奏幻想滸伝
          異花接木4
 グレッグミンスターに戻ってウィンディに報告する。
 ルックの淡々とした言葉はいつものことで、彼女は満足して退出を許した。 少年が出て行った後、彼女は椅子から立ち上がる。いちおうの対策として、竜洞を視察しておこうと考えたのだ。



 徐々に重くなる頭痛に、ルックはため息をついた。瞬きの魔法の負担はそれほどでもなかったはずだ。あの程度の移動ならば、魔力的にも体力的にも問題はない。
 だとすれば、精神的なものだろう。
 頭痛をやり過ごそうと目をつぶれば、先ほどのミルイヒの姿がよみがえってくる。ブラックルーンによって歪められた姿だとわかっていても、気分のいいものではない。
 いや、それだけではないと理解しているからこその不快感だ。
 歪められた、という表現は正しくない。ブラックルーンは、こころの底に淀んだ願い。ウィンディの利益に結びつくものをより強く体現しているのだ。 クワンダ=ロスマンは皇帝への強い忠誠心が現れた。ミルイヒでは、それが亡き王妃への恋慕だというだけだ。
 なぜ、目の前にいる人間と確実にいない人間の区別がつかないのだろう。
 肖像画で見る限り、クラウディアとウィンディはまったくの別人だ。なのに、どうして。
 痛む頭を押さえようとして、不意に喉の渇きに気がつく。
 それだけではなく。
 嫌な汗をかいている自分に気がつく。目の前がふうっと暗くなる。
(なに、……これ)
 そこまできて、やっと原因に思い当たった。
 ミルイヒの庭に咲き誇っていた、バラ。充満していた毒の霞。
(もしかして)
 吸い込んだ?
 可能性は、皆無ではない。毒は即効性だと教えられたから気にしていなかったが、それは普通の人間に対してだ。
 ハルモニアで神官将の候補生として積んだ訓練のなかには、様々な薬物や毒物に耐性をつけるものもあった。
 そのせいで反応が遅れただけだったとしたら。
 理性は、ウィンディのところへ戻って解毒薬をもらえと告げる。しかし、彼女は城内にいない。紋章の気配から明白だった。 そして、彼女以外に解毒薬の在処を知る人間はいないのだ。
 突き当たった事実に。
 うすく冷たく笑って、ルックはそのまま足を進める。
 扉を開ければ、テッドがルックの本棚に本を戻していた。お帰りと言われた気がする。 けれども、少年の声もぐんにゃりと反響していた。
 手足の先が冷たい。このままではいけない。そう思うけれど。
 どうでもいいかと思う自分もいて。
 せいぜい、目の前の少年には弱みを見せたくはないと、常のごとくに皮肉に笑おうとした。
 その瞬間。
 景色が上から下へと流れ、同時に暗くなった。
 慌てたような声が届いた気もしたが、定かではなかった。



 部屋に戻ってきた少年の様子はおかしかった。
 どこか足取りもふらついていたし、顔色も悪かった。お帰りと声をかけても、ぼんやりとした視線が返ってきただけだった。
 ……異常だ。
 いつもならば。ルックの本棚をいじっていたのを目撃された時点で、厭味の応酬が始まっている。むしろ、それを楽しみにしていたというのに。
 それがない。
 疲れているのかとテッドは考えた。今、ルックが遂行している任務を具体的には知らないが、スカーレティシアに関わることなのだろうとの目星はついていた。
 加えて、ルックはハルモニアの間者でもある。なんでもないふりをしながらも、精神的につらいだろうことは容易に想像がつく。
(こいつ、意地っ張りだからなあ)
 さて、このこまっしゃくれをどう発散させてやろう。
 悪戯を考えるようなこころで、少年と向き直った。
 瞬間。
 少年が床に崩れた。
「おい!」
 反射でテッドは手にしていた本を放り投げた。ばさりという音が存外おおきく響いた。
 駆け寄って、揺すってみるが反応はない。
(過労ってことはないな)
 同じ部屋で暮らしているのだ。疲労が蓄積した結果がこれであるならば、いくらなんでも気がつく。
 だとすると、病気? 300年、行き当たった病の知識を片端からめぐらせる。
 違う。これは。
 毒物に対する中毒反応。
 だが、いったい誰が。ハルモニアの手の者だとばれたウィンディにか。否。あの女ならば、知ったその場でルックを断罪しているはずだ。
 あるいは、ウィンディをこころよく思わない一派の仕業か。
 考え、テッドはすぐに否定する。反ウィンディ派は、帝国五将軍のような良識派もいるが、それ以上に利権に固執するだけの保守派が多い。 こんな子供がウィンディの戦略で重要な位置を占めているなど、鼻で笑っておしまいだ。
 混乱する頭のなかに、最近耳にした情報が反響する。

 スカーレティシアで花将軍が反乱軍を見事に撃退。それにはウィンディ様が作った魔法のバラが関わっているらしい……。

 具体的になんであるのかは、テッドにはまったくわからない。
 しかし、ルックは午前中はこの城にいなかった。ウィンディの<門>の紋章でどこかに出かけていた。
 ミルイヒの居城である可能性は、高い。
 そこで、なんらかの原因で『魔法のバラ』とやらに影響を受けたのだとしたら。
 確かめなければ。
 テッドは軽いからだを抱き上げると、そのまま寝台に寝かせる。手早くブーツを脱がせ、呼吸が楽なようにと衣服を緩めてやる。
(……お)
 金の鎖が首を滑った。
 鎖に通されていたのは、指輪。台座にはエメラルドがひとつはめ込まれていた。その後ろには、見覚えのある紋章が彫られている。
 思わずしげしげと眺めるのは、そこにはハルモニアの国章だけでなく文字が彫られていたからだ。ルックの名前と、地位。 それから、古代シンダル文字の呪いの記号。なぞって、その意味を。
「戻るまで、絶対に待ってろよ!」
 一度だけ後ろを振り返り、部屋から飛び出した。


 どこまでも続く回廊。
 両手に書類を抱えて、静かに歩いていた。
 白と青を基調とした風景のなか、少年のまとっている明るい緑は異彩だった。
「……様!」
 呼ばれて、彼は振り返る。身につけていたサークレットの金が細い光をはじいだ。
「明日の午後の謁見ですが……」
「それが?」
「神官長猊下のご希望により、時間が変更になりました。午前の朝議が終了次第、だそうです」
 淡々とした初老の男の台詞に、少年は眉根を寄せる。
「それだと、枢機卿との会議とぶつかるんだけど」
 不満だと描いた顔に、男はにっこりと笑う。
「神官長猊下のご意向ですよ」
「……わかった」
 不承不承、頷いた少年に。
 男はすれ違い様に小さく言う。聞かせることを前提とした、密やかな言葉。
「枢機卿方はあなたに早く儚くなってほしいのですよ、ルック様」
 去っていく背中にルックは投げる。こちらもささやかに。
「知っているよ、そんなこと」
 自分は生きるべきではないのだから。


 風景が乱れて壊れる。



「エレン」
 家畜小屋のまえで、テッドは馬の世話をしていた女性を呼び止めた。
「テッドじゃない。どうしたの?」
 抱えていた飼い葉を足下に置き、彼女は少年の側に寄った。建物の陰に隠れるようにしているテッドをさらに隠すように立つ。
「どうしたの?」
 少年の声から、なにかを悟ったのだろう。低く尋ねる声は真剣だった。
「スカーレティシアの攻防戦について知ってることを教えてくれ。特に、ウィンディ様の『魔法のバラ』についてだ」
 エレンはテッドが城をうろついているときに出会った女性だ。明らかに貴族でもない子供が歩いていても、深くは追求してこない。 それは彼女の保身のためかもしれないが、テッドにとっては都合が良かった。軟禁されている部屋を抜け出して会いに行く話し相手のひとりだ。
 厨房や小間使いにも似たような関係の人間はいるが、あえてテッドは彼女を選んだ。
 厩舎で働く人々は、軍馬の世話も行っている。軍人はみな、馬に愛着が深い。彼らが愛馬を預けにくる際には、必ずといっていいほど戦の状況についてぽろりともらしていく。 ひとりひとりについては戦況をはっきりと表さなくとも、つなぎ合わせることで大きな流れが見えてくる。
 スカーレティシアの状況を知るには、彼女にあたるのが一番だった。
「ミルイヒ様の?なんだか信じられないことばっかり、みんな話しているけど」
「信じられなくてもいい。なあ、『魔法のバラ』ってなんだ?バラが紋章術でも使うのか?火でも吹くのか?」
「そういう発想がうかぶあんたのほうが信じられないわ」
「違うのか。……じゃあ、なんだ?」
「あたしが聞いた話だとねえ。解放軍が突撃してきたときに、ミルイヒ様のお城に咲いていた巨大なバラのアントワネットちゃんが花粉をまき散らしたんだって。 花粉を吸った相手の兵士がばったばったと倒れたんだけれど、不思議なことに帝国の兵士は全員無傷でぴんぴんしてたとか聞いたけど。 帰ってきたみんなは、正義は勝つ!とか、悪は必ず滅びるのだ!とか叫んでたわ」
「あ、アントワネットちゃん……」
「テッド、突っ込むところはそこなの?」
 あきれたようにエレンは腰に手を当てた。
「参考になったかしら。……急いでるんでしょう?」
 加えられた言葉に、テッドは首を縦に振った。指摘のとおりだ。
 簡単に礼を残して彼は走り出した。
 今の情報でだいたいの原因はつかめた。
 魔法のバラ。花粉。吸い込んで倒れた。解放軍の兵士だけ。
 ウィンディは毒をばらまいたのだ。風に乗って広がった毒を吸い込んだ人間だけが倒れた。 解放軍の兵士だけが死んだことを考えれば、帝国軍の兵士たちは事前に解毒剤を飲ませられていたのだろう。
 バラを作ったのがウィンディならば、必ず解毒剤を持っているはずだ。彼女はルックを重要な駒のひとつとして認識している。ならば、この事態を放っておくことはない。
 手袋の下、右手に刻まれたブラックルーンを意識する。やったことはなかったが、ウィンディが城内にいれば呼びかけることくらいはできるはずだ。
「くそっ」
 階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、テッドから悪態がこぼれる。
(あの女、肝心なこのときに城から出かけやがって)
 どうする。
 どうすればいい。
(決まってるだろ)
 こんな馬鹿なことが原因で。
(友人死なせるわけにはいかないだろ!)


 こころは既に決まっていた。



 誰かが来る。閉ざされた扉を越えて。空間を超えて。
 空気の流れから敏感に感じとったが、彼は自ら動こうとはまったく思わなかった。
 どうせ、いつもの研究員のひとりだろう。知らない気配が混じっているが、それだってきっと新たな人員だ。
 立ち上がっていようが座っていようが、今のように床に転がっていようが。彼らにとっては関係ない。抵抗すれば殴られて、無理矢理にでも実験室に連れていかれる。 たとえ無抵抗であっても、おもしろ半分に彼らは暴力をはたらいていくのだ。
 だから普段のとおりに、天井から滴る水の間隔を数えていた。
 ちょうど五十。
 少年が数えたところで、外に通じる唯一の扉から音がした。幾重にもかけられている鎖がうるさかった。
 ようやく静かになると、いつもは乱暴に放たれる扉がゆっくりと動いた。コントラストが、薄暗い室内に一条の道をつくる。
 どうもいつもと違う。
 少年は感じたが、動かなかった。
 研究員たちはやり方を変えたのかもしれないと思った。方法を変えることで、もっと効率的に望む結果を引き出すことができると判断したのかもしれない。
「こちらです」
 恐縮した声は、研究員の指導者のものだ。いつもは居丈高に命令を下している男の猫なで声は気持ち悪かった。
「しかし、本気ですか?こんな役立たずを」
「意見する気か?」
「い、いいえ!そんなつもりは毛頭も……!!」
 少年が知る男とは、滑稽なほどの落差だった。どうやらいつもと勝手が違うらしいと、ぼんやりと少年は思う。
 と、突然に顔を覗き込まれた。
 いつのまに。声の主が動く気配を、まったく感じとることはできなかった。
「ここを出るかい?」
 存外に若い顔だった。所長の慌てたような声が聞こえたが、気にならなかった。
 青年は覗き込んだ体勢のまま微笑んだ。
「私はおまえをここから出すことができる。でも、おまえが望まないのならば、私は決して動かない。どうする?」
「それは、さっきササライが消えたことと関係があるの?」
 青年の問いに少年は返した。
 意外そうに青年は目をすがめた。
「ササライを知っている?誰に教わった?」
「……別に」
 ごまかそうかと思ったが、視線の強さに負ける。
「風が、教えてくれたから」
「そうか」
 素直に答えると、彼はくちゃりと少年の頭をなでた。反射的に少年はからだを固くする。続く殴られる痛みを覚悟したが、それだけで手は去っていった。
 予想を裏切る反応に、少年は相手の顔を見上げる。
「ここへ」
 青年が背後に声をかけると、研究員とは違った装いの男女が室内に入り込んできた。彼らは手ぶらではなく、タオルや盥、はさみや石けんなどを持っている。
「それでは、指示した通りに。相応しい環境を用意しろ」
 男の命令に全員が深く頭を垂れた。
 清潔な毛布で包まれ。
 状況の変化についていけないながらも、少年は去る背中に声をかける。苦痛以外に、自分から話すのは久しぶりな気がした。もしかすると初めてかもしれなかった。
「あんた、誰?」
 無礼な!と所長が怒鳴ったが関係ない。知らなければいけないと思った。知っておく必要があると思った。ある意味、本能だった。
「私はヒクサク。この国で」
 男は振り返る。視線が結ばれる。同じ色。同じ強さ。年月の違う鏡。
「神をしている」



<門>の紋章の気配をたどる。
 真の紋章の気配は強い。隠す意図があるならば追跡は困難だが、ウィンディはそんなつもりはまったくない。 自然、彼女が城内でもよくいる場所に凝ったような魔力の偏りができあがっていた。
 特に強い魔力を感じるのはウィンディの自室と地下だ。彼女は表向きは宮廷魔術師として伺候しているのだから、専属の研究室を持っていると考えるのが自然だろう。
(悪役は好きだよな〜。塔のてっぺんとか、地下の宮殿とか)
 そういえばウィンディの異母妹は塔の最上階に陣取っていたが、彼女はどうなのだろう。
 運命とやらを論じて。高みの見物を決め込んでいる姿は、正義の味方にはどうやってもみえないと、150年ほど前にも思った。 もっとも、あの戦争に参加することで自分は殻を破ることができた。感謝はしている。
(でも、今回のこれは完全に私怨に見えるんだよなあ。あ、発見)
 ご丁寧に隠し扉になっていた壁の一部に、制御装置を見つける。どうやら、ウィンディの魔力に反応して開く仕組みだ。
 テッドは手袋を外すと、右手の甲を装置に押しつける。命綱としてウィンディから常に魔力の供給を受けている彼にとって、鍵は機能を果たさない。
 壁が左右にずれる。開ききるのももどかしく、隙間から飛び込んだ。さらに地下にのびる階段を、落ちるようにおりる。
 どこだ。いったいどこに置いてある?
 忙しく左右に首を振る。おそらくは瓶かなにかに入っているはずだ。机には本と書類、古代シンダル文字が書かれた紙が散らばっているだけ。
 引き出しか。
 ひらめくと、机にとりつく。乱暴に開けるが、出てくるのは筆記具や紋章理論を記した紙だけだ。
 違う、ここではない。
 だとすれば、部屋の壁一面に作りつけられた棚だ。
 この膨大なすべてを調べるというのか。
 間に合うのか。いや、間に合わせる。
 覚悟を決め、棚に手を伸ばそうとして。
 その動作がぎくりと止まった。
 気配がある。不法侵入者であるテッド以外の気配。強い魔力。
(真の紋章……!)
 うかつだった。そうだ、遥か昔、テッドが村を焼けだされたとき。彼女の側には真の紋章を持つ者がふたりいた。 どのような関係かは知らないが、利害が一致しているならば手を切るはずがない。
 今のテッドは真の紋章を持たない。武器も持っていない。対抗手段はない。
 でも逃げるわけにはいかないのだ、絶対に。
 口先三寸でもなんでも。目的を達成して逃げ切るのだ。
 静かに誓ったところに、声がかかる。
 落ち着いた、豊かに張りのある男の声だった。
「この部屋に何用だ?かつての同胞よ」
 部屋の片隅に、影のようにひっそりとたたずむ男。
「皇帝、バルバロッサ……」
 支配者にして従属者の名を。
 テッドは呆然と音にした。


<2005.3.10>


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