奏幻想滸伝
          異花接木2


 紅を基調に、花将軍の名に違わない庭。
 一般的なバラだけでなく、オールドローズや蔓バラなど、実に多彩なバラが咲き誇っている。どこまで凝り性なのか、出された茶はベリーの香りだった。
 複雑に刈り込まれた生け垣を、ウィンディとミルイヒは並んで歩く。会話らしい会話はなかった。時折、女が男に、問いかけるだけ。
「疲れましたか?」
「いいえ、お気遣い、ありがとうございます」
 ミルイヒの言葉に、彼女はそっと微笑んだ。しかし、その顔にはわずか疲労が見て取れた。
「そこの角を曲がってすぐに、ベンチがあります」
 手を差し出しかけて、ミルイヒははっとそれを退けた。それを見て、ウィンディは微笑む。
「気を使っていただかなくても結構ですわ。私は、陛下に仕える一介の宮廷魔術師に過ぎません」
「そういうわけには参りません」
「頑固な方」
 言うと、彼女はレースの手袋に包まれた腕をすっと中に浮かせる。
「エスコートしてくださらないの?」
 悪戯っぽい言葉に、ミルイヒは躊躇う。本人が『一介の宮廷魔術師』であると言っても、彼女は主の寵愛を一身に受けているのだ。
 容易く触れるわけにはいかない。けれど。でも。
 遠い記憶の女性。決して、決して叶わなかった。
 彼女よりも、彼女の距離は近い。
 ならば。
 無言で支えられた腕に、ウィンディは柔らかく顔をほころばせた。



 ベンチにふたり、隣り合って座る。不敬にあたるとミルイヒは主張したが、この場には誰もいないのだ。意味が無い。
(あの方も、そう言っておられた)
 淡い金の髪は腰に届くほど。儚げな美貌と対照的な意志の強さ。柔らかい精神。彼が生涯で忠誠を誓った、ふたりのひとり。
「ねえ、将軍」
(ねえ、ミルイヒさま)
 女が首を傾げる。
「この庭は、とても広いですけれど」
 くるりとまわりを見渡して。
「スカーレティシアの庭はどうなっているのかしら」
「スカーレティシア城の、ですか?ええ、それはもう、広いですよ。この屋敷ほど手をかけられませんから、繊細さには欠けると思いますが」
 目の前の庭ではなく、遠くの庭に関心を寄せる女に疑問が湧く。もっとも、それは続く台詞に打ち消された。
「では、私が一本、バラを植える余地はあるかしら」
「おや、ウィンディさまも花に興味がおありですか?」
「ええ、だって美しいでしょう?美しいものがあれば、たとえ殺伐とした戦場でもこころが優しくなれますでしょう?」
 おっとりとした言葉。
「それに。先日、実験室に置いておきましたバラが、紋章術のせいでおかしな影響が出てしまいましたの」
 するりと。
 突然に白い手。
 反射的に身を強張らせた男に傷ついたように、女はうつむいた。男から見えるのは、淡い金の髪がわずか風にそよぐさま。
「紋章を通じて『眠りの風』を引き起こし、周囲の人間を眠らせることができるのです」
「それは……」
「もし、これがミルイヒ様のお城に根付いたら。面白いとは思いません?」
 ふいに女が顔を上げた。
 予想された表情を裏切る、悪戯っぽい笑み。氷の青が温かさをたたえていた。
「もうすぐ、反乱軍がスカーレティシアに攻め込むと聞きました。そのときに、一見、なんの変哲もないバラの花のせいで全軍眠ってしまったなんて」
「予想もできないでしょうね」
 ミルイヒが言葉を奪う。
 つられたように、ミルイヒの瞳に光が浮かぶ。そこには先ほどまでの照れたような青年だけではなく、知略を尽くす将軍がいた。
「それは、私にも操ることが可能ですか?」
「ええ」
「では、逆に反乱軍の者たちにも操ることができるのではないのですか?」
「あら」
 心底。意外そうな女の声。
「そんなことができるのであれば、私は宮廷魔術師失格ですわ」
 一直線に結ばれる視線。
 かつて焦がれた女を映す鏡。直視することなど、恐れて怖れて畏れて。
 遠く溶けた願いが、再び形となって現れる。
 あまい熱が、瞬間に触れて、離れた。
「……明日、私の部屋に」
 それは、罠か誘いか。
 けれども、獲物は自らの意志で逃げることはしない。


***


 城に戻り、ウィンディは自室に引きこもった。
 常ならば、自らの手駒である魔法兵団や情報部を回る日課を欠かすことはない。だが、それすらも煩わしいとばかりに。 彼女は馬車からおりるなり、大股に歩き、扉を閉めてしまった。
 どうなさったのでしょうと、城の侍従や侍女が声をひそめる。彼女がどこへ出かけていたかを知る者たちは、不安げな視線を交わす。 ミルイヒが前皇妃クラウディアに恋慕の情を抱いていたのは周知の事実。 非公式の寵妃に過ぎないウィンディに対してミルイヒが暴挙に及んだとしても不思議ではなかった。
 様々な憶測を呼びつつも、部屋に閉じこもった高貴な女性を引っ張り出すわけにはいかないのだ。



 うずまく感情に、どうすればいいのかわからなかった。
 綺麗に結ってあった髪は、ほつれて寝台に広がっている。外出用のドレスも、皺でよろよろだった。
 だが、意識は泥沼で、内へ内へと沈んでいる。
 振払おうとする度に。男の視線が瞼を貫く。
 クラウディア、クラウディア、クラウディア。
 あの男への身を焼きつくさんばかりの憎しみとは違う。 例えるならば、遅効性の毒。 じわりとからだに染み込み、血を汚していく。
「違うわ」
 毒を望んだのは自分。クラウディアを望んだのは自分。彼女となることを望んだのは。
「私よ」
 とっくに覚悟なんて、できていたでしょう。
 それでも。
 彼女の名を呼ばれるたびに、広がる黒い靄。誰もが、自分を見つめながら自分を見ていない。
 彼女を見ている。
 クラウディア。
 彼女が一体どれほどの人物だったというのだ。
 家柄で帝国に嫁いだ女。病弱で、帝国の後継者を生むことすらできなかった役立たずの皇妃。そのくせ、男のこころを絡めとって。
 クラウディア。
 私が彼女に似ているのではない。彼女が私に似ているのだ。たかだか二十数年間、幸福に生きただけの女。
 苦労など知らず、甘やかされて愛されて。
 一瞬で今までの数百年が甦る。幸せだった出来事なんて、たったの十数年だけだ。村を焼け出され、からだと精神を削りながら生きのびた。
 その自分が、なぜ、あんな女と同一視されなければならない。
 ひどい侮辱だと思う。
 常あれば、それを転化して自分の力としただろう。なのに、今回に限ってはうまくいかない。
「クラウディア」
 小さく呟いて、逃がしきれない激情で羽枕を引き裂いた。
 


 紋章が共鳴する。
 いくら抑えてあっても、真の紋章のつながりは強い。
 紋章が連結器の役割を果たし、彼女の感情が彼に伝わる。
「っ」
 そのまま、胸を押さえて少年は図書室の棚に背を預けた。
 荒い呼吸を繰り返し、なんとか引きずられないように制御する。
 これほどの影響があるのは、彼のなかにウィンディに同調する要素があるためだ。
 私は違う。
(僕は違う)
 私はクラウディアじゃない。
(僕はササライじゃない)

 何を仰っているのです?ササライ様。

 どこまでも冷たい声。
 理解している。 これは幻聴だ。 とっくに終わったことだ。
「……違う」
 絞り出すような声。嫌な汗が額からこぼれる。
 奥歯をきしりと噛み締めて、ルックは気持ちをなんとか切り替えようと努力する。
 共鳴を抑えなければ。
 今は取り乱しているウィンディだが、彼女が冷静になったときにこのつながりを欠片でも残していれば追求は免れない。自分の素性を知ったならば、彼女が放置するわけがない。
 こんなところで、何も知らないウィンディに殺されるわけにはいかないのだ。
「僕は違う」
 深呼吸。
「僕はあんたとは違う」
 ウィンディ、あんたとは。
 だって、自分には、すべてを承知したうえで自分を『自分』として見てくれる人間がいる。そのことを、知っている。
 言い聞かせながらも、零れ落ちる気持ち。
 瞼を閉じて、こころを閉じて。
 彼は癒えない傷口をいつものように見なかったふりをした。



 居城を揺らした空気に、気怠げに部下の奏上に耳を傾けていた皇帝は顔をあげた。
「バルバロッサ様?」
「いや、なんでもない」
 皇帝の態度に、控えていた側近が首を傾げた。 何事もなかったようにはとても見えなかったが、バルバロッサ自身がこういうのだ。追求することもないだろう。
 さりげなく、皇帝は手袋に包まれた右手の甲を撫でた。たしかに息づく愛しい紋章。
 真の紋章のつながりだけでなく、刻まれた黒い呪がウィンディとバルバロッサを繋いでいる。
 今日はミルイヒの屋敷に行っていたはずだ。帰ってきてから、一歩も部屋を出ていないという話も耳にした。なにがあったのか、見当くらいつく。
(私は違う)
 ああ、違うよ、と。
 実際に声に出して言えればいい。しかし、そうしたところでウィンディは認めないだろう。彼女が与えたブラックルーンが、主の無意識が望む言葉を紡ぎ出したと思うだろう。 言葉ではなく、男がどのような態度をとったところで、きっと結果は同じ。
 きっと彼女はますます信じないだけだ。
 彼女はとても気が強くて、まっすぐで頑固だから。
 だから、おまえはクラウディアとは違うよ。ウィンディ。
 彼の妻が持っていたのは柳の強さとしたたかさ。
 誰よりも、それを自分は知っている。
「おまえは違うよ」
 届かないと知っていても、いつかは響くといい。
 たとえ、それが互いの最後の瞬間であっても。
 淡い呟きは、誰に聞こえることはなく。



 翌日。
 城に現れたミルイヒを、ウィンディは何事もなかったように迎えた。そばに控えていたルックもそれは同様だった。
 誰も、何も変わりがない。表面上は。
 慎みをもって、ウィンディがミルイヒを案内する。ただし、その先は前日に彼女の告げた自室ではない。
 宮廷魔術師として日々研鑽を重ねるようにと与えられた研究室だ。
 ルックも当然のように同行する。
 棘のようなミルイヒの視線が少年に向けられたが、彼は無視した。この程度は痛みのうちにも入らない。
 ウィンディの研究室は地下にある。薄暗い階段は、異国の香が漂っていた。
「ミルイヒさま、これが昨日お話ししたバラですわ」
 一抱えほどある鉢に、深紅のバラが花を咲かせていた。他にいくつかのつぼみをつけていたが、まったく普通のバラと大差がなかった。
 いや、普通ではないかとミルイヒは思い直す。
 地下であるだけに、研究室の灯は蝋燭の炎だけだ。ぼんやりと橙に薄暗い空間で、バラが咲き誇っている光景は妖しくこころをざわめかせた。
「……私が紋章に明るくないからでしょうか。普通のバラに見えます」
「そう見えないと困りますわ。反乱軍を油断させなければいけないのですから」
 微笑みを浮かべた女に、ミルイヒの背中が泡立った。なにか、どうしようもない違和感がある。首を傾げつつも、問いを重ねた。
「これは紋章を通じて操作できるのでしたね?」
「ええ、そうです。操るための紋章は、ここにあります。私が特殊な処理を施しましたから、普通に出回っている紋章ではどうにもできません」
 差し出されたのは、闇を凝縮したような封印球だった。
 見たこともないものだ。ウィンディが特別な処理をしたからだろうか。それにしても、なんというか、進んで手を出したいと思うものではなかった。
「紋章というならば、ソニア様に任せられた方がよろしくはありませんか」
 正論と、見え隠れする怯え。
 ウィンディは舌打ちしたい気分だった。クワンダのように簡単に引っかかってはくれない。昨日はあれほどまでに簡単に流されたというのに。 一晩経って、冷静になったということか。
 ならば、もう一度篭絡するまでだ。
 気づかれないように、くちびるの裏を噛む。
「ソニア様は、私のような一介の魔術師の手を借りることは嫌いますから……。自尊心の高い方ですし」
 そっと視線をそらす。
 あなたも同類ですか、と。私を信じることはできないのですね、と。
 ミルイヒがくちをひらくより速く、ウィンディの台詞は続く。
「それに、私はミルイヒ様が心配なのです。スカーレティシアは帝都から遠くて、万が一のときにすぐに駆けつけることはできませんから」
 すいと昨日と同じように手を伸ばして、ためらいの後に彼女の胸元へおさまる。
「受け取っては、いただけないのでしょうか……?」
 潤んだ瞳は、まるで薄氷。今にも割れそうで、とどまって。
 ミルイヒの知る、ウィンディとはまったく違う風情。宮廷魔術師として強力な紋章術を操るウィンディではなく。
 儚くて、壊れそうで、あたかもそれは。
(クラウディア様)
 失った愛しいひとだ。
 そう、これは結局手に入れることができなかった、唯一のひとだ。
 甦った彼女の、ささやかな願いを叶えられずにどうするというのだろう。しかも、自分のためにこころを砕いた提案を踏みにじってどうするのだ。
「そんなことはありませんよ」
 ミルイヒの視線が変わったのをウィンディは敏感に感じ取る。
 戻していた手を再び延ばす。
 今度こそ、男の手を握りしめた。
「ありがとうございます、ミルイヒ様。あなたがスカーレティシアの総指揮官。あなたに紋章を宿してもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんですよ」
「では……」
 漆黒の光が、室内を一瞬だけ満たして引いた。
 ミルイヒの右手にはブラックルーン。しげしげと、愛しそうに男は自らの手を眺めた。
「あなたが命じれば、花は花粉をまき散らします。兵士たちにあらかじめこれを飲ませておきなさい。解毒剤です」
 ウィンディは、ずっしりとした粉薬を渡す。 『眠りの風』だと説明していたはずなのに、なぜ解毒薬なのかとはミルイヒは尋ねない。呪いの紋章を宿した時点で、主を疑うことなどしなくなる。
「スカーレティシアの、一番風通しの良い場所に埋めてくださいませ。あなたは私の期待を裏切らないと信じていますわ」
 空ろな瞳で、ミルイヒは頷いた。
 男の様子にウィンディは満足げに微笑んだ。しかし、次の瞬間、表情が凍る。
「お任せ下さい、クラウディア様」


<2005.2.18>


          逆奏目次