奏幻想滸伝
          制心誓意1


 残るありったけの力で兵士を退ける。
 相手は訓練された近衛兵だったが、攻撃に遠慮があった。 おそらく、テッドが紋章の使い手であること、さらにはウィンディからのお達しがあったに違いない。
 真の紋章は人に宿っている時こそ、この世界に固定している。しかし、宿主が死ねば新たな宿主を求めて行方がわからなくなってしまう。
 ウィンディは「生きているテッド」が欲しいはずだと、彼は働きの鈍くなりつつなる頭で考える。
 リンは今頃、どこまで逃げることができただろう。
 帝都はすでに厳戒態勢といっていい。脱出には相当の困難を伴うはずだ。
 もっとも、リンは貴族とは思えない気さくな性格もあり、城下の人間には慕われている。彼が望めば匿ってくれる人間は確実に存在する。
 過剰な心配はしないでいい。
 余計な思考はここまでと、テッドは闇を具現化させる。
 弾かれて何人かが昏倒した。これはただの暗闇ではない。ソウルイーターの残滓。即死効果こそないが、気を失わせるだけなら十分だ。
 なかには吐血しているものもいる。
 床に点々と散った血液に屋敷を汚してしまったことをすまなく思う。
 人間を手にかけるのは初めてではなく、感慨は存在しない。
 汚れた両手を眺めるには余裕がない。
 だからなんでもないことを意識して考える。
「何をやっている!早く捕らえぬか!」
 右手を振り回してクレイズが喚いている。どうやら自分で突撃する勇気はないらしい。しきりに部下をせっついているだけだ。
 まったく。よくあんなので近衛兵隊長を務められる。軍の質が下がっていると言ってしまえばそれまでだが、原因はもっと深い所にあるのだろう。
 その性格のおかげでテッドは容赦という言葉を考えなくてすむ。
 いつまでもここにいるのは危険を増すだけだ。クレイズはどうやら抜け駆けしようとしていたらしく、他の近衛兵が現れる気配はない。
 生きて、また会うと親友と約束した。
 それを果たすためにはまずここから脱出しなければならない。
 そういえばこいつ、リンの妨害ばかりしてたよな。
 思い返して、笑う。こんな場面で、発想で。笑える自分がある意味すごいと自画自賛。
 空の右手に力を込めて、
「じゃあ、あばよ」
 告げた言葉は。



「派手にやってるね……」
 屋敷の玄関は開け放たれたままだ。幸いにしてマクドール家の敷地は広大で、目撃者を気にしなくてもいい。 だが、いくらなんでも普通ならば扉くらい閉めておくべきだろうに。
 玄関ホールはがらんとしている。
 人の気配がない。
 それを見て、ルックは密やかに溜息を落とした。
 万が一の逃走経路を考えれば、人を配置しておくのが基本である。それが、件の人物のいる部屋に向かって全員が突撃したらしい。
 何度か城内でクレイズを見かけたことがある。 絹の椅子にふんぞり返って命令を下しているか、あるいは「視察」と称して部下をいびっているかどちらかだった。 実の伴わない口先だけで今の地位にある男だ。
 あんな男の部下は哀れだと思っていたが、どうやら上司が上司なら部下も部下だったらしい。
 風が伝えるままに歩き出せば、途中、ひっくりかえっている兵士たちがいる。
 強すぎる闇に当てられたのだ。
 手当てしてやる義理もないのでそのまま通り過ぎる。
 どこに向かえばいいかわからないのならばちょうどいい道標になったのだろうが、案内がある以上邪魔なだけだ。
 冷淡に考えて歩を進めていると、不意にがくりとつんのめった。
「なに」
 見下ろせば、意識を取り戻した兵士が茫洋とした視線のまま少年の足首を捕らえている。
 血の気を失いながらも誰何してきた。
「何者……」
「魔法兵団の者だ。……クレイズ殿がどうやら偽者に惑わされているようなので忠告に来たんだよ」
「偽……者……?」
「そう。本物の<生と死>を持ってるんだったら、とっくに逃げ出せていなければおかしい。誰かに継承したんだろう」
 言うだけ言うと、くちびるだけで呟く。眠りの風。
 男の首が力なく垂れたのを見届けて再び歩き出す。まだ屋敷内に闇の気配が濃い。元・宿主は逃亡できていない。
 手入れの行き届いた屋敷のそこかしこからは人間の気配がする。どうすればいいかわからずに留まっている使用人たちだろう。 動揺しながらも、これをきっかけにして逃げ出すというつもりはさらさらないらしい。 この屋敷の主はよほど慕われているか畏れられているかどちらかだと感心する。
 廊下を飾る調度品は、華美でないものの質のいいものを選んである。
 登城してくるテオ=マクドールを何度か見かけたことはあったが、たしかに彼の家だと納得できる。 少なくとも、絶妙なバランスで成り立っているミルイヒの趣味よりはルックの好みにあった。
「何をやっている!早く捕らえぬか!」
 あるひとつの扉の前で、男が喚く声が聞こえた。クレイズだ。
 閉められた扉の隙間から、闇の気配が滲んでいた。ここで間違いはない。
 このまま飛び込むべきかどうするかと、意識を巡らせる。 これからすることに『証人』は欲しいが、それがクレイズなのは嫌な気がしたのだ。
 と。
 ちょうど玄関の辺り、強大な力が揺れた。
<門>だ。ウィンディの到着だ。
 仕方がない。あきらめよう。
 扉の向こうでさらに闇の気配が膨らんだ。
 このまま近衛兵が全滅するというのもまずい。ウィンディの機嫌を損ねた挙げ句の八つ当たり対象になるのはごめんだ。
 右手に力を込めて、呪を呟く。
 取っ手に左手をかけた。
 紋章の発動はいつでもできる。
 ここが正念場。
 緑の視線に力を込めて、ルックは扉を押し明けながら、風を操った。
「風よ、我が意に従い沈黙を守れ」



 闇よりも、風が速かった。



 告げた言葉は空に消え。
 臨界点を迎えていた闇が、あっけなく行き場を失って霧散した。
 対峙している少年と男――テッドとクレイズだ――も呆気にとられている。双方違った意味で、紋章が発動しなかったことに、だ。
「だ、誰だ貴様!」
「助けてやったのに第一声がそれ?まあ、いいけど。魔法団員だよ」
 名乗る気も起きずに投げやりに返す。
 当面の危機を脱したと察したクレイズがこちらへと矛先を向けた。
「助けただと?!バカを言うな!あれはあいつが勝手に呪文を唱え損なっただけだろう!」
 そう、テッドが呪文を完成させるための言葉が最後の最後で消えたのだ。それゆえに、クレイズは餌食にならずにすんだ。 テッドはこの男に関しては殺す気だったらしい。それに関しては、まったく異議がない。
「僕が風の紋章で言葉が音にならなくなるようにしたんだよ」
 説明も鬱陶しいが、何もなしではうるさそうなので簡潔な説明と冷たい視線を投げ付ける。
 紋章を通じてテッドの周りだけ大気の振動を止めたのだ。音とは空気の揺れ。この部分を抑えてしまえば、どうやっても言葉は言葉にならない。 いくら強力な紋章を持っていようと、呪文の発動ができなければ恐れるに足りない。 もっとも、この術は有効範囲が狭く、発動までに時間がかかり、なおかつ持続時間が短いという「使えない条件」を満たしているので滅多なことでは成功しないが。
「そんなことはどうでもいい!さっさと捕らえないか!」
 渾身の魔法を打ち消されたせいもあって、テッドは大きく肩で息をしている。もともと満身創痍な彼だったが、今ので完全に魔力も尽きたようだ。
 たしかに縄をかけるには容易い。しかし、ルックはクレイズの主張を鼻で笑い飛ばした。
「なにバカなことを言ってるのさ。目的の紋章を持っていない人間を捕らえてどうするわけ」
「なんだと!」
「たしかに闇の気配は強いけどね。こいつはウィンディ様ご所望の<ソウルイーター>を持っていないよ。誰かに継承したんじゃない?」
 その証拠に、とルックはテッドに近寄った。
 動けないテッドが必死に隠している右手をひったくると、クレイズに、そして。
 今まさに扉をくぐってきたウィンディへと見せつける。
「ほら、なんにもないだろう?あんたが無駄にマクドール家を破壊しているようだから、忠告に来たんだよ。 新しい継承者はおそらく他の出入り口から逃げ出したんだろう」
 小バカにしたように説明すれば、クレイズはかっとなって怒鳴る。どうやらウィンディがすぐ後ろに佇んでいることにも気がついていないようだ。
「こういう貴族の屋敷には当然いくつかの抜け道がある。玄関ひとつろくに抑えていないあんたには思いつかなかったんだろうけれど」
 淡々と言葉を紡ぐ少年を、テッドは手を取られたまま見上げる。
 この顔。この声。
 驚きが顔いっぱいに広がったが、言葉にはならなかった。
 そんなテッドを尻目に、ルックの視線は尻餅をついたままのクレイズを素通りする。背後で複雑な表情をしている女を見据えていた。
「というわけです、ウィンディ様。新しい継承者は屋敷の台所にある隠し扉から城下におりたようです」
 ぎょっとクレイズが振り返った。滑稽なほどに怯えた様。ちょうど男の目の前には白くなるほどに握りしめられた彼女の拳がある。
「そう。じゃあ、そちらに兵を出さなければねえ」
 言うと彼女は背後に控えさせていた兵士に命令を下す。ばたばたという足音がして、彼らも雨の中探索に乗り出していった。
 部屋には四人だけが残される。
 かつりとウィンディが一歩を踏み出した。
「やってくれるじゃないか、少年」
 甘い憎悪をたたえた視線がテッドを絡めとる。
 ドレスの裾を優雅にさばいて、テッドの前に屈む。くいと人さし指で顎を上げさせた。
「誰に継承したんだい?」
「言うと思っているのかよ、おばさん」
 暴言にぴきりとウィンディの表情が凍る。だが、必死にそれを抑えると彼女は冷たい微笑を浮かべた。
「ふふふ。おまえが言わなくても、じきにわかるわね。姿を消した三人を捕らえればいいことですもの」
 赤いくちびるが歪む。
「おいで」
 言葉は背後に投げられた。
 少年たちから見てウィンディの後ろの空間がぐにゃり、歪んだ。赤と紫、黒い煙をごちゃ混ぜにしたような気味の悪い空気が流れ出してくる。 その穴から一本の腕が空をもがくようにして出現する。長い爪と、人間にはあり得ない青い肌。
 彼女が異界へと道を通じたのだ。
 テッドはどこか静かな気持ちでそれを眺めた。そういえば、この女の<門>の継承者たる力を見たのは初めてな気がする。
 あの爪に引き裂かれて殺されるのは、呪われた紋章の持ち主だった身としては相応しい。 親友に継承したことを悟られないままに逝ける方がいいかもしれない。
 腕が伸びる。
 瞳を閉じる。
 テッドがすでに観念していたその時。
 ふわりと彼の傍らの風が動いた。
「おまえ!」
 ウィンディの歯ぎしりが響いた。
 いつまでも訪れない瞬間におそるおそる見上げれば、表情をぴくりとも動かさないままに緑の法衣の少年が右手をのばしていた。
 腕は見えない鎖に拘束されたようにぶるぶる震えている。
「差し出がましいことをして申し訳ありません、ウィンディ様」
 言葉だけは丁寧に少年が呼びかける。
「ですが、この人物を生かしておいた方がよろしいのではありませんか?」
 力が拮抗している。
 少年はたしかにウィンディの力を抑えていた。ただしあまり余裕はないらしく、涼しげな表情とは裏腹に額にうっすらと汗をかいていた。
「誰に継承したかは知りませんが、新しい継承者がおとなしくあなたに紋章を渡すとは限りません。 聞けばこの人物はマクドール家に家人として扱われるほどに親しいと聞いております」
「人質として抑えておいた方がいいというわけかしら?」
「拙策ながら」
 ウィンディは考え込むような仕草をした。そのまますいっと立ち上がった。同時に背後の無気味な門も消え失せる。
 じっと意見した少年を見つめ、どこかいぶかしげな表情を浮かべている。しかし、答は出なかったらしく金の髪をかきあげた。
 少年は黙ったままだ。テッドも何も言わない。
「おまえ、所属は?魔法兵団だね?」
「はい」
「名前はなんという?」
「ルックと申します」
 今や帝国の皇妃といっても差し支えない女性の視線を不自然なまでにしっかりと受け止めて少年は名乗った。
「そう……。そういえば」
 なにか記憶に引っかかっている名であったのだろう、何度か意味ありげに頷くと、そのまま踵を返した。
「まあ、その案はたしかに有効かもしれないね。とりあえずしばらくは生かしておいてあげるよ、元継承者。それからルック」
「なんでしょう」
「その少年を連れて牢にでも入れておいてちょうだい。そして城に帰ったら、わたしの部屋へおいで。いろいろと話しておきたいことがあるから」
「かしこまりました」
 神妙に返事をしながら、ルックの口元が楽しげに歪んだのをテッドは見逃さなかった。
 出会った時からの疑問符が消えない。
 これは一体何者だ?
 この、魔術師の島で会った子供とそっくりな、それでいてまったく異なるこの少年は。


<2004.11.24>


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