奏幻想滸伝
          制心誓意3


 扉を開くと、ウィンディが待ち構えるように長椅子に座っていた。どこか気怠げな様子で扇を広げている。
「ウィンディ様」
「ああ、ルック。来たようだね。……なぜ、テッドがここにいるのかしら」
 余分な人間を認めて、ウィンディの不快な色が踊った。
「先日の犯罪者の一掃作戦のせいで、牢屋に余裕がないんです。真の紋章を持たない以上、ウィンディ様が気になさることではないでしょう」
 相変わらずに豹変したルックの言葉遣いと態度にテッドは内心で舌を撒く。 自分もかなりの役者だと思っているが、ルックはまた別の種類で演じることに慣れている。
 こう言われてしまっては、テッドを追い出すことはウィンディのプライドが許さない。ばさりと扇で口元を隠すと、ウィンディは立ち上がった。
 テーブルに広げられた書類をつまむ。
「おまえに関して調べさせてもらったよ、ルック」
 宣言すると読み上げる。
「魔力については文句がつけようがないね。特に風の紋章術ではかなう者はいないようだ。ただ……」
 魔法兵団の資料らしい。それをウィンディは磨かれた綺麗な爪で弾いた。
「成績が悪いね。一掃作戦でも、それ以外でも逮捕者は最下位レベルなんて」
 視線を少年に流しながら女は言う。
「まったく、これではどうしようもないわね。お勉強ばかり出来るお荷物を魔法兵団においておく余裕はないのよ。入団志望者はいくらでもいるのだから」
 ルックは返事をしない。
 背後でテッドも黙っていた。本当は声をあげて「嘘だろ」と叫びたかったが、気がついたからだ。
 おそらくルックはわざと実力を抑えていたのだ。それも、実際の現場でだけでだ。 実戦に弱いならば、クレイズを倒そうとしたテッドを止められたわけがないし、ウィンディの召還した魔獣を抑えられたわけがない。
「……魔法兵団を退団しろということでしょうか?」
 ルックがおずおずと切り出した。
 いかにも城を追い出されたら困るという風だ。
 消沈とした少年にウィンディは笑みを送る。絡みつくような、ねっとりとした視線だ。
「まさか。おまえの才能をもっと生かす部署に行くべきだと思ったのよ。瞬きの魔法を使えるそうね?」
 優しげな声にルックは黙って頷く。先ほどまでの無愛想な様を見ていたテッドはもう何と言っていいかわからない。
 おとなしいルックの様子に気をよくしたのか、ウィンディは告げる。
「今日からあなたは情報部に行きなさい」
「情報部……ですか?」
 挙げられた名前にテッドはぽかんとした。優れた魔術師が情報部。この女、人選を間違っているとしか思えないぞ。それでもなんとか沈黙だけは守る。
「現実問題として、バルバロッサ様の治世に不満を持つ者たちがいるわ。そうして隙あらば、陛下を転覆させようとしている。 実際に武力を用いる物騒な者たちもいるの」
 ウィンディは優しげな、それでいて憂いの顔を浮かべている。こういう表情が亡きクラウディア皇妃に似ているのだろうか。 廊下を飾ってあった一枚の肖像画を思い、テッドは想像した。
「けれども彼らは身内に間諜がいることにまったく気がついていない」
 彼女の得々と語った話によれば、どんなに小さな反乱組織にも必ずひとり帝国のスパイが入っている。 危険だと判断すればただちに内部から切り崩している。
 だが、潜入捜査をしている以上、連絡が簡単ではない。報告のために無闇に抜け出せば反乱組織からの不審を買うからだ。
 そこで、瞬きの魔法が重要になる。アジトと城を目立たずに行き来できるからだ。
 瞬きの魔法は非常に難しい。よく言えば繊細。はっきり言えば不安定。それゆえに理論は知っていても、現実に使いこなせる者はごく少数だ。
 ウィンディは魔法兵団の資料から、ルックに目を留めた。
 彼を間者にするには年齢的に不可能だ。若すぎて、重要な情報の流れる中枢に入り込めない。 しかし、あらかじめ組織に潜入させてある人間から書簡として報告書を回収し、こちらからの指示を告げるには問題がない。
「詳しいことは配属先から聞いてほしいけれど、主な役割は反乱組織のアジトとこの城の往復よ。心配することはないわ」
「承りました」
「それはよかったわ」
 従順な少年にウィンディは満足げに頷いた。
 ようやく視線がテッドに向けられる。頭の天辺から爪先までじっとり見つめられて、知らず身体が固くなった。
「まったく面倒なことをしてくれたわねえ」
 口調にそれほどの憎しみはこもっていなかった。おそらくルックがいるからだろう。
 逃げ出したい衝動を必死で抑える。
 ウィンディもまた、動かなかった。
「どうやらおまえは人質として有効なようだけれど、野放しにしておくわけにはいかない。牢屋に入れたいところだが、満杯ときている」
 事実を淡々と綴る。高く結い上げた金の髪が、蝋燭の光で煌めいた。
「しかも放っておけば寿命はあと一、二か月だ」
 思わぬ単語にテッドは自分の表情が変わるのがはっきりわかった。それを見てウィンディが嘲弄した。
「おやおや、知らなかったのかい?<ソウルイーター>によって摂理を越えて延ばされた寿命だ。真の紋章を失えば、その元の継承者は急速に衰えて死ぬのよ」
 告げられた真実にテッドは微動だにできなかった。指先までも凍った。
 彼の生まれた村は代々<ソウルイーター>を守っていたが、真の紋章を継承には長老が選ばれていた。 テッドの記憶では二回代替わりをしていたそれを、彼は紋章を手放したからではなく寿命だと思っていた。
 だから自分が紋章を手放したなら、殺されたり病気にかかったりしない限り緩やかに歳を重ねて老いて死ぬと想像していたのに。
 衝撃のままに、だがウィンディの言葉を待つ自分をテッドは知る。
 彼女は自分を殺さない。生かして人質にすると宣言した。
 ……おそらく彼女はテッドを死なせない方法を知っているのだ。
 貼付けた笑顔で、女は白い指先で。机の引き出しを指し示した。
「テッド、そのなかに入っている黒い封印球を出しなさい」
 操られるように従えば、数個の封印球が視界を転がった。触ってみれば、不快感が電流となって身体を貫く。
 人形のように動かないテッドの反応も彼女の予測の範囲内。楽しげに喉を鳴らして扇を揺らした。
「ほら、こっちに一個持って来なさいな」
 本能的な拒絶が駆け巡る。気持ちが悪い。吐き気と脂汗。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 これが自分の寿命を延ばすものだとしても、こんなものに頼って生き延びたくはない。
 感情に突き動かされて拒否を叫ぼうと、振り返る。
 そのテッドの視界に。
 静謐に佇む緑の少年が映った。
 部屋に入る前に告げられた言葉が甦る。



『だったら、どんなに意に添わないと思うことでも誓う決意をしておきなよ』



 急に。こころが穏やかになった。
 ああ、このことか。
 固まっていた指先がほどけた。力を込めて球をつかみ、ウィンディの前に立つ。
「これは?」
「ブラックルーンよ」
ウィンディは教えると、ルックを手招きした。
「おまえも見たことがないでしょう?」
「はい」
 ルックはじっと封印球を凝視している。彼にも、この無気味な『ブラックルーン』の正体がしかとはわからないようだ。
 愉しげに微笑してウィンディがテッドから紋章球を取り上げた。
「これは闇の紋章を元にしてわたしがいろいろと改良を加えたものよ。ここにわたしの持つ<門>の紋章の力を特別に込めてあげるわ」
 そうして身体に宿せば、種類は違えど真の紋章の力がテッドに注がれることになる。延命措置になる。
「それにおまえは大事な人質ですもの。勝手なことをされては困るからねえ」
 これを宿している限り、ウィンディから決して逃れられない。彼女の意志に反することは絶対にできない。
「だから誓いなさい。わたしに忠誠を」
 彼女の意のままの操り人形になることを。
 理解してなお、テッドは決心を翻すことはしなかった。
 あいつに会う。自分から告げなければ、いけない。自分は、逝けない。
「誓ってやるよ」
 ウィンディは強引にテッドの右手を引き寄せると、ブラックルーンの紋章球をかざした。そこから黒い厭らしい闇が噴き出す。 粘着性を持ってテッドの右手に絡みつくそれは、まさしく彼女の情念だった。
 激しくこころが乱される。
 底なし沼のこころは、誰のもの。これはきっとウィンディのもの、けれども自分のものではないと断言できない。
 傾く視界。近づく床。
 女の勝ち誇った笑い声を最後に、テッドの感覚が閉ざされた。

 誓うその意は、こころを制し。



 床に崩れた少年の髪を、女は優しい動作ですくった。雨で濡れた髪は、指先に不快感を残したが、そんなものはどうでもよかった。
 やっとだ。
 三百年求め続けた呪いの紋章。
 その鍵をようやく手に入れた。
 テッドが紋章を他の人間に継承したことを知った時、目の前が静かに絶望に塗り替えられた。時に見る世界の終末のように。
 だが、それは思わぬ福音となった。この少年をうまく使って取り引きをすれば、今度は確実に紋章を手に入れることが出来る。
 強要ではなく、譲渡という最高の形で。
 ブラックルーンを宿した彼はウィンディには絶対に逆らえない。どんなに遠くに逃げようとしても、戻るように紋章を通じて一言命じれば彼女の前に跪く。 畢竟、彼は野放しにされても逃れられない。
 必要以上の自由を与えるわけにはもちろんいかないが、牢屋に入れておく必要もないだろう。
 時が来るまで、適当な監視をつけておけばいい。
「ルック」
 退出せずに控えていた少年に言い付ける。
「情報部の仕事とは別に、おまえにテッドの監視を命じるわ。逃げ出すことはないはずだけれど、念には念をというからね」
「かしこまりました、ウィンディ様。ですが、僕が仕事で城を出る時にはどうすればいいのでしょう?」
「そうだね……」
 ウィンディはかしこまっている少年を眺めた。
 現在は魔法団員として大部屋に入れられているはずだ。 情報部へ籍を移すにあたって部屋も移ることになるわけだが、大部屋であれば部外者であるテッドもそこへ置かなければならず、あまりにも不自然だ。
 グレッグミンスター城には、移動の便や使い勝手が悪いために放置されている小部屋が幾つもある。
 そして、ルックは瞬きの紋章による転移魔法が使える。
 ウィンディは紙にペンを走らせた。地図を書いてルックに渡す。
「おまえに一部屋を与えます。そこを自由にお使いなさい」
 任務の際にはテッドをそこに閉じ込めておくように。
 見取り図を眺めて場所を確認したルックは、小さく頷いて了承の意を示す。
 彼の体格では気絶したテッドを運ぶのは不可能だと判断したウィンディが呼んだ兵士とともに退出していく彼を見送って、ウィンディは静かに目を閉じた。
 長かった。
 ようやく、第一歩を踏み出すことができる。

 かつて誓ったその意は、今もこころを制して。



 尖塔の天辺に、ルックは危なげなく立っていた。
 グレッグミンスターほどに大きな城になれば警備も厳重だが、最近の規律の緩みによって死角はいくらでも存在した。おまけに今夜は月がない。
 そもそも、そんな場所への侵入者は想定されていない。
 何をするでもなく、彼はただ風に吹かれていた。
 同室にされたテッドはまだ目覚めない。
 ブラックルーンの影響はそれだけ強く、なかば自分の目的のためにそれを宿させてしまったルックとしては同じ部屋にいるのが心苦しかった。
 今はまだいい。
 テッドは<生と死>を300年にわたって宿し続けた経歴があり、ブラックルーンに常人より耐性が在る。
 だが長引けば長引くほど、呪いは彼を蝕んでいく。
 真の紋章の力を使ってもブラックルーンの進行を遅らせることしかできない。
 ルックの実力なら紋章を破壊することは出来る。 それではウィンディの疑惑を増すうえに、真の紋章との仲立ちをなくすことになり結局はテッドを死なせてしまう。
 こころの呪縛に関する部分だけをこちらに都合のいいように改変することは現在のルックでは不可能だった。
 せめてもの罪滅ぼしにできうる限りの対処をした。
 テッドの意志は最低限は守られる。それでも数年。しかもウィンディがテッドに直接命令してしまえば、ルックには手も足も出ない。
 こちらも命を賭ける覚悟で臨めばどうにかなるかもしれない。
 けれども死ぬわけにはいかない。
 いくら死を望まれた身であろうとも、こんな場所で殺されるわけにはいかない。
 自分を生かす言葉を思いだす。
 生きている分だけ、死なない分だけ。我が侭なだけ、義務を果たさなければいけない。
 
 
 誓うこころは、世の意を制し。


<2004.11.24>


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