不可能を可能にする脅威の手品に見えるだろう。
 単純に、計算し尽くされた行動の結果であるにもかかわらず。
 否、だからこそだろう。
 普通の人間には、マッシュの頭脳の計算のあとなど見えやしない。軍主であるリンにも正直、無理だ。 もっとも、リンは彼と自分の思考パターンは違う物であると割り切っている。下手な優劣の意識を持つ以前に、彼の考えを純粋に楽しむ事ができるようになっていた。
 どうやらササライにもわかっているらしい。軽く肩をすくめると帰りましょうかと腰を上げた。
 終了の合図のように、揺れていた蝋燭が掻き消えた。



 眠れない。
 こんな夜は悪い事ばかり考えてしまう。思考は、空回りではなく闇へと転落していく物なのだと覚えた。
 何度も寝返りをうち、サンチェスはとうとう睡魔を迎える事を諦めた。からだを起こすと上掛けを羽織って窓辺に向かう。
 手には短刀を握っていた。護身用というのが建前だが、今まで抜いたことはない。本来は自分の正体が露見してしまったときにと渡された自害用のものだ。
 かつて皇帝から拝謁したものだった。
 すらりと鞘から抜き、刃を眺める。
 一点の曇りもなかった。
 だが、窓からの空は曇っていた。星も月も見えない。
 まるで今の自分だ。
 今まで手は打ってきた。今まで他の組織を壊したときと同じように手を打ってきたつもりだ。
 初めてこの仕事を受けたのは、継承戦争の最中だった。
 はっきりと覚えている。
 誰の指南もなかったが、彼の仕掛けた小さな罠、その多数が積み重なってゲイル=ルーグナーを立てた陣営の一角を切り崩した。
 任務を達成した喜びと、それ以上の恐怖があった。ああ、もう後戻りはできないのだと思った。二度と光のあたる道を歩む事はできない。 そして、それを当然と受け止めなければいけなかった。
 実績が買われて、次も同じような命を受けた。やっぱりと思った。妻と別れて正解だったと思った。
 諦めに似た境地。機械的に足を動かして。
 思い出をなぞって、サンチェスは笑う。あのときの取り乱しようは、おそらく自分の人生で一番だ。
 なにせ味方のはずの陣営で頭を殴られ、物置部屋に連れ込まれたのだから!
 朦朧とする頭を立て直し、くせ者の顔をみて驚きの声を上げかけて制される。
「おまえが、サンチェスか?」
 問われては、頷くしかない。彼の頭が上下に動いたのを確認して、男はゆるりとサンチェスの両手を握った。
「すまない」
 最初は何を言われているかわからなかった。僕が主のために働かなくてどうするというのだ。
 疑問は、続いた台詞で氷解した。
 驚きだった。そんなふうに考えてくれていただなんて。
 そして決意したのだ。この人のために働くのであれば、暗き道でも構わないと。この人が覇道を進むために障害物を闇で噛み砕こうと。
 以来、障害物を排除し続けた。十、二十、数えられないほど。感慨もないほど。自分の手腕に自信ではなく確信がもてるほどに潰した。
 なのに、何故、今回に限って思い通りにならない?
 オデッサ=シルバーバーグが死んだときにきちんと完了したはずなのだ。頭が潰れれば、手足は動かなくなる。当然ではないか。 また、当時、オデッサが次代にと望んでいたフリックはリーダーとしては未熟で不適格だった。彼が成長する前にゆっくりと残りを解体する。自分の判断は自然だった。
 現在の軍主が原因か。あのマクドール家の嫡男。皇帝陛下を支えるべき人間が、役目に背いて牙を剥いた。 自分が望むことすら許されぬ場所に、何の苦労もなく立てたというのに、それをふいにした少年。
 リンの顔を思い浮かべて、サンチェスは首を横にした。違う。出会った頃、特にオデッサから立場を引き継いだばかりの彼は脅威ではなかった。 だからサンチェスも積極的な手段をとらなかった。いつでも息の根を止められるからとウィンディの命にも従っていたのだ。
 それがいつからか、どうやっても手を出せなくなっていた。皇帝を堕落させた魔女の言葉を守らざるをえなくなってしまったのだ。
 ……あの、軍師。
 あの男だ。
 何を考えているかサンチェスにもどうにも読み切ることができない男。オデッサの兄。たしかに、彼が解放軍へと参戦してから仕事が制御できなくなったのだ。
 既に流れを止める事はできない。これは歴史だ。一見して唯一人が変革を起こしたように見えても、その背後には無数の支えがある。 影の支柱として生きてきたから、ここまで来てしまったら頭を潰したところで完全に流れを断つ事はできないと理解している。
 でも。
 しかし。
 けれども。
 一度だけ、貴方に逆らい貴方のために。
 冴えた刃を静かに収める。
 闇を引き受けるのは自分でなければならない。



 宮廷という権力中枢の腐敗から、任務がこなせなくなったとは考えなかった。考えたくなかっただけかもしれないが、彼はそれを無視した。
 ウィンディの存在に理不尽さを感じながらも、彼女が皇帝を狂わせた魔女であると認識しながらも。
 彼は、不思議と最後まで彼女を責める感覚を持たなかった。


<2006.03.08>


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