奏幻想滸伝
          起承点結1


 運命とは、どこからどこまでを示すのだろう。
 ある事件に連なる一連の事象の流れをすべて。
 ある事件を決定づける、たったひとつの出来事。
 自分にはどうでもいいけれど。
 ねえ、運命の管理者サマ。
 貴女にとってはどちらの定義になっている?


***


 三月ともなれば、グレッグミンスターの寒さもほどけていく。霜が降りることは稀にあるが、一晩外に放置しておいたバケツに氷が張るようなことはない。
 それでも早朝の冷えはまだ辛いものがある。
 出立の朝、感慨深げに屋敷を見上げたテオが吐く息は白く、認められるほどに中空へととどまった。
 在りし日であれば、この時間であれば下男や下女が起き出して。あるいはグレミオが朝食の支度を張り切っている時間だ。
 けれども、温かかったその屋敷は、今ではがらんどうの箱でしかない。
 どこか名残惜しむように、がしりと立つ男の背中をふいに風が通り過ぎた。
 唐突に現れた気配に動じることもなく、振り向きもせずに。
 テオは笑みを返す。
「挨拶に来たのか?これはめずらしいこともあるものだ」
「自分でも思ってるよ」
 答える声は不機嫌にも。それは真実その心情なのではなく、いつもこのような調子だと知っている。わかる程度には親交を深めた相手だ。
 いかに幼い外見を持つ者であろうとも。
 余裕のある動作で振り向けば、予想と違わずに腕組みをして立つ少年魔術師の姿があった。
「寒くはないのか?」
 未だに底冷えのする季節だ。外套の一枚も羽織らずに背筋を伸ばしたルックは鼻を鳴らした。
「僕がどこで育ったと思ってるの」
 ハルモニアと比べれば、まるで問題ない。言外に言い切って、首を傾げる。
「あなたがそういう風に聞くってことは、兵たちは大変なんだろうね」
 日々戦のために鍛え上げられた将軍と、徴兵によって集められた兵士。はっきりいって無理矢理に招集された兵卒には過酷な状況だ。 いくら常勝将軍の軍に配属になったからといっても、現状では脱走者がどれだけ出てもおかしくないだろう。
「そうだ、だから私が普段通りに振る舞わねばならない」
 将の揺らぎは容易く下流まで伝染する。たとえ実の息子が相手であろうとも、態度を変えることなどできない。
「面倒だね」
「かまわん。どうせ自分で選んだ道だ」
 きっぱりと言い切る男。どこか眩しささえも感じる。露に濡れた芝の上を歩き、ルックは彼の正面へと回る。
 たくましい男の顔をじっと見上げた。
 言葉はない。ただ、視線が交わるだけ。
 ややあって、こくりとルックが首を傾げる。どうしようかと迷っている風でもあり、ちょっとした悪戯を思いついた表情でもあった。
 つられたようにテオが言葉を発しようとしたときだった。
 とん・と前触れなく。ふわりと両手が伸ばされると同時、男の首を抱きしめる。 まるで親に甘えるような様子にテオは驚いたが、一冬でそれなりの時間を過ごしたためにルックの唐突な行動に突き放すわけもなく、ただなされるがままにまかせた。
「あなたに」
 声変わりを経ない、幼い声が静かにこぼれる。
「世界の加護がありますように」
 言うだけ言って、体温はすぐに離れた。
「これは光栄だ」
「あまり意味はないかもしれないけどね」
「いや、かなりのご利益はありそうだ」
「まさか」
 否定して、年齢に似合わない笑みをルックは浮かべた。
「僕はこの世界にとっての災厄だからね。神様には憎まれている自覚はあるし。……ただ、神頼みしない将軍にはこんな僕からの祝福でもいいかなと思っただけ」
 戦場を駆ける男は神も運命も信じないだろう。だから、まだ許されていない神官の真似事をしてみたくなった。それだけだ。
 言葉にテオは何も返さずに。
 天を仰いで、まったく別のことを呟いた。
「おまえのような者があれの側にいてくれればいいのだがな」
「なに?敵の心配?」
 テオのさした人物が彼の息子であることは明らかだったが、それを率直に告げるのは躊躇われ、結果、さらにひどい調子になってしまう。 子供っぽい単語しか出てこない自分に、ルックはわずか自己嫌悪を感じる。どうして、もっとうまく振る舞えないのだろう。
 けれども、さして気にしたふうもなくテオが笑った。将軍の顔ではなく、隠しきれない父親の。
「あれも神頼みやら運命だのが嫌いだからな。そんなものに頼るくらいなら、自分の手足を使った方がはやいという」
 ……挫折したことのない、貴族のお坊ちゃん。脳裏に浮かんだ印象と表現は、さすがに父親の前では失礼かと喉で留めた。 一度、遠目に見ただけの相手に使っていい言葉かどうかは判然としなかった。
「それがどう関係するっていうのさ」
「さあ」
「ふざけてるの?」
「いや、まじめだ」
 長く生きていれば、それなりの勘というものが働くようになる。それが最も慣れ親しんだ相手に関係すればなおさらだ。 あえて根拠にあげるならば、この少年がテッドと親しい間柄にあるということだろう。類は友を呼ぶという諺もある。
 テオから見た息子は、あまりにも「完璧」だった。
 貴族は、貴族であるというだけで様々な責が生じる。いわゆる「高貴なるものの義務」だ。 それを忘れて特権のみを振りかざすような輩にならぬように教育するのが周囲の役目でもあり、テオも幼少のころはひどく厳しくしつけられた。
 しかし、リン=マクドールにはそれがなかった。
 屋敷で働く男女にも優しく均等に接した。市街に出てもとりすますこともなく、一般市民と気さくに語り合った。勉学も武術も、学ぶことをいやがったことなど一度もない。
 誰もがそんなリンを見て、テオに賞賛の目をむけた。
 まったく、よくできた息子さんですね。
 これでマクドール家も、ひいては帝国も安心です。
 だが、テオはそれを素直には喜べなかった。
 子供らしくない、という段階ではなく。
 異常だと思ったからだ。
 行動を観察していて、まるで周囲が望むことを先回りしているようだと感じた。ときおり目を輝かせることがあっても、それが真実こころからのものだとはどうしても見えなかった。
 やがてテッドを迎えて、それを実感したのだ。破れた仮面の奥から覗いたのは、皇帝を敬愛する貴族ではなく、己と己の選んだ者のみを信じる覇者の精神。
 リンは確かにこの国を愛している。だが、それは皇帝に対しては同様ではなかったのだ。父親と異なり。
 最初に皇帝と謁見した日、テオは確実にそれを見抜いた。理解してしまった。
 息子の忠誠はバルバロッサにではなく。
 この国に、この土地にだけあるのだと。
 思い出をたぐりながら、テオは現実の目の前の少年を見る。
 ルックにもまた、同じものが見え隠れしている。
 彼は、自分の認めたものにしか膝を折らないだろう。否、認めていたとしても跪くか。そのあたりの演技ができるかどうかは決定的に息子とは違う。
 しかし、これだけは確実だ。
 彼らは皇帝に、神官長に、神に祈るくらいならば、そのヒマを惜しんで自分で動く。 殿上人が助けてくれるはずだと頼ったりすがったり、ひいてはそのために指示を待つなんてことはしない。
 ただ、ひとりきりだとバランスがとれないから、隣や背後を求めるのだ。例えばテッドのような。
 喉の奥で笑って、ひとつ尋ねる。
「おまえは、任務中に非常に重大な問題が起こったら、逐一、指示を仰ぐか?」
「まさか。同時進行で報告くらいはするし、何か言われたらそうするけど、ただ待っているだけなんて時間の無駄じゃないか」
「そういうことだ」
 そっけない返答は、きっと息子と一緒だろう。重大な局面を迎えるたびに王に注進する自分たち貴族とは根を異にしている。
 そう言いたかったのだが、ルックには通じなかった。からかわれたと思ったのか、顔を真っ赤にして叫んだ。
「将軍の言ってること、わけわかんないんだけど?!」
 あんたと言わなかっただけ上等だ。
「では、次に会うときまでに理解しておくといい」
 さらり告げて、テオは具足を鳴らして歩き出した。
 ふたりが出会うことはないだろう。
 邂逅が現実となるためには、テオの率いる鉄鋼騎馬隊を倒しソニアの水軍を沈めて、グレッグミンスターに責め上がるしかない。
 残念な気もした。
 テオはそれを実現させないように戦いに身を投じる。
 私情を挟むつもりなど毛頭もない。
 なぜならば、百戦百勝の将軍は。黄金皇帝の忠実なる僕であるのだから。



 解放軍本拠地、トラン城には張りつめた空気が漂っていた。
 一本の報告が原因である。
「テオ=マクドール率いる鉄鋼騎馬隊、進軍開始」
 ロッカクの生き残りであるカスミが持ってきた情報は、剛胆な解放軍幹部を緊張の渦に叩き込むのに十分だった。
 赤月帝国筆頭将軍。百戦百勝。帝国臣民として生きていたころには、こころの底から頼もしく誇らしく感じた名前も、今や恐怖の対象でしかない。
 もっとも、ここは会議室。集められたのも解放軍でそれぞれ一団を率いる猛者ばかりだ。逃げ出すような、逃げ出せるような人間はいない。
「早かったな、意外と」
 落ち着き払った台詞は、本来であれば一番慌てなくてはならない軍主のものだ。
 マッシュのまとめた報告資料をぱらぱらとめくり、カスミを退席させた直後のことだった。
「次はてっきりソニアがくると思ったのに。今の状態で湖上を封鎖されたらこちらもけっこう痛いのに、それをやってこないってことは帝国にろくな人材がいないってことかな」
 正直、解放軍は陸とのつながりを断たれてしまえば、それなりに問題が発生するのだ。 必要な物資のほとんどをカクの町から運んでいる実情ゆえに、篭城作戦に出られると、けっこうもろかったりする。
「どうしますか?」
「鉄鋼騎馬隊は足があまり早くない。ロッカクの人材は半分が騎馬隊へ、残り半分をソニアに、残りをロリマーに振り分けてくれ。 あとは城の備蓄を最大限にまで。これはレパントにまかせる」
 一息に言ってのけて、傍らのマッシュを見上げる。
 何か問題は?という視線だ。
「ソニア将軍の方を減らして、竜洞にも割いてください。彼らが今回の戦に関して沈黙を守っているとはいえ、いつ盟約を理由に出てくるかわかりませんから」
「そうだな。では、そのように。あ、ビクトール、テンプルトンを呼んできてくれないかな」
 ふと思いついたようにリンが頼む。
「ちょっと待ってな」
 男が部屋を出たのを見て、リンはいちおう解散を示した。ただし、ササライとマッシュは残るようにと告げた。
 しばらくして、地図職人の少年が現れる。手には巻き紙を持っていた。
「これが必要なんですよね?」
 リンがくちを開く前にテンプルトンはテーブルに地図を広げた。トラン湖を中心にした地図だ。ちょうど、次の戦場と予測されるあたりが詳細に記されている。
「そうそう、準備がいいね。さて、ふたりとも」
 軍主の指が、一点を示した。
「次の戦場はこのあたりだ。……このあたりに持っていきたい」
 ちょうどセイカとカクの中間あたりを示す。
 ササライが呟く。
「セイカを捨てるということですか?」
 かの町はレパントの屋敷があるということで、はやくから解放軍の拠点のひとつとして数えられていた。
「捨てるんじゃない。セイカにはセイカの役割があるからね」
 軍主は企んだ声音で。にやりとくちびるの端を持ち上げた。内容については語ろうとはしなかったが。
「この辺りで地盤が最も脆いのはどこだい?テンプルトン」
「たぶん、この辺りです」
 少年の差した地点を見つめて、今度はササライへ。
「どの程度ならば、土の紋章のちからを作用させることができる?」
「地形によります。……この程度であれば、問題はないと思います」
 真の紋章の使用について、師であるレックナートから禁じられているために通常の紋章での効果範囲を考えながら彼は答えた。 元が継承者だけあって、単なる土の紋章であってもそこらにいる魔術師よりも術の範囲も威力も桁違いなはずだ。
「うん、じゃあ頼もうかな」
 満足して頷くと、リンは指示を飛ばす。いわく、この地点に働きかけて解放軍側の土地を固く、帝国軍側の土地を柔らかくしておけと。
「鉄鋼騎馬隊、というだけあって、馬は鉄の鎧で覆われている。弓や剣には強いけれどね、その分だけ重量が半端ではない。こうしておけば退却するときの時間稼ぎにはなるし」
 あっさり告げられたのは、負けを前提とした作戦。なんとも言えない表情を浮かべた三人に対して手を振って答えた。
「実は、俺は父上の戦いぶりってやつを見たことがないんだ。一発で勝とうとするよりは建設的だろう」
 言うだけ言うと、軍主は席を立ってしまう。最後に扉を閉める間際、一度だけ肩越しに振り向いて。
「諸君らに期待している」
 本心からそう思っている台詞を残して、いなくなってしまった。
 しばらく沈黙を続けて、マッシュがため息をついた。
「まったく、出来過ぎていますね」
「敵前逃亡されるよりはマシじゃないの?」
 テンプルトンが言い切った。言葉の冷たさとは裏腹に、痛みをこらえるように眉をしかめていた。
 実の父親と「殺し合い」を始めるにもかかわらず、怯えや怯みがない。
 ササライは出て行った軍主の後を追うか追うまいか悩んで、とどまることを選んだ。
 追いかけたところで何を言えばいいのかわからない。ササライには父親と呼べる存在はいないから。
 強いていうならば、ヒクサクだろうか。だが、いくら国を出奔したとはいえ、ハルモニアの天敵のもとへ身を寄せているとはいえ、彼に敵対するという選択肢はササライにはない。それだったら、双方が融和できるような策を振り絞るだろう。
 そう考えてしまう自分にはリンにかける言葉があるとは想像できなかった。
 それに。
 ……自分は、彼の宿星ではない。
 だったらせめて、願うとおりにするだけだ。
 彼が信じる道を守るために。


<2005.7.9>


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