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親愛なるお兄様 良いご報告です。 お嬢様から晴れ舞台への推薦を受けました。謹んでお受けするつもりです。調べられていたのはそのためだったようです。 隠していたことについては、何も言われておりません。お嬢様の部下は質が低いようです。これでお屋敷の実力者というのだから、微笑ましい事このうえありません。 計画の事もお嬢様に知られてはいないと思いますが、もし知られていても、すぐに問題はなくなりますよね? さて、先日、図書館で面白い本を見つけました。『無名諸国の現状』第7章が特に興味深いものでした。ぜひ、ご一読を。 あなたの妹、シャルテ *** 宿にいても時間は有り余ってる。 自由に歩き回るにはクリスタルバレーは広くてよいのだが、紋章の気配を抑える術を覚えたリンを探しまわるのは面倒だとの月の長老の仰せに従って、あまり動き回れない。 となれば、自然と入り浸る場所は決まってくる。 (グレミオも心配するしな) 両側からの圧迫感は心地よい。これだけ自分の知らない知識があるのだと思えば、世界の広さに嬉しくなる。それに、これはほんの一部だ。一般書架でこの量なのだから、禁書も含めたこの「一つの神殿」はどれほど膨大な蔵書があるのか。想像し難い。 なかでもリンがよく足を運んでいたのは地理書、魔術書が置かれた場所である。 政治の類の本も嫌いではない。故国で将軍家の嫡男として受けた教育から、むしろ興味がある。 だが、その国を滅ぼしたうえに出奔したとあって、何故だか素直に手を伸ばせる領域ではなくなっていた。罪悪感のようなものか。 結局は、まるで親友が旅した三百年の足跡を思うように地図を手にとり。親友が追っ手から逃れる為に必要としただろう紋章を知ろうとする。 紋章に関しては、シエラの特訓や吸血鬼退治の実戦でだいぶ慣れてきた。 しかし、それはただなんとなく使えているだけの状態だ。仕組みもわからずに機械を動かしているようなものだ。 それが、彼にとっては何とも言えず気持ち悪いのだ。 確かに専門家ではないのだから、 紋章について、ましてや謎の多い真の紋章に関してを相応の知識をも身につけようと言うのはとんだ慢心だとは思うのだが、そういう性格なのだ。 (そういえば、テッドにも言われたよな) 親友の弓術について尋ねた時だ。どんな師に習ったのか。流派は。弓を引くときに一回だけ肘が下がるのは、もともとそうなのかそれとも癖なのか。 (我流だったのが三百年の洗練された技術ってやつ?に昇華したんだよ) あのときは冗談だと思ったけれど、掛け値なしの真実なのだろう。 星辰剣に飛ばされた過去から判断して、テッドがちゃんとした師に弓を習ったとは考えづらい。 戦闘の中で見られた連射などの独特の構えは、それこそ逃亡生活の中でいかに効率よく敵を倒していくかに体が適応していった結果だ。 リンの型から徹底的に仕込まれた武術とは違う。……もっとも、その型も先の戦争中に相当崩してしまった自覚もある。敵を殺すための最小コストと最大利益。 同じようなことが紋章術に言えるのではないかと考えたら、もう止まらなかった。シエラは『とにかく使えればいい』の実戦派だから、自分で調べるしかない。 もっとも、紋章については基礎中の基礎しか知らない彼が自力で身につけられる知識もたかが知れていた。 今日も、見事に論理の渦に巻き込まれ、理解する前に弾き飛ばされた感じだ。 「……地理、読もうかな……」 逃避行動だが、それでも活字にしがみつくのは尊敬に値するだろう。 少し離れたところにある書架へ移動し、視線を動かす。赤月帝国。貸し出し中もあるが、今更だ。 都市同盟やハイランド皇国。もっと知らない国がいい。群島諸国、グラスランド、ゼクセン公国、ファレナ、無名諸国。 視線が止まった。 整然と並んだ書が途切れていた。 ごっそりと無名諸国に関する本だけが抜けている。学生が借りて行ったのかもしれない。 それとも、これから無名諸国で何かが起こるとか? ハルモニアの国際情勢などリンは知らないが、神官の誰かが借り手というのも案外あり得る。 「へえ」 吟味しようと屈んだとき、控え目に声をかけられた。 「すみませんが、本を返したいのですが……」 「あ、申し訳ありません」 顔を上げると、思いのほか若い顔があった。 リンが退いたところで、彼は本を戻し始めた。どうやら書架の空白の原因は彼だったらしい。 他のところへ返すらしい本が一冊、床へ置いてある。赤月帝国の紋章。無意識に読む。 いつものくせで、この人物はどんな役職なのだろうかとぼんやりとリンは考えた。学生には見えない。 なぜなら帯剣しているからだ。学生や文官ではありえない。武官?騎士?だが、それにしては態度が弱い。かといって衛兵とも違う気がする。 あれこれ考えていると。不意に背後から声がかけられた。 「お主、このようなところで何をしておるのだ」 古風な言い回しだけで、誰だか分かる。 振り返れば予想通りの顔。夜空の月を切り取ったような色彩があった。 「見ての通りの読書です。シエラ様こそ、このように日の高い時間から動き回って大丈夫なのですか?」 「たわけ。お主、何時間ここにおったのじゃ。既に日は傾きかけておるわ」 どうやら時間を忘れて熱中していたらしい。一つの神殿の中は本を傷めないために窓のひとつもないから気がつかなかったのだ。 と、本を返し終わった青年が立ち上がった。 通路で話していては邪魔になるとリンがシエラを促そうとしたとき、彼女が首を傾げた。 「……ルックの護衛官ではないか?」 ぎくりと青年が頬を引き攣らせたのが傍目にもはっきりとわかった。 目が左右に泳ぎ、それでもじっと見つめてくる少女の瞳から逃れられないとわかると、こわばったままの表情で頷いた。 「そうです。ええと、吸血鬼の……」 「淑女の名前を覚えてないとな。まったく、あの子供も躾がなっておらぬ」 うそぶきながらも、彼女は金の視線を断ち切った。 「神官長との打ち合わせは終わったぞ。あやつの護衛官であればさっさと戻るがいい。周りに人間がいないとなれば、格好の標的になろうぞ」 「は、はい。そうします!」 呪縛が切れたように青年は走り去った。 「あーあ」 リンは残された本を拾い上げた。別の場所に返す予定だったのだろうが、どこに戻せば良いのかわからない。 「忘れ物か」 「ああ。どこに返せばいいかわからないし、どうせだったら読むかな」 ヒマだし。 リンの手元を覗き込んだシエラは鼻を鳴らした。 「お主に必要とは思えぬが」 「やっぱり自分の故郷がどういう風に書かれているのか知りたいじゃないか」 適当に栞がはさまっていた頁で開く。竜王剣が描かれていた。最後の決戦を思い出し、リンはぱたりと閉じる。 「それよりも、あの人、知り合い?」 「<風>の小僧の護衛官、だったはずじゃ。主を放っておいて何をしておったのやら」 「休憩時間だったんじゃないか?」 「たしかにヒクサクを交えた会議ではあったが、会議が終わるまでに戻らねば護衛官失格であろう。あの子供を殺したい輩は掃いて捨てるほどいるからな」 「……」 「どうした?」 小さくかぶりを振って、けれども考え直したようにリンは言葉を探す。 「それほど恨まれているのか?ルックは」 「恨まれているというよりも……、あれは生きていてはならぬ命だから、な」 女のくちびるから零れた、さらに剣呑な単語に彼は眉をひそめた。シエラのくちからそのような台詞が出てくるとは考えてもいなかった。同じ真の紋章の継承者なのだから。 理由を知りたいと思ったが、答えてくれるとは思えなかった。案の定の、先制。 「これ以上は妾から言える事柄ではない。あやつから直接聞くがいい」 「うーん。教えてくれるほど、親しくなれるかが第一関門か。よし、テッドの名前に縋ろう」 茶化して誤摩化して、リンは「関係ないかもしれないけど」と断って。 「あの護衛官、どこかで会った気がするんだが……シエラは?」 「どこかと言っても、わらわに尋ねてくるという事はおぬしと共にいたあいだのことであろう?妾としてはそのようなことは思いはしなんだが……」 「……じゃあ、俺の勘違いかな。典型的な一等市民の色彩だから、混乱してるだけだろう」 トランでは見慣れない、印象深い色に目が惑わされているだけだろう。 一人で納得したリンをシエラは促した。 「早う宿に帰るぞ」 悪戯っぽく瞳を細めた。そうすると魔性の色彩、永の年月を呑み込んだ老獪さがゆるんで、まるで外見相応の少女のものに見えるから不思議だ。 「ありがたく思うが良い。算段がついた」 「あんた、どこに行ってたわけ?」 戻ってきた護衛官に八つ当たり気味に言い放つ。頬杖をついてペン先でとんとんと書類の上を叩く様は、どこからどう見ても苛立っていた。 どう言い訳をしようかと頭を巡らせる青年に、ルックは言い訳無用と先を打ち止めた。 「こっちはヒクサク様の無茶で無謀で無情な作戦に巻き込まれたっていうのに」 「はあ……」 思わず気のない返事をして、彼は姿勢を正す。高貴な人間に仕える身であればこそ、本来の仕事である護衛以外にも、主人の機嫌には注意しなければならないのだ。 「それで、ヒクサク様はなんと?」 「剣、背負って逃げろって」 「……」 何を言われたのだか理解できないという男の表情に、ルックは肩を竦めた。 幼い子供のように執務机の下の広い空間で、足がゆらゆら揺れている。床すれすれを、彼のこころを映すようにくるくると風の渦が生まれてはほどけていく。 一介の護衛官に過ぎない男に詳しい内容を漏らすわけにはいかない。だが、どうしても初めだけは協力してもらわねばならない。 どうやって彼にうまく伝えればいいだろう。ルックは思考を巡らせる。 ヒクサクが提示したのは、簡潔にいえば『追いかけっこ』である。竜王剣を持ったルックを継承者候補が追いかけて、捕まえる。 範囲はクリスタルバレーに限定。円の宮殿としなかったのは、候補者の才覚を見極めるためだ。 ただ闇雲に走っても偶然の幸運は訪れず、かといって最初から候補者のやる気を削がないような設定だ。 おかげでルックは転移術を開始の一回しか許されない。 しかも転移先はルックの自由には決められていない。候補者には知らされてはいないが、ヒクサクとシエラが選んだ協力者が待機している場所へ跳ぶように命じられた。 どうせ動くのであれば単独行動のほうがマシ、と主張したが聞き入れてもらえなかった。かなりの言いあいに発展したが、その経過については割愛。 真の紋章も<風>は使っても、<門>は禁じられた。 理由は簡単で、界と界を繋ぐことに特化した<門>を自由に使えれば、たとえ彼自身が転移しなくても、追っ手を空間の迷路に惑わせることなど容易い。 さて、問題はその最初の転移術だ。 開始の合図があって、ようやく術を成しても良いという、なんとも涙が出そうなヒクサクの指示。 ルックの術の展開は、速い。 が、その彼であっても無防備な時間を完全になくせるわけではない。 そこを狙われればひとたまりもない。 一言で「狙われる」といっても、候補者だけで済むわけがない。――この絶好の機会を暗殺者どもが見逃さないわけがないのだから。 (護衛官として、きちんと働いてもらわないとね) 今日みたいにふらふらしているなど、少し箍を緩めてしまったかもしれない。 ルックが狙われるのは基本的に彼が独りのとき、自室にいるときがほとんどだったし、 つい最近は神殿内でうろついている学生の目を気にしてか、少なからずあった物陰からの不意打ちも減っていた。 そう考えれば、これはちょうどいい。 この調子でいけばそれなりに長く付き合っていけるだろうとも思っているし、ここでがっしり巻き込んで、骨身に沁みておいてもらうべきだろう。 「で、頼みたい事があるんだけれど?」 <2007.4.25>
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