奏幻想滸伝
          起承点結4


 自分ともあろうものが、転移に失敗するなんて。
 うっかり空中に躍り出てしまい、しかも着地に失敗した。おかげで足をひねってしまった。最悪である。
 昼間、ルックはウィンディによって反乱軍の内通者との連絡を言いつかった。長く担当していた者が殺されてしまい、後続の何人かは芳しい結果を残せなかったからだ。
 古くからの間者の情報を受け取るだけなのにどうして失敗できるのか理解しがたいが、ルックにとっては待ち望んでいた展開だった。
 彼の第一の目的はウィンディの持つ門の紋章をハルモニアに持ち帰ること。
 経験の差ゆえにルックは一対一の対決でウィンディを打ち負かすことはできないと判断している。ならば、代わりに反乱軍にそれを為してもらって、最後に紋章だけをいただいていけばいい。
 そのためには反乱軍の情報は詳しいに越したことはないし、自分が連絡役であれば情報を操作することもできる。
 そんなわけでルックはウィンディの命を慎んで拝したというわけだ。
 前任者から、反乱軍のサンチェスとの連絡方法については教わっている。
 だからルックがわざわざ反乱軍の本拠地を訪れる必要は微塵もない。
 なぜかと問われれば、単純な好奇心だ。どうせだったら自分の目で一度くらいは見ておきたい。言うまでもなくササライと顔を合わせるのだけはごめんだったが。
 正式に反乱軍の担当になったからには城に出入りしても不自然ではない。今まではウィンディの不審を怖れてできなかったこと。
 なんとか望みの展開となり動けるようになって、早速、行動を起こしたというのに。
 はあ、とルックは息を吐いた。
 まったく自分は運がない。
 思って、斜め下に視線を投げた。
 そこにいるのは藍色の上着を羽織っている黒髪の少年。手には磨き抜かれた棍を構えていた。
 ……リン=マクドール。
 一年前、グレッグミンスターで見かけた記憶を流しながらルックは相手を無遠慮に眺めた。ソウルイーターのおかげで成長のあとは、ほとんどない。
 幼さをわずか残した容貌。変わらない。自分と同じ。
 表情は険しかった。確実に侵入者として発見されている。見逃してくれる気はないだろう。
 適当にあしらって、逃げなければ。
 紋章で攻撃して足止めする。決断はすぐに下った。
 ふとテッドのことも考える。反乱軍に勝ってもらわなければいけないから、もちろん殺してしまうわけにはいかない。あまりにも重傷を負わせてしまうのも酷だ。
 しかし、それだけではなく、あまりに手荒に扱うとテッドががみがみ言ってきそうな予感がする。
 だとすれば攻撃も何もなく、さっさと姿を消すに限る。
 瞬きの紋章にちからを込めようとして、ルックはぎくりと動きを止める。
 リンは一歩も動いていない。殺気は感じるが。けれども、それ以上に闇が。
 本能的にルックは屋根を蹴った。足の痛みに構っている余裕はない。
 屋上に転がり落ちて。頭上を見れば、さきほどまで自分が立っていた場所をソウルイーターの闇が薙いでいた。
「なんで」
 呟きは、ふたりのくちからこぼれた。
 ルックにしてみれば、ソウルイーターが自分を狙う理由がわからない。
 リンにしてみれば、オデッサやグレミオや父を喰らったときのような紋章の様子が理解できない。
 暴走。でも、どうして。
 困惑のなか、とっさに風で防御しながらルックがもしやと思い当たる。限りなく低いけれど、ないとは言い切れない可能性。
 テッドの存在。
 三百年もの長きにわたってソウルイーターを宿し続けた彼。今は闇の紋章に手を加えたブラックルーンを右手に持つ彼。
 闇の紋章はソウルイーターの眷属である。
 それゆえにソウルイーターが未だに彼とのつながりを微弱でも保っていたとしたら。
 決して浅いとはいえない関係を結んだルックを見逃すはずがない。
「ああもう!」
 毒づくと、ルックは短距離転移を試みる。このままの状態が続けばササライが出てくるかもしれない。あいつと顔をあわせるのだけはなんとしても避けたい。
 衝動にまかせて。普段からは比べ物にならないくらいの速さで形式を組むと、瞬間、リンの目の前に躍り出る。瞬きの紋章にこめた魔力をそのままにしておいたのも幸いした。
 闇の魔力の噴き出す右手を己の右手でつかむと、そのまま自分の奥深くに息づく紋章で抑え込む。ここは魔女レックナートの結界のなかだ。ウィンディに気づかれることは、まずないだろう。
 そして怒鳴る。
「あんたが継承者だろう、リン=マクドール!」
 既に継承者が代変わりしているのだと音声にのせて認識させる。軍主の意識を通じて、彼の右手の紋章に。
 その姿勢でしばし。
 徐々に闇が収まっていく。ゆるりとあるべき場所に戻るのを見届けて、ルックは息をつきかけ。
 呼吸を忘れた。
 こんな状況にあったというのに、リンの棍が的確に背筋に当てられていた。彼が本気で突けば、確実に脊髄を砕くだろう。
「何者だ」
 再びの誰何にルックは微笑む。国でよく、些細な企みを実行したときに浮かべる種類のやつだ。単刀直入にいれば、生意気な。
「恩人に向かって随分な態度だね」
 見せつけるように、今は鎮まった右手を軽く掲げる。未だ、手はつながれたままだった。
「こんな時間に城にこそこそ入り込んだ不審人物を信用できるわけがない」
「侵入って、屋上だけだよ」
 建物のなかに入るヒマなどなかった。ああ言えばこう言う的反論。
「それに知り合いと同じ顔の人間を単純に信じられるほど出来ていない」
「普通は逆じゃない?あいつの関係者で、あんたに味方をしに来たかもしれないじゃないか」
 言いながらもルックは心底いやそうな顔をした。いくら相手を丸め込むための仮定として挙げたとはいえササライの関係者であることは間違いなく、それを述べるのに不快感がある。
 が、逆にルックの隠しきれない表情の変化にリンは武器をひいた。
「?」
 ルックの言葉に納得した、というわけではなさそうだ。が、それまでの殺気立った雰囲気ががらりと変わった。
 首を傾げたルックにリンは笑う。
「あれだけ接近しておいて手を出さないってことは、安全だってことだから。無駄な労力は使わないことにしているんだ。ただでさえも神経を使うことが多いからね」
 つまり、ルックの出方を計っていたということ。
 それに、と彼は続ける。
「おまえは魔術師なんだよな?あれだけ接近してれば、俺の棍の方が速いわけだし」  刺客かもしれない不審人物に対して、この態度。おそらく四六時中、帝国軍から狙われているにしては。ありえない。
 それだけの経験と自信があるからかもしれないが、にしても。
「たいした自信だね。まったく、あの将軍と血がつながってるだけあるよ」
 最後に見た後ろ姿。その泰然としたさま。思い浮かべて、ルックとしては誉めたつもりだった。
 しかし、台詞を聞いた相手の空気が変化した。表情は一見して同じだ。ただ、瞳の持つ彩りが違う。感情が見えない。軍主の見せた新たな顔。
 それは。
「不愉快」
 ぼそりとルックが続ける。
 彼にだって、理屈では理解できるつもりだ。最後の家族、誰よりも尊敬していた父親をその手にかけたのだ。こころのどこかが逆に凪いで、氷ついてしまってもおかしくはない。 互いの理想をかけての戦いであり、憎しみあったわけではないのだから、余計に。
 それなのにルックが納得できないのは、彼を取り巻く人物を知っているから。テオ将軍の背中。息子を語る瞳。テッドの顔。親友を思い出したときの口調。
 リン=マクドールを育てたことを、ともに過ごしたことを。
 こころから誇りに思っていた。
 だから、ここで終わってほしくない。
 任務だとか、役目だとか。そういうこととは関係なく、彼は思う。今はこの場にいない、大切だと言える人間のためにも。
「あんた、ここで潰されるつもり?テオ=マクドールに」
 思うから、あえて突きつける。おそらく、反乱軍のなかでは誰も触れないであろうことを。
「このままじゃあんたの負けだよ、リン=マクドール。自らが殺した父親に、道連れにされるつもりかい?」
 殺気すらなく棍が動いた。普通の人間であれば確実に当たる。致命傷になる。その距離をルックは微動だにしなかった。
 構わずに。
「将軍の覚悟を無駄にするつもり?」
 無表情の軍主を緑の視線で見据えて、言う。
「あんたをあんなに信じていたのに」
 ぴたりと。
 眉間まであと指一本の距離。黒い凶器が止まる。
「……おまえに何がわかる」
「わからないよ。だってそんな立場にたったことがないから。それに将軍とあんたの戦いをその場で見届けたわけじゃない。だけど」
 深呼吸。
「一冬だったけど、僕は将軍とそれなりに親しくさせてもらった。屋敷に遊びにいったこともあるし。だから」
 まっすぐに彼を見上げる。口元がすこしだけ和らぐ。
「将軍がどれだけあんたを大切にして、自慢にして、誇りに思っていたかってことは知ってる」
 突きつけられたままの棍が静かに下りた。
「父さん、と……?」
 存外に幼い呟き。ルックは一歩、少年へと近づく。
「それに今のあんたの姿をテッドが見たらどう言うと思う?」
「「それでもおれの親友か?」」
 見事、声がはもった。
 聞いて、ルックが鼻をならす。
「わかってるんじゃないか」
 まったく手間のかかる、と言いたげな口調だった。



 リンは一度おおきく息を吸うと、瞳を閉じた。ゆっくりと時間をかけて瞼を開き、再び目の前の少年の姿を確認した。
 やや長めの朽ち葉色の髪。穏やかさよりも強さを感じさせる、緑の瞳。髪はササライよりも暗く、瞳はより鮮やかだった。体格はどっちもどっちというところか。
 双子だと言われれば、疑いもしない容貌をしていた。
 もっとも、雰囲気が決定的に違う。ササライが魔法兵団を率いる長でありながらも、どこかのんびりとした陽だまりを感じさせるのと比べて。
 こちらは冬の空気を思い出させる。
 きんと冷えた、吸い込むと肺が痛くなるような凛とした空気。それだけでなく、穏やかな草原や湖をわたる風も。
「おまえは?」
 名を問う。するりと視線が逸らされた。聞いて欲しくないらしい。
 リンは退く気はない。なぜなら。
「テッドの知り合いなんだろう?」
 先ほどの思考の同調からも明らか。直接にテッドを知っている人間の言葉だった。グレッグミンスターでともに過ごしたときの知り合いの顔にはない。ならば、テッドが捕まった後だ。
 つい強い勢いで尋ねれば。
「さあ?」
 はぐらかす答え。まるですれ違った視線のように、ずらされている。
 だが、リンも諦めない。ウィンディに囚われている親友。ロッカクの忍びの情報網と探索力をもってしても、行方がつかめていない。
 生きているのか、それとも自分が知らないだけで既に最悪の結果を迎えてしまっているのか。
 情報の餓えを満たしてくれる存在だと直感した。してしまった。
「テッドは生きているのか?」
「どうだろうね」
「どこに閉じ込められているんだ」
「さあね」
 どこまでも返事はそっけない。
 そのくせ、悪戯っぽく瞳を輝かせると、そのまま助走も矯めもなく。ふわりと頭上の屋根に飛んで、降りた。ちょうど、最初に少年が現れた場所だ。
 ゆうるりと強い視線が己を見下してくる。不思議と、不快な感覚はなかった。
 風が、巡る。
 おおきく少年のまとった法衣の袖が翻った。肩で揃えられた髪が不揃いに揺れる。
 魔力の高まりを感じる。
 少年の右手が光っている。注視すれば、見覚えのある紋章が刻まれていた。現在の解放軍で危うくも重要な役割を果たしている暴走少女が持つ紋章と同じ。
 瞬きの紋章である。
 転移するつもりだ。
 察して、リンは息を吸い込む。言葉を生み出すために。止められないと知りつつも、止められるかもしれないとかすかに期待しながら。
 今ここで別れてしまっては。
 どうしようもない。何も得られない。父のこともテッドのことも彼のことも。
 焦りが走馬灯のように記憶を引き出す。最初の任務。魔術師の塔。魔術師の子供。占星術師。グレッグミンスターへの帰還。テッドと別れて、クレイズに。
「おまえ、あのとき一斉検挙に加わってただろう!?」
 なんとも実のないことを言ってしまった。そうリンが後悔したのとほぼ同時、魔力が拡散した。驚いて幼い顔をまじまじと見つめれば、呆れたように少年が首を傾げていた。
「まったく」
 言葉は文句だったが、声は柔らかかった。
「どうしてあんたたちは同じことを覚えているんだろうね」
 親友ってそういうものなの?との裏の意味が聞こえてくる。
 それは、この少年はテッドを知っているということ。テッドと話したことがあるということ。
 それから、テッドに対しては好意を抱いていること。
 表情など見なくても、全てが伝わってくる音だった。
 夜空を背負って立つ少年に問う。今まで、星を持つ人間に問いかけたように、少年のためだけに用意した言葉で。
「おまえ、どうせつくなら俺につかない?」
 どこまでもシンプルなそれ。英雄と呼ばれる人間の瞳で、じっと少年を見つめる。返答を待つ。
 考える素振りもなく、少年のくちびるが無造作に応える。
「遠慮しておく。僕には僕の目的があって、今の場所にいるんだから」
 それを達するために自分はあるのだと断言する。頑なで潔い姿勢に落胆しながらも納得した。確かに、この少年と現在の帝国軍とは印象が結びつかない。
 単純に忠誠を誓っているようには見えないから、事情があるのだろう。
 再び少年を中心に魔力が渦巻き始めていた。今度こそ、転移して帰るつもりだろう。
 次に会うときは戦場だろうか。
 紡ぐ思考に少年の軽やかな声が滑りこむ。
「リン=マクドール」
 軍主の名を呼ぶ。魔力が淡い光となって彼を取り巻いて円を描いた。黒と緑、色彩の二点が結ばれる。
「僕の邪魔をしないんなら、あんたの邪魔はしないであげるよ。そのくらいの余裕はあるからね」
 くちびるが閉じられると同時、緑の少年の姿は掻き消えた。
 湖からの風が吹き抜ける屋上には軍主ひとりが取り残される。
 彼の表情は、ここに来たときよりも僅かだが、やわらいでいた。



 深夜の石版の間。
 人気もなくがらんとした空間に、ぼんやりと光が浮かぶ。
 部屋の中央に配された約束の石版、宿星の名を刻む運命の石の一点が誰に知られることもなく変化を起こす。
 天の宿星の第四位。空位であったそこに、密やかに名前が刻まれた。



 盲目の女は爪が食い込むほどに手を握りしめる。
 どれほど遠くにあろうとも、彼女は運命の管理人。百八星を見届ける者。
「なんということ」
 新たな宿星が選ばれたのを彼女ははっきりと感じていた。本来であれば、喜ばしいこと。それが運命をねじ曲げるための奇蹟を呼ぶのだから。
 だが、彼女は繰り返すのだ。
 どこまでも苦い吐息とともに。
「なんということ」


<2005.7.23>


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