起承点結3 |
交わる視線の強さを忘れない。 刃の重さはどこまでも腕に残る。 勝ったという思いよりも、心を占めるのは寂寥感に近い。 絶対に、勝てないと。勝ってはいけないのだと無意識に刷り込まれていたひとの最後の言葉は、どこまでも優しかった。 それがどこまでも苦しくて。 *** ドレスの衣擦れが近づいてくるのを確かに感じたが、ルックは無視して仕事を続けた。この部屋の誰もがウィンディの足音にびくびくしているのを考えれば、まったくもって異質だった。 彼女もそれは承知している。一部で「生意気だ」という意見があるも、目くじらを立てるようなことではないと考えている。 ウィンディにしてみれば、いちいち仕事の手を休めてこちらの顔色をうかがってくる大多数の方が鬱陶しい。 果たして、ルックが仕事に集中している目の前で、女は立ち止まった。 存在を誇示するかのように、かつりと踵で床を蹴る。かつりと、いらだちの混じった合図。 ようよう彼が顔を上げれば、にこやかさのかけらも感じさせない蒼の瞳があった。 「ルック」 咎めるような響きのそれに「珍しい」とルックはこころで評した。それだけ、彼女の機嫌を損ねる出来事があったということだろう。 「なんでしょうか、ウィンディ様」 立ち上がって礼をとれば。 薔薇のくちびるから宣告が下される。 「テオ=マクドールが死んだわ」 我に返ったのは、おそらく与えられた部屋。おおらかな囚人に声をかけられてから。 「どうしたんだ?顔色が悪いぞ」 別に、といつもの調子で答えようとして、巧くいかないことに気がついた。それだけではなく、どうしようと繰り返し呟いている自分の思考にも。 たった一冬だけの関わりをもった自分がこれだけの衝撃を受けているのだ。数年にわたってテオに支えられてきたテッドがこの凶報に対してどういう態度をとるのか。 そろそろ長い付き合いだ。ルックがこんなふうになってしまっていては、テッドはどうしてかなんでもないフリをしようとする。 だから、本来であればルックは平然として事実だけを告げなければいけない。それから悠然と部屋を出て、ウィンディから新たに与えられている任務に赴かなければならない。 そうすれば、独りになって彼は思う様に嘆くことができるから。 頭では理解しているのに、行動に移せない。好意を持った存在の死を悲しむのは人間として自然な感情だけれど。 それを実行してしまうには、今の関係は適していない。 言い捨てるように事実だけ残して、転移してしまおうか。 後ろ向きに思い立ったとき、テッドが静かに声を落とした。 「テオ様が亡くなったんだろう?」 穏やかな彼の台詞に、ルックは勢いよく顔をあげた。 「ああ、そんな酷い顔するなって」 「……どんな顔してる?」 「泣きそうなのに、泣けない顔」 「当たり前じゃないか」 ぽすりとルックは寝台にうつぶせに倒れ込んだ。手探りで枕をたぐり寄せて、しっかりと顔をうずめる。 きしり堅いクッションが傍らにテッドの体重を受け止めた。風の気配で、彼が同じ寝台の端に腰掛けたのがわかる。 だが、手を出してきたりはしない。ルックに視線を向けたりもしない。 静かに凪いで、正面を向いて目を閉じているだけだ。 「わかってたことなんだぜ?」 「将軍が死ぬことは?」 「そう、なにせソウルイーターだから」 親しい者の生命を喰らう呪いの紋章。テオはリンにとって間違いなく唯一の肉親であり、かけがえのない存在だった。 テッドだって紋章を継承したときに初めて喰らったのは祖父の魂だった。孫を逃がすために囮となった祖父。今では輪郭すらもおぼろにしか描けないけれど。唯一の肉親。 「だからお前が気にすることは」 ないんだ、と続けようとして止めた。ルックがいま悲しんでいるのは、リンとテオが刃を交えたことではない。純粋に将軍の死を。この赤月帝国で深く関わった男の死を悼んでいるのだ。 だったら、こころの底から泣かせてやったほうがいい。 しばらく沈黙が横たわった。ふたりとも動かなかった。 泣けばいいとテッドは思ったけれど、ルックはそうすることもしなかった。出来ないのかもしれない。 テオ将軍がどのような心情で戦場に立ったかは予想しかできない。 だが、後悔と屈辱で散ったのではなく。 信念と誇りを持って命をかけたのだと知っているから。 無闇に泣きはらすのは、彼の死に対して失礼だと考えているのかもしれない。 (別にいいのに) 律儀に自分に抗わなくても。 「ねえ」 つらつら考えていると、いつのまにかルックが枕から顔を上げていた。けれども、頭は真正面の壁に向けられていた。瞳は潤むどころか、乾ききっていた。 「ソウルイーターは……ひとの運命に干渉できるの?」 「いや」 一般的にはそう言われている。呪いの紋章と綽名される所以だ。 もっとも三百年を紋章とともに過ごしたテッドには否定できる。いかに真の紋章でとはいえ、直接的に継承者と親しい人間を選択して殺すなどという真似はできない。 できるのであれば、テッドに好意を抱いた人間はことごとく死んでしまわなければならず、そんなことになったらウィンディの追跡から逃れてテッドは今まで生きていなかっただろう。 「親しい人間が近くで死ねば、その魂を喰らうけど。紋章がテオ様を殺したってことはねえよ」 「じゃあ、将軍は自分の意志で、息子と戦って勝負をつけたって考えていいんだよね」 そうあって欲しい。ルックの確認はそう告げていた。 「そうでなきゃ遣りきれないだろ。……まあ、今回は宿星が関わってるから、テオ様が選ばれなかったってことかもしれない」 かつて見えたレックナートの容貌を思い出す。テオが宿星に選ばれていれば、彼は死ななかった可能性がある。 「むこうでも聞いたんだけど、宿星って何」 今度こそ、テッドの顔を捕らえてルックが尋ねる。からだをむくりと起こしていた。瞳は真剣だった。 むこう、というのはハルモニアのことだろう。聞いたというのはヒクサクからか。 「歴史の節目に現れ、歴史を変えていく人間の集団のこと?」 「なんで疑問系なのさ」 「だって俺だって詳しいことは知らないし。参加してたことはあるけど」 およそ百五十年前の海原を思い出す。 参戦というよりは、なかば強引につきあわされていたのだけれども。独りでいれば、誰も傷つけなくてすむと頑なに思っていた時代。 「あんた、宿星だったの?」 「おー、いちおう天間星の位をもらってました」 おどけた調子で教えたが、反応はなかった。 視線を落として、シーツのしわを見つめている。 ややあって考えがまとまったようだ。 「あんたのさっきの言葉だと、宿星が味方についた方は勝つってこと?」 歴史を変える。それは勝者のみが可能とすることだ。敗者に歴史を語ることは許されていない。 「そこまで断言できるかは知らねえよ。たしかに、こっちは全力でぶつかって勝ったけど、それだって必死んなって頑張ってだし」 宿星、とか必然とか。そんないい加減であまい言葉を意識したことはなかった。そのときそのときを精一杯生き抜いただけだ。 「だからテオ様が死んだのも、リンが生き残ったのも別にお星様のせいってわけじゃねえぞ」 ルックが何にこだわっているのかがわかる気がして、先回りする。 「あいつらがあいつらの信念で生きる道を選んで、その結果がこうなっただけ。覚えとけよ、後輩」 茶化すように、最後にデコピン。額をはじかれて、ルックの瞳の色が濃くなる。 「なにするんだよ!」 「人間のこころがお星様に全部決められてたまるかってことを覚えとけってこと。先輩からのとっておきのアドバイスだ」 「だからって最後のは余計だろう」 先ほどまでの様子とは打って変わっての勢いにテッドは内心で微笑んだ。よし、浮上作戦成功。 「こうしときゃあ、デコピンされるたびに思い出すだろ?」 「思い出すも何も一生忘れてやんないよこんな子供扱い!」 一息に言い切ったルックに。 テッドは今度こそ。にやりとくちの端を歪めた。 そう、言葉通りに一生覚えていてほしい。 そしていつか遥か未来に親友に会うことがあったならば。 感傷的な思考を吹き飛ばすようにテッドは天を仰ぐ。 「そういや、今回の天間星は誰なんだろうなー」 刻み込んだ想いを彼に伝えてくれないか。 音にすることはなかったけれど、これがルックに対する最初で最後の『一生のお願い』かもしれなかった。 *** 月がトラン湖に沈んだ。 どうにも眠れずに、リンはため息をこぼす。部屋に独りきりでいるにも関わらず、誰かの耳を意識したそれに少しだけ嫌になった。 軍の再編をはじめ、昼間は多岐にわたる実務に追われている。今日だってどれほどの書類に署名をしたことか。会議では散々にマッシュと討論を重ねて、頭脳労働も限界だ。 なのに、いっこうに眠れない。 寝台で寝返りをうつ。 眠らなければと思うごとに、そこから遠ざかっていく。 原因などわかっている。だが、どうすることもできない。 いつも思考の螺旋に陥って出口を見つけられないまま朝を迎えてしまう。実際の睡眠時間は片手の指で足りてしまうのが実情だった。 眠れたところで、深紅を繰り返すだけ。何度も。いやになるくらいのスローモーション。望まぬままに、その場面の種類が増えた。 もう一度寝返り。 そして再びため息。 このままではどうしようもない。あきらめてリンは部屋履きに足を突っ込んだ。着替えることはせずに上に一枚羽織り、寝台の横に立てかけてあった棍を手にした。 瞬間、ぴりりと右手に電流が走る錯覚。それを無視して、扉へと向かう。 部屋の扉を守っていた兵士には「用を足しに」とだけ言って廊下を歩き出す。身の安全を守るために夜間の行動は慎むようにマッシュから言われていた。 道理は通っている。 けれど。 ここは解放軍の本拠地だ。それも湖の真ん中である。侵入者を簡単に許すはずがないし、あったとしてもぞろぞろと大多数が現れる可能性は低い。ならば、リン一人で片付けることが出来る。 都にいた時分だって、暗殺者など日常だったのだから。 息をひそめてリンは歩く。 長い廊下も階段も、かがり火が焚かれていて不自由はしない。もっとも、そのせいで闇がいっそう深くなることにだけは注意して。 黙々と歩き続け、リンは風を感じる。 視界が開ける。 頬を撫でるのはトラン湖を巡る風。 夜を照らす光がない分、星が輝いているのがはっきりとわかる。 棍を回転させると、後ろ手に腰に当てて支える。その体勢で、階段部分を囲む壁によりかかった。 天を仰ぐ。 ……宿星。 それがどういう意味を持つかなど、自分には関係ない。――関係ない、はずだったのに。 この両手で改めて命を断って思う。 本当に、そう言い切れるのか。解放軍に集う人間に、優劣も貴賎もないと信じていても、実際の問題として石版に名前が刻まれるのは、軍のなかで一線を任せられる人材ばかりなのだ。 レックナートは宿星を集めろと言った。 ササライはそれで「奇蹟」が起こると言った。 それは一体なんなのか。 集めた仲間のちからで帝国を正そうとしているのか。集めた宿星の奇蹟で為そうとしているのか。その場合の奇蹟とはもしや解放軍の勝利なのか。 だとすれば、信頼できる仲間をいくら集めたとしても、宿星が全員味方になっていなければ、全ては無駄になるのか。 つきつめて考えて、いつも空転する。 ああ、こんなときに親友がいたらどういうのだろうか。 記憶に基づいた空想で、友人が言葉を紡ぐ。 まずは数秒間の沈黙から始まって。 やや強くなった風を受けながら想像。 そしてきっと。 脳裏に描きかけ、はっとリンはそれを中断する。 風がおかしい。ゆるやかに渦巻く空気に警戒しようとした矢先。 背後の屋根のうえ、どさり不自然な音が響いた。 「……最悪」 何者かが立ち上がる気配。声に聞き覚えがあった。今まで空しい想像を張り巡らせていた対象のひとり。 彼がこんな夜中に屋上に転移してくるなんて珍しい。 軍主が戻ってこないと兵が騒いで、紋章の気配を追ってきたのだろうか。だとすれば、いちおう謝っておかなければならない。 思って、リンは壁から数歩離れた。屋根の上の人物の顔が合わせられるように。 だが。 改めて姿を認めて、声をかけようとして。呼びかける名を喉の奥に押し込めた。 彼が呟くのが聞こえたから。 「まったく、いくら初めて来るところだとはいえ」 苛立たしげに吐かれた文句。 聞くや否や、リンの頭脳が判断を下す。警戒と行動は同時だった。 風を斬る勢いで棍を構えて、鋭く一言。 「何者だ?」 <2005.7.19>
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