奏幻想滸伝
          暗中模策1


 闇の王の影のなか、策を模すのは彼女と彼と。
 騙し、騙され、本音と建前。
 勝者の存在を誰が知る。




 今日は寵妃に大切な客人が来ているらしい。
 人伝にそう聞き、ルックは自室に戻った。報告義務も大切だが、彼女の機嫌を損ねる危険をおかしてまで遂行する必要はない。
 いつものように適度に情報を握りつぶした代物でもあるし、急ぐ必要など微塵も感じなかった。
 城にあるいくつかの尖塔、そのひとつの螺旋階段をのぼりながら、辿り着いた先にある与えられた自室に辿り着く。
 途中、誰とも擦れ違わなかった。その事実に彼は息を落とすしかない。
 ありえないほどの杜撰な警備体制。
 彼がこの城に潜入した頃にはこんな状態ではなかった。城の要所要所には歩哨が立ち、不審者に目を光らせていたものだ。それが現在はどういうことか。
 帝国五将軍のうち、実に半数が皇帝のもとから去った。その結果だ。残る将軍は水軍のソニア=シューレンと都市同盟との国境に軍を置くカシム=ハジル。 距離的に、軍の性質的に宮城を守るには決め手に欠く人材だ。
そんな状態でも城の内部からの造反者が出ないのは、ひとえにウィンディの存在。
 皇帝を守護する美しき魔女。
 彼女に異を唱えることができる存在は宮廷に存在しない。
 また、稀なる何人かは解放軍へと去り、あるいは姿を消してしまった。後者にいたっては魔女の毒牙にかかったという噂。
 ますます彼女に逆らうことのできる者がいなくなるという螺旋に陥っている。
 結局。
 残っているのは帝国に恩義あるもの、目先の欲にくらんだもの、状況を判断できていないもの。そしてルックのようにまったく別の目的があるもの。
 すこしでも目端の利く者であれば、ウィンディは媚びるに値する存在ではなくなっている。
 なのに、ウィンディをわざわざ訪ねてきた客人とは何者か。
 探ることなど雑作もないが、頭のどこかで危険だという囁きがある。自分の勘か、自分の中で息づく紋章の意志かはわからないが、こういうときは従っておいた方がいい。
 目の前の扉を開ける。中に人がいることは気配で分かっていたが、ノックなどしなかった。
「早かったな」
「客なんだって」
 誰に、とは言わなくてもわかる。
「へえ。今更ねえ」
 テッドは音を立てて手にしていた本を閉じた。
「心当たりは?」
 ルックの言葉に彼は笑う。
「いい加減、長い付き合いだからな。……ある」
「誰?」
「まあ、急ぐなって。そろそろ現れるだろ。両方とも真の紋章を持ってるはずだから、おまえだったら感じとれるだろうし」
 内容に、ルックはおろしかけた腰を再び上げた。テッドの台詞から考えるに、ウィンディに協力する真の紋章の継承者が二人いることになる。
 真っ先に思い浮かんだのは竜の紋章だった。竜洞騎士団と赤月帝国は同盟関係にある。
 だが、それならばウィンディにではなくバルバロッサの客人であるはずだ。それとも、実際の権力の場所をして彼女に連絡を申し込んだのだろうか。
「ほら」
 ルックの思考をテッドが割る。
 ほぼ同時。
 ウィンディの持つ紋章が働くのを察する。
 <門>が開かれたのだ。
 その感触はすぐに消えた。
 閉じると。城のなかとおぼしき座標に、新たな気配がある。近い、強い、紋章の気配。
 共鳴する、溢れるちからをとっさにルックは抑え込む。服のうえから心臓をつかむ。 自らの真の紋章が、身体のどこに宿っているかは判然としないが、彼自身はそこが一番近いと考えていた。
「……これが」
 苦痛の表情を抑えながら、テッドの視線を捕らえる。
「無理するなよ。この距離で、真の紋章が他に四つもあって抑えろっていうのが土台無理。その証拠に、ネクロードもユーバーも抑えてない、というか抑える気なんて皆無?」
 紋章を外したテッドにも簡単に理解できる力の影。間違いなく、三百年前に彼が住んでいたソウルイーターの村を襲った異形たちだ。
 脳裏に赤い記憶がよみがえる。村を喰らう炎。魔女の高笑い。二人の男の手が振るわれるたび、どろりとした鉄臭い液体が人間から飛び散った。
 過去に引きずられそうになり、頭を振った。
「ネクロードって、月の御方が探してる?」
 うっすらと汗を滲ませた額で、ルックが確認する。そういえば、彼もシエラとは親交があったのだとテッドは思い出した。
「ああ。よくもまあ、あんな変態吸血鬼があのシエラから真の月を奪えたもんだ」
 そのあたりの事情を聞いたことはないが、シエラが相当弱っていたことには違いない。 そうでなければ、真の紋章の継承者から承諾もなしに紋章を奪い取るなどという真似はできないだろう。
「……変態?」
「うん、まあ。その辺は省くけど」
 曖昧に濁せば、それ以上の追求はない。
「それにしても奴らを呼び出したってことは、ウィンディも動くってことか」
 ウィンディはとうとう操る手駒すらも欠く状況になったのだ。それでもテオが戦死してからの数ヶ月間は問題がなかった。今のタイミングで彼らを召喚したということは。
 彼女が何らかの行動を起こすということ。
 やがて、ぽつりと二人の声が重なる。
 竜洞。
 綺麗にはもったそれに思わず顔を見合わせる。
「やっぱりお前もそう思う?」
「当然だろ。あんたこそ、よく思いついたね。情報はないのに」
「俺の情報源はお城の皆さま。情報部員さまの由緒正しい代物ではございませんが、うわさ話の信憑性はなめちゃあいけませんぜ?」
 気取って語るテッドの得意な様子に、ルックは逆襲をかける。
「それ、僕が流した情報」
 このまま特に動かなかったとしても、赤月帝国が滅びるのを止めることはできない。しかし、それを黙って見ている義理もない。
 ルックだってさっさと終わらせてしまいたい。解放軍の邪魔をする気もない。むしろ、リン=マクドールにはさっさとグレッグミンスターまで攻め上ってきて欲しいくらいだ。
 そう考えたときに思いついたのが二つ。ひとつは解放軍の重要な情報を帝国軍へと流さないこと。これは解放軍の密偵との連絡係になってから可能となった。
 もうひとつは、小さな情報を漏洩すること。それぞれが些細な情報であっても、繋ぎ合わせることで全体像が浮かび上がってくる。 見る人間が見れば帝国軍の状況を予測できる、必要最低限の情報をルックはそれとなく散らしていた。
 さざ波のように広がっていく噂は、人のこころを惑わせる。特に、戦時下の不安な状況が続くときには、いかに人心を掌握するかで為政者の資質がわかる。 ウィンディの目的が赤月帝国を支配することであれば、彼女の注意もそこへ向いただろう。彼女は決して無能ではない。
 が、彼女の目的はあくまでも『ハルモニアを倒すこと』である。赤月帝国はそのための武器にすぎない。 もし帝国を使うことに失敗したならば、躊躇いなく他の国を用いて同じことを繰り返すだけだ。
 それゆえに、一見して無害な、根拠のない噂は軽視される。
 今まで、情報漏洩に関する効果については確認したことはなかった。 しかし、時に城内を出歩いているとはいえ軟禁状態のテッドの耳に届いているとなれば、かなりの成果を得ているとしていい。
「あー、情報源おまえなんだ」
 考えてもいなかった、という表情。テッドは頭をかく。
「文句ある?」
「いいや。ただ、ルックのイメージから想像つかなかっただけ」
 おまえ、そういうのって苦手そう。
 テッドの反応に、ルックは息を吐いた。どうしてそういう風に見えるのだろうか。
「あのね、僕はこれでもハルモニアの神殿で生活してたんだよ。それなりの方法くらい知ってる」
 神殿において情報戦こそが命。存在が存在なだけに、敵意に囲まれて暮らしていたルックにとってはよく知る戦い方だ。
「まあ、いい。話を戻すよ」
「そうだな」
 促されてテッドは机の脇に丸めてあった地図を取り出した。精密さはそれほどでもないが、大まかな地形は分かる。
 机に広げられた地図の上、ルックは1ポッチ硬貨を滑らせた。ちょうど、それは竜洞の場所におさまる。
「竜洞はそこ」
 指でグレッグミンスターを抑え、今度は5ポッチ硬貨を解放軍の場所に置く。
「解放軍がここ」
「そして解放軍の支配地域がこのあたり。けっこう広がったな。リンのやつ、やるじゃん」
 友人への賞賛を混ぜて、テッドが赤月帝国の南部をなぞった。
「解放軍にとって、竜洞騎士団の戦力は魅力だろうね。絶対に交渉に行く」
「そりゃそうだろ。赤月帝国と同盟関係にあるとはいえ、このごろはうまくいってない。けど、ウィンディは、そうさせるわけにはいかない」
「とすると解放軍の目をどこかに引きつけないといけない」
 ルックが10ポッチ硬貨をはじいた。過たず、それはロリマーで停止した。
「そしてロリマー」
 透明な声が途切れる。
「テオ将軍の領地だ。となると、無条件で解放軍に従う可能性が高い。これも帝国にとっては問題」
 このふたつを同時に解決する方法がある。
 ロリマーで問題を起こすのだ。解放軍軍主が自ら取り組まねばならなくらいの事件を。
 マクドール家の所領である以上、リンはロリマーを優先しなければならない状況になる。 後回しにしても解放軍軍主としては問題はないかもしれないが、将軍家の後継として育てられた彼にはできないだろう。 その間にウィンディは竜洞に赴き、彼女の目的を果たせばいいのだ。
「となると、ルックの次の仕事はロリマーか竜洞か?」
「いや、たぶん、それはないと思う」
 解放軍の動きをつかむのが一番優先すべき事項だ。ウィンディがルックをその仕事から外すとは思えない。完全に別行動になるはず。
「だったら、俺への監視も緩んだりする?」
「さあね?僕は責任もてないよ」
 本格的な脱走を企てそうなテッドに釘を刺す。今の状態はテッドが模範囚であるからこそ。ウィンディの逆鱗に触れれば、どうなるか。 そもそも、ブラックルーンを右手に宿す以上、彼女から完全に逃れることなどできはしない。
 言葉に、テッドは肩をすくめた。
「仕方ない。じゃ、代わりに図書館から本借りてきてくれ」
 ペンを取ると、側にあった紙にさらさらと書名を記す。渡されたメモにルックはざっと目を通した。闇の紋章、ソウルイーター、真の紋章に関わる文献だ。
 相当古いものもある。
「全部揃うかな……」
 ハルモニアにある一つの神殿であれば考えるまでもないが、ここは赤月帝国。そこまで紋章学も盛んではない。
「そこをなんとか。一生のお願いだからさ」
 両手で拝んでくるテッドに応えてルックはメモをポケットにねじ込んだ。


<2005.8.26>


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