奏幻想滸伝
          志操堅互1


 互いの道を行きましょう。
 その志を潰してあげると堅く誓いましょう。



 グレッグミンスターに鳩が旋回する。兵の通信に使われる伝書鳩だが、それは城ではなく城下の屋敷のひとつに舞い降りた。
 白い手が鳩を招く。鳩はおとなしくそこに止まると、くるりと一声鳴いた。
 足に括りつけられた紙は途中で雨にでもあったのか、ごわごわに歪んでいた。
 女の指がインクのうえを滑る。しかし、最後に辿り着く前に大きく震えたかと思うと、指は凶器へと一変した。勢いよく紙をふたつに引きちぎった。
「……恥知らずめ」
 零れ落ちた言葉は地を這うように低い。
「五将軍の誇りを忘れたか、カシム=ハジル」
 帝国将軍のあいだでやりとりされる文は、既にソニアと彼しか使わなくなって久しい。 だが、魔術師のウィンディに恣意的に操作されない生の情報を得られる有益な道具として細々と生き延びていた。
 今回も定期的に交わされるうちのひとつ、と考えてソニアは受け取った。
 けれども、実態は大違いだった。
 綴られていたのは、モラビア城が反乱軍の奇策によって陥落した旨。さらには、応援を請うものでも将軍の無念の最期を知らせるものでもない。 カシム=ハジルが反乱軍へ下った経緯とソニアにも帝国からの離反を促す内容が、こともあろうか彼の直筆でしたためられていた。
 鳩を籠へ入れると、彼女は開けたままだった窓から外を眺めた。
 将軍家の屋敷であるここからは、城下の様子を詳しく知ることはできない。
 ただ、先日。水上砦から帰還した際の馬上で、確実に荒廃を進める帝都を見た。
 都の象徴であった黄金の女神像は輝きを失い、濁った水が申し訳程度に流れていた。見苦しさからいって、いっそ止めてしまった方がよいのではないかと思うほどだった。
 テオさまがいれば。
 彼女は拳を握る。
 これほどの事態を招くことはなかっただろう。貴族も臣民も。
 彼が生きていれば、皇帝陛下も少しは変わったかもしれないし、ウィンディもいくらかはおとなしくしていたはずだ。
 愛する男の面影をなぞりながら、男を殺した人物を思い浮かべる。
 それはよく知っている人間だった。
 テオを慕い、彼と同じ屋根の下で暮らしていた少年。テオの息子。もしかすると彼女の義理の息子になった可能性すらある存在。
 今となってはとんでもない思い違いだった。
「将来が楽しみだ」と語られたその人物は。皇帝に叛旗を翻し、反乱軍の旗を掲げた。巧みな作戦で五将軍のうち三人を寝返らせた。他でもない、実の父親を手にかけた。
 刺すように冷たい風を頬に受け、ソニアは瞳を細めた。
 あの瞬間を思い出す。
 テオ=マクドールの訃報を受け取った瞬間だった。
 あのとき、ソニアは水上砦で模擬戦の指揮をとっていた。よほどのことがない限りは邪魔をするなと言い置いていた場に現れた急使。 放たれた言葉は心臓を抉り、立つことを忘れそうになった。
 その後、どうやって無事に訓練を終えたのか、正直なところ記憶にない。ただ、部下の前で崩れるようなことだけはしてはいけないと思ったのは覚えている。
 反乱軍が埋葬したとのことで、帝都の棺は空だった。
 すがりつく対象すらなく、ただ呆然とするしかなかった。
 ソニアとテオの関係ゆえか、あるいは帝都に適当な将軍がいなかったかからかは判ずることはできないが、彼女が虚ろな棺をマクドール家代々の墓所に収めた。
 かの将軍の死を悼んで泣く兵を見て、悲痛な目の光を認めて、それで悲しみは薄れていくのだろうと思った。思い込みたかった。
 だが、それに反していくら時間が経とうとも癒されることなどない。
 ぽかりと開いたそこを何で埋めるべきか。
 わからないままに彼女は毎日を過ごしていた。
 今日までは。
「……私が守らなければ」
 ちぎれた紙片を眺めて、彼女は呟く。
 あの人の守りたかったものを。
 在りし日のこの国を。
 そのために。
「あの男を殺さなければ」
 愛した男を殺した、愛した男の息子を。
 整ったくちびるから決意を吐き、ソニアは支度を始めた。
 グレッグミンスター城に上るためだった。


「ふうん、そう」
 塔のてっぺんで北から渡ってきた鳥を捕まえて、少年は呟いた。
「ありがとう。行っていいよ」
 礼に対して謝礼代わりだというように鳥は彼の頭に乗ると、ついと朽ち葉色の髪を数本引き抜いた。文句を言われるまえに、飛び去っていく。 ……巣の材料にでもするつもりだろうか。
 つっぱる痛みに眉をひそめて、ルックはそのまま傾斜した屋根に腰を下ろした。
「モラビア城陥落、ね」
 これで赤月帝国のほとんどが反乱軍の手に落ちたわけだ。鉄壁の守りを誇った帝国五将軍のうち、残るはソニア=シューレンただひとり。
 かつて観察した彼女の姿を思い浮かべる。金の髪。蒼の瞳。どちからといえば冷たい美貌。容姿という点では、ウィンディに通じるものがあるかもしれない。
 一方で、魔力からすれば、彼女には遠く及ばない。
 帝国の魔法兵団を率いているのだから、訓練を積まなかったということはないだろう。真の紋章の云々を含め、生まれながらの資質から違うのだ。
 それは確実な結論を導き出す。
 ソニアでは反乱軍を抑えることができない、ということ。
 反乱軍の魔法兵団団長はササライだ。真の土の紋章。それを宿し、操るために造り上げられた器。
 加えて今の双方の士気を見れば結末は一目瞭然。
 帝国は敗れる。
 最前線の防衛の拠点のひとつ、シャサラザードは陥落する。
 となれば、残る生命線はただ一つ。
「クワバの城塞……」
 記憶を辿る。あそこには誰が配置されていただろう。
 少し前まではアイン=ジードが配されていた。だが、かなり前から彼は城の警備隊長に抜擢されて異動になっている。
 しばらく情報を引っ掻き回して、ルックは息を吐いた。
「あいつか」
 現在、クワバの城塞を取り仕切っているのはユーバーだ。もっとも、彼に『取り仕切る』などという技が使えるとは思えないから、実質はウィンディの直轄だろう。
 小細工のために意見することはできなさそうだった。
 いずれ彼とは接触する必要があると考えているが、今は未だ時期ではない。
「そろそろできることも尽きてきたな……」
 どちらにしろ帝国は末期を迎えている。今まではウィンディの使い走りをしながら小細工を弄してきたが、もうそんな必要はないだろう。 あとは自壊していくのを待っていればいい。
 城を出る頃合いだろうか。否、でも。
 戻らない存在を思い浮かべる。
「……彼女だけ、見届けるかな」
 ソニア=シューレン。
 テオ=マクドールが選んだ女性の顛末くらいは。


 ルックが瞬きの紋章で跳んだ先は、シャサラザードより湖に突出した半島の先端だった。そこに歳経た巨木があり、幹にはうろが空いている。
 反乱軍に潜り込んでいるサンチェスからの手紙がそこに放り込まれるのが常なのだ。
 最初はカクやコウアンの外れでやり取りを行っていたのだが、やがてそれは無理になった。民間人に警戒されてでも、反乱軍に疑いをかけられたからではない。
 単純にルックの顔のせいだ。
 魔法兵団団長と同じ顔、というのを利用すればこそこそと立ち回る必要もなく、怪しまれないかと思っていたのだが逆だった。 とにかく目立ってしまう。情報が必要とされる大きな戦の前などは、特にだ。 多忙のはずの魔法兵団長が郊外をうろついているのを目撃したとの噂が広がれば、芋づる式にサンチェス自身からの疑いを招き、それはウィンディまで到達するだろう。
 それを怖れて、彼はサンチェスに顔をさらしていない。
 こうやって手紙を間接的にやり取りしている。
 サンチェスの安全を考えれば、こういったやり方は上手ではない。 が、もとから帝国に味方する気は毛頭ないし、逆に反乱軍からあぶり出されてくれればちょうど良いとさえ思う。
 無造作に手をうろに突っ込んだ。
 指先に引っかかった手紙を拾うと、その場で広げる。
 そのときだった。
 ひゅん、と耳元で風が鳴った。
 とっさに身体をずらして避けると、びいんと余韻を残して幹に矢が立った。
 待ち伏せか。
 サンチェスが帝国軍を本格的に裏切ったのだろうか。
 だとすれば、それはそれでいい。ウィンディは偽りの耳すらも失う。こちらとしては彼の翻意を知らせずにいるのも面白い。
 ただし、この一本に続いた攻撃はなかった。
 おかしい。
 ルックは瞳を細めた。
 ずっとこの木を見張っていたのであれば、ルックの出現が魔術的なものであるとわかっただろう。だから、敵も弓を射かけてきたのだ。
 けれども、続く攻撃がないというのはどういうことだ?
 反乱軍にしてみれば、情報を帝国へと流す存在を生かしておく意味はない。矢継ぎ早に射かけて、仕留めてしまうのが普通ではないのか。
 それとも。
「僕が子供だと思って、憐れんでくれるとでも?」
 ウィンディに口先で騙されて使われている、かわいそうな子供だと思ったのだろうか。
 それはあり得る。
 気配を探ると、最初の一矢の方向から、窺うような視線を感じた。鬱陶しいまでに注がれるそれからは、戸惑いの感情が読み取れた。
 右手に静かに魔力を注ぐ。だいたいの場所は目視でわかる。
 視線の主がいるであろう場所に、ルックは瞬きの紋章で跳んだ。
 こんもりと若葉の茂った草むらのまえで、彼はこくりと首を傾げた。微笑みを浮かべて、しかし右手から魔力を解くことはしない。
「何?何か用?」
 声に反応して、がさりと緑が揺れた。人数は三人。大した使い手ではない。
 やがておずおずと顔を出したのは、働きざかりの男たちだった。兵士というよりは農民のような雰囲気が残っている。反乱軍の志願兵だろう。
「いえ、大変失礼しました」
 いきなり謝られてルックは困惑した。が、表情に出すことはしない。
「不審な鳩が本拠地から飛んでいるという情報から軍師殿の命でこちらを見張っていたわけで、ついうっかり射かけてしまいました。あの、お怪我は……?」
 どうやら誰かと間違えられている。
 誰か。そんなものは考えるまでもなかった。
「それにしてもまさか、魔法兵団団長が直々にいらっしゃるなんて……。急ぎの連絡でもありましたか?」
 次に来る言葉は簡単に予測がついた。
 魔力が圧縮する。発動する紋章術はレベル2。
「ササラ」
 どかん。
 どさ。
 ぱたり。
 全てを言い終わる前に、男たちは撃沈した。
 ルックが彼らの頭上に落とした金だらいによって。
「……どこに目をつけているのさ」
 気絶した男たちを見る目は刺で満ちていたが、なかば呆れが滲み出ていた。
「全然違うだろ」
 テッドに言われた言葉を繰り返す。全然違う。間違えない。
 そうすることで今までいつも感じていた息苦しさが薄れていく。
 かつての自分の感情は、一体どうなってしまったというのだろう。
 落ち着いている自分を不思議に思いながら、ルックはどうしようかと思案する。
 今後のことを考えれば、完全にくちを封じてしまうのが安全策ではある。しかし。
「……お手並み拝見かな」
 テッドから想いを受け取ったはずのリン=マクドールが、もたらされる情報にどう対応するのか。 彼とは直接会ったことがあるから、ササライと会ったという情報の真相についてはすぐに気がつくだろう。
 ただ、それを周囲にどう誤摩化して納得させるかが気になった。
 下手をすれば、解放軍の攻撃の要所のひとつである魔法兵団を失いかねない。
 さあ、どうする?
 見てみたい気がして、ルックは地に転がっている男たちに背を向けた。
 手にしていた手紙に改めて目を通すと、ふわりと微笑む。
 どんな文面があるにしろ、ウィンディへの報告内容はすでに決定している。――解放軍に動きはなし、と。
 どちらにしろ、クワバの城塞とシャサラザードの二カ所に兵力を割くだけの余力は帝国軍に残ってはいないのだ。 仮にどちらかを捨て石にすれば対処のしようもあるかもしれないが、どちらも捨てることができないのが現実だ。
 手薄になったほうを攻められればひとたまりもない。
 遅かれ早かれ、帝都への道は開かれる。
「反乱軍は、水上砦に目標を決定、ね」
 意外に早く、決着がつきそうだ。


<2006.02.26>


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