異花接木3 |
男が完全に視界から失せるまで、ウィンディはうっすらと笑みを浮かべていた。驚異的な精神力と表現するほかはなかった。 だが、彼女の忍耐もそこまでだった。 男の派手なマントが扉から消えるやいなや、勢いよく彼女の腕がひらめいた。 がしゃんと破壊音が連続する。机のうえに並べられた魔法用具一式を床に落としても、彼女は終わらない。ランプの支柱を蹴り倒した。まったく、普段の彼女らしくない。 そばにルックが控えていることすら忘れているようだ。 ひとしきり当たり散らし、満足したのだろう。 次の瞬間に振り返ったウィンディの顔は平生だった。 「……ごめんなさい」 「いえ、……僕にも覚えのある感情ですから」 自嘲の表情で、ルックは応える。そう、ウィンディの激情はルックにとっては最も近いものだ。 ウィンディも気にはなったようだった。けれども、彼女は進んで問いかけることはしない。お互いに傷口だとわかっている部分を暴いても不快になるだけだった。 「クワンダのように……」 ウィンディが暗く呟いた。瞳は憎悪を抑えた光が踊っている。 「寝返ってもらっては困るわ」 こん、と手にした杖で床を叩く。次の瞬間、目に見えぬ異界の生物が召喚される。使役者に忠実に、彼らは散乱した魔法道具を元に戻して帰っていく。 「このあいだと、おっしゃっていたことが違うようですが?」 「訂正するわ。寝返って困るのはあの男だけよ。他の兵士がどれだけ流されようが構わないわ」 蟻のような兵士などどうでもいい。元帝国兵と反乱軍の兵士が、うまく連携して戦えるわけがない。 けれども、将は別だ。優れた将がひとりいれば、どんな烏合の衆でもそれなりに、いや訓練された兵士のごとくに戦うことができる。 しかも、彼は知名度も高い。『帝国五将軍』が率いる軍であるというだけで、士気に関わるのだ。それを思い出しただけ。 既にクワンダを取られている。これ以上は、さすがに警戒が必要だろう。 「裏切ることもできないように、死んでもらいましょう」 ウィンディの指が宙をなでた。空間が陽炎のように歪む。彼女は躊躇うことなくそこへ手を差し入れると、小ビンを取り出した。小ビンにはぎっしりと灰色の粉が詰まっていた。 「こんなところで役に立つとは思っていなかったけれど、取っておくものね」 毒のバラと同様に、偶然にできたもの。忌避剤は完成させたが、使用するにはリスクが大きい割に効果がうすいので封印していた。 手招きして、少年にビンを渡す。黙って受け取ったルックは、それを光にかざした。 「まるで、生きているようですね」 近くで見ると、中身はさらりとした粉末ではなく湿っていた。糸を引きそうな粘りがある。 「実際生きているわ。……人喰い胞子よ」 忌避剤はこれ、とウィンディはルックに香水ビンに詰められた液体を渡した。 「自分で作っておいてなんだけれども、ひどい悪趣味なものよ。これに取りつかれたら最後、骨も残らないわ。 忌避剤を前もって振りかけておけば自分には向かってこないし、空気中では十五分も生きていられないものですけれどね。 そのあいだに、人間ひとりくらい簡単に喰らい尽くすわ」 「これをミルイヒに渡しておけばいいのですか?」 「ええ、反乱軍はバラの効果で一度は退くでしょう。その報償として」 「今すぐに渡す必要はないと?」 「ええ」 返事にルックは溜息をついた。 彼女の意図はつかめている。最初に毒のバラで反乱軍を退けたとしても、それで敵があきらめるとは到底考えられない。 必ず対抗策を見つけて挑戦してくる。ウィンディが作れた解毒剤だ。巷で名医と呼ばれる人間が調合できないわけがない。 だから、彼らが再び歯向かってきたときのための第二の策として人喰い胞子を使えといいたいのだろう。 もっとも。 「ウィンディ様が持っていてくださいよ。 僕はウィンディ様のように空間を操ることはできないんです。誤って割ってしまったらどうするんですか」 自分ひとりの被害ならばまだしも。城の階段で転んだりしたら、回りの人間を巻き込むし、部屋で割ったら大事な人質であるテッドを殺してしまう。 「あら。蒼き門の紋章の扱いに慣れてきたみたいだから、おまえに預けてみようと考えたのだけれど?」 煌めく瞳で覗き込まれては、ルックは降参する他はなかった。 溜息とともにロッドを振る。額に宿していた紋章が蒼い光を放ち、ビンが歪みのなかへと消えた。異空間に置いてきたのだ。 「まったくおまえは筋がいい」 満足げに頷いたウィンディに、ルックは軽く頭を下げた。 (それはそうだろう) 元が元であるのだから。 「大丈夫か?」 部屋に戻るなり、なぜかテッドにそう問われた。 黙って首を傾げれば、彼は読んでいた本を寝台においてルックのそばに寄る。 「自覚ないみたいだな。ひどい顔してるぞ?」 「放っておいてよ」 ぴしゃりと言葉を断つと、乱暴に法衣を脱ぎ捨てる。 常にない雑な動作で寝台にもぐりこんだ。なにも聞こえないように布団をかぶる。 おかしいと思われようとかまわなかった。 ただ、誰の顔も見たくはない。ウィンディの前で普段通りに振る舞うのに必死で、テッドの前でまで演技し続ける余裕などなかった。 事情を知らない彼にみっともない自分を見られるのだけはルックには我慢ができなかった。 ウィンディを今は亡き女の名前で呼んだミルイヒ。 感情を抑えきったウィンディ。 初めて、彼女に対して敬意を抱いた。 どうして、あの場で微笑んでいられた。 彼女が真実では苦しんでいるのは、先日の紋章の共鳴から理解している。誰よりも、その名前を。クラウディアの存在を気にしているのに、あんな演技をできるのだろう。 慣れてしまったからだろうか。 寒気にも似た思いつきが爪先から這い上がってきた。知らず、少年は毛布の端を握りしめる。 そう。人間は慣れる生き物だ。どんなに理不尽な扱いを受けていても、それが日常となれば文句を言いながら逆らわずに惰性で生きていく。 爆発のきっかけがあるまで、動かない者が大半だ。 ウィンディは拒みつつも、クラウディアとして扱われることにあきらめと慣れを既に持っているのではないか。……そして、そうなるまでの時間は、明らかにルックよりも短い。 ルックは、未だに『慣れ』ていない。きっとずっと、慣れることなどできないだろう。 (それは、僕が欠陥品だから?) 人間が生きていくうえで必要な感情を持っていない? だから、あれほどまでに不必要だと罵られながらもこうやって生きていられるのか。 考えれば考えるほど、思考の渦から這い上がれなくなる。 もう、何も考えたくなかった。 見る夢が五年前のあの時期のことでさえなければいいと思った。 灰色の世界ならば、いくらでも引き受けていい。 その未来は、自分の存在が正しく促しているものなのだから。 *** 死んでしまえばいいと思った。 あんな男。 どんな残酷に殺されても同情などできないと。 こころの底から、闇が滲みだすように思った。 知らせを受けたグレッグミンスター城では、静かな歓声があがった。 実際に町や村で人々の冷たい風にさらされながら仕事をしている者や民衆の『解放軍』への期待のいやおうない高まりを身にしみて知っている者にとって、 スカーレティシアの攻防での勝利は非常に歓迎されるものだった。武力でかなわないことを目の当たりにすれば、表立って逆らう人間は少なくなるからだ。 先のクワンダ=ロスマンの敗北こそが信じられない失態であり、あってはならないことだったのである。彼らにとってはこの勝利は格別に喜ぶことではなく、当然の結果なのだ。 皮肉なことに、後者のほとんどが城の中枢に位置するのは帝国の重鎮ばかりであった。 「……のんきなものね。二度目はないというのに」 ワインの香りを楽しみながら、ウィンディは頬をあげて笑った。今回の勝利は彼女がミルイヒに授けた毒の花、あれさえなければ帝国はどうなっていたことか。 そんなことも知らず、さすがは花将軍よと勝利を享受する愚かな人間。 彼らは人間に知恵があることを失念している。 一度成功すれば、それが連々と続くと思っている。 真から追いつめられた人間が、どれほどの執念で挑んでくるものか。 知らないからの余裕。 思い込みの高慢を叩きつけてやりたい気がしたが、別にそんな必要はない。彼らには『赤月帝国』を思い込みのなかでも維持してもらわねばならないのだから。 現実に立ち直られては困る。いつまでもあまい夢を。 酒杯に注がれた紅を仰ぐと、ウィンディは扉のそばにたたずむ少年に声をかけた。 「そう思わないこと?」 「ウィンディ様のお力で、二度目を作り出すのでしょう?」 問いかけには問いかけ。もっとも、それは質問の形をとった確認。 察しのいい言葉に、彼女は陰のある笑みを浮かべる。 「二度目は、将軍自身にも犠牲になってもらいますけれどね。より完全なる勝利のために」 ウィンディのなかでは、既にミルイヒは捨て駒だった。 できうる限りの人間を道連れに、可能ならば反乱軍の首魁であるリン=マクドールを取り巻く人間の誰かとともに死んでくれればちょうどいい。 <生と死>の紋章が。その正式な名称よりも<ソウルイーター>という禍々しい通り名で呼ばれることが多いのは呪いの性質のせいだ。 継承者の親しい人間の魂を喰らい、力を増していく。 リン=マクドールは紋章を継いで日が浅い。未だ、喰らった魂とて数が知れている。つまり、力が弱い。 ここで、ミルイヒによって彼の親しい人間が殺されれば。 <ソウルイーター>の力が増す。 それだけでなく、親しい人間を殺された恨みからリン=マクドールか彼の周囲の人間がミルイヒを始末してくれれば、ウィンディにとっては文句ない。 彼はクワンダは取り込んだようだが、それは男が自分の私情の利害に関係しなかったからだ。 現実問題として。親しい人間を目の前で残酷に殺されて、黙って軍主の仮面をかぶっていられるほど大人ではないだろう。 「ルック」 「言われなくともわかっていますよ。このあいだお預かりした『あれ』をミルイヒに渡せばいいのでしょう? ウィンディ様からのご褒美だといって」 肩をすくめて、少年はあっさりと答える。どこまでわかっていっているのか。 実際に彼の行動が人間の生死を左右することを。知りながらも他人事としてまったく傍観の姿勢を貫ける、子供特有の残酷さか。 あるいは自らの、ウィンディの正義を疑うことすらしていないのか。 そのどれもに当てはまるような、そうでないような気がしたが、追求する気にはなれなかった。 ルックがどのような背景を持っていようとも、彼が自分を裏切らずにいればいい。 せいぜい役に立って、いつか不必要になれば切り捨てればいいのだ。 ただ、それだけ。 「そうよ、『絶対にリン=マクドールのいるところで、けれども彼は殺さないように使うように』と念を押しておきなさい」 最も重要な点を念押しして、彼女は少年を<門>の力でスカーレティシア城に跳ばした。 ルックが転移させられたのはスカーレティシアのテラスだった。 一般の兵士たちからは目につかない場所だ。そのことにすこし安堵する。 情報部に籍を置いているために、戦の真実の戦況を知ることができる。 スカーレティシアの攻防において、風に乗ってまき散らされる毒の花粉に次々と反乱軍は倒れた。 戦では、スカーレティシア城は風上にあった。何事もなければ、帝国軍は反乱軍が総崩れになるのを待ってリン=マクドールを捕らえる予定だった。 しかし、壊滅的な打撃を与えるにはいたらなかった。 ……反乱軍の魔法兵団が原因である。 魔法兵団は花粉を運ぶ風を遮るために、大地を動かし壁を打ち立てた。 むろん、これだけでは左右から吹きこむ毒の風を防ぐことはできない。ではどうしたのか。 彼らは複数の壁を打ち立て、さらにすり鉢状のくぼみを作ることで風の流れを操作したのである。 花粉が広がらないようにいくつもの壁を作り。ちょうど風の吹きだまりを作ったのだ。そこに風がトラップされているあいだに、彼らは敗走に成功した。 ちょうど風向きが直撃からそれたのも幸いだった。 帝国軍にしてみれば、魔法兵団がそのような力をふるえるとは思ってもいなかった。 帝国軍の常識をくつがえした強大な力。 それを操った魔法兵団。その長。 「ササライ」 名前をルックは平坦になぞる。 自分と『同じ』ように作られた存在。同じ顔、同じからだ、同じ遺伝子。遠目からでもそっくりな外見を知られれば、スカーレティシアを無事に出ることはできないだろうから。 おそらくはミルイヒ直通の通路に自分を送り込んだウィンディに感謝する。 テラスにはやたらと豪華なカーテンが下がっていた。 見下ろせば、庭が広がっている。 その一角の空気が紫に淀んでいた。靄の中心に、血を吸ったような深紅の巨大なバラが咲いていた。 土地がよかったのか、ブラックルーンの影響なのか、やたらと育っている。常識ではありえない大きさだ。 醜悪なそれから目をそらし、ルックは室内に踏み込んだ。やたらふかふかな絨毯が歩きにくい。 案内もなく、けれどもためらいもなく彼は足を進めた。ブラックルーンの気配をたどれば、確実にミルイヒにたどり着く。 兵士の気配にだけは注意しながら歩けば、ひとつの部屋に行き当たった。 念のために、こつんとノックをする。 返答はない。 だが、ここで返事を待って突っ立っていたら、いつ巡回の兵士が来ることか。 それにあの男のことだ。無断で侵入したとて、ルックが彼女の遣いであると告げれば感激することはあっても激怒することはない。 そういえばミルイヒ自身はササライの顔を見ているのだろうかと考えつつも、そのときはそのときだと考え直す。ごまかす方法はいくらでも。 わずかに扉を開け、隙間からするりと滑り込む。 きっちり戸を閉め、向き直ると明るい室内に派手なマントをまとった背中があった。クワンダがひたすら闇へと動いたのに対し、ミルイヒはまた別の方向へと進んだようだ。 彼はルックが侵入したことに気がついていないのか、反応がない。 「……ミルイヒ=オッペンハイマー将軍」 そっと呼びかければ、ミルイヒは振り返った。しかし、ルックの存在など瞳に映っていないようにまた背を向ける。 ミルイヒはウィンディの研究室を訪れた際にルックがそばに控えていたのを見ていたはずだ。それがこの無関心。 いったい何をしているというのだろう。 足音を殺しながらそっと近づく。 そこでルックは初めて部屋に充満する独特のにおいに気がついた。油だ。油彩を描くときの、テレピン。 ミルイヒはキャンバスに向かっていた。 百戦錬磨の将軍が近づく少年の気配に気がつかないわけがない。ブラックルーンのせいで気にならないのか、気にする神経が欠如しているのか。男は一心不乱に筆を走らせている。 色彩の乱れた絵を目にして、ルックは声を失った。 ミルイヒが描いているのは人物画だった。 女である。金の長い髪が印象的だった。こちらを見つめる青い瞳。そして蒼い瞳。……二重写しに、そっくりなふたりの女性が描かれている。 今、ミルイヒが筆を揮っているのは蒼い瞳の女だった。けれども、その後ろに亡霊のように青い瞳の女が微笑んでいる。そしてその後ろには蒼い瞳。 合わせ鏡のように永遠と続いている。 くらりとした。 ウィンディを描いてはクラウディアで彼女を消し。クラウディアを描いてはウィンディで塗りつぶす。 ひどい侮辱だと。 感情が貫いた。 死んでもかまわないと思った。こんな男。 生者も亡者もわからないような、こんな男。 どうにでもなってしまえばいいと思った。 冷めた感情とは対照に。 紡がれた声はどこまでも穏やか。 「ミルイヒ=オッペンハイマー将軍。あなたの大切な『彼女』から、今回の手柄を感謝して、これを差し上げるようにと」 『彼女』の単語に反応して、ミルイヒの手が止まり。初めてルックを真正面から見た。 笑みの形。くちびるを歪め。ひずんだ空間から報賞にして罰則を。 そうして一言一句違わずに、ウィンディの言葉を伝えると。 異様な輝きを見せた将軍をじっと見つめたままに、ルックはグレッグミンスターへと転移した。 鉛を飲み込んだように、からだが重かった。 <2005.3.6>
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