Idea Idem Ideologie10 |
「すごいじゃないか!」 どこからどう情報が回ったのか、部屋を出るなり、彼は同級生に取り囲まれた。 同級生といっても、円の神殿に来て初めて知り合った連中ばかりだ。ハルモニアには各地に士官学校がある。 受け入れる円の宮殿の容量にも限界があるから、研修に選ばれたのは各校からひとり、せいぜいが二人という状態である。 それでもやがては神官長のお膝元である円の宮殿に仕えようという気概溢れているのは共通点であり、人脈作りの重要さを歳若いながら熟知している彼らだ。 身分や階級をこえて、将来有望そうな人物に群がるのは当然の成り行きだ。 ちょうど、今の状況のように。 長らくハルモニアの手から離れていた<覇王>の紋章がクリスタルバレーに戻ってきたというのは、わざわざ隠されるようなことではない。 そして、その<覇王>の主に相応しい人間を探すために上層部が動くだろうことは、学生の彼らでも予測ができた。 もっとも、そうではあっても彼らは学生に過ぎない。 あくまでも『上』の動きは『上』の動き。自分たちを素通りしていくもの。 関心はあっても、直接関係する事はない。現在、自分が世話になっている神官将や神官のなかから継承者が現れれば将来有利になるかもしれない。その程度の認識だった。 のだが。 実際に神官将から推薦された友人が現れたとなれば、まったくもって他人事ではない。もしかしたら自分にも機会があったのではないかとの後悔や、これからのことを考えた打算。 おおよそ若者らしくない……否。野心溢れる若者としては当然ともいえる動きがそこここで始まっていた。 囲む方は言うまでもなく、囲まれる方もそれは身にしみている。 そつのない笑顔を浮かべながら、ここに溜まっていては邪魔になると廊下を歩き出した。 「そんなことはないよ。閣下は僕のような学生でも選ばれることがあるのか、実験したいだけなんだよ」 己の容姿を彼は理解している。他の選ばれなかった少年たちの神経を逆撫でしないような言葉を注意深く選んだ。 「歳は関係ないだろう。……ルック様はここにいる誰よりもお若いのだし」 「あの方は特別だよ。最初から真の紋章を持っていらっしゃるのだから、あれは……次元が違う」 不意に途切れさせた調子に周囲はおや?と思ったが、深く考える事はしなかった。彼を呼び出した神官将から何か大きな声にできないような話を聞いたのかもしれないとも思った。 士官学校の生徒、将来のハルモニアを背負う人材。その程度では触れることも許されない情報などいくらでもある。選ばれた者である彼は聞けた。ただ、それだけ。 妬むような素振りをみせれば、それだけで格が知れる。 だから表面上はいたって穏やかに彼らの談笑は続いていく。 「仮定の話だけれど、もし真の紋章の主になれたら、そのまま神官将になれるのかい?」 「それは分からないけれど、僕はそれを希望するつもりだよ。 かつてのクラナッハ=ルーグナーよろしく王になるつもりもないし、ハイランド皇国のようにこの国から離されるのも嫌だからね」 真の紋章の継承者の多くは、国に属さずに放浪しているとも言われている。そのようにさすらって生きるのは、土地に根ざして暮らしてきた彼には到底できない。 「そうか。でも<覇王>は剣に宿っているんだろう?辺境の蛮族や、魔物退治を希望したりはしないのか?」 一般的によく挙げられるハルモニア軍の特色は魔法兵団である。 それでも、軍の主力は騎馬であり歩兵であり、剣に真の紋章を宿しているとあれば支柱の1本としてそちらへ配属される可能性が高い。 それに魔法兵団の柱としては既に真の<風>をもつルックが存在しており、また、数年後には兄であるササライもそこに加わるだろうことは推測済みだ。 「そうだなあ……。魔物退治はいいかもしれない。吸血鬼みたいな、普通の人間ではなかなか倒せないようなのをね」 「なあ、どうせ僕たちは試練に関われないんだから、少しくらい、その……内容とか教えてくれないか?」 誰かが核心をつく。彼らの関心の中心。 「別に構わないけれど、どうやらその気になれば誰でもこの試練には関われるよ」 「本当かい?!」 彼の言葉に周りが沸いた。 「うん。最初の会場……部屋に入れるのは、それこそ神官将の方や有力者の推薦がなければいけないけれど、そこから<覇王>は移動するから」 「そうなのか?てっきり私は、様々な試験の後に真の紋章に目通りして、継承者を決めるんだと思っていたよ」 上がった声に数人が頷く。 苦笑して、彼は聞いてきた内容を少しだけ披露した。 「違うんだな、これが。あまり詳しくは話せないけれど、もしかしたらみんなに協力してもらうことになるかもしれない。……隠れ家の提供とかね」 意味深長に区切られ、密やかに強調された言葉にほんの一瞬だけの沈黙。次には、熱の籠った無言の肯定が彼を取り巻いた。 「そういうことなら、喜んで。ディオス」 完全な親切ではなく、多分に利己的な心中が透けて見えた。けれども、それくらいがちょうど良い。 にこりと彼は微笑んだ。 「ああ、よろしくな」 *** 親愛なるお兄様 単刀直入に言いましょう。これが最大の機会だと思います。 今こそ、目的を。 シャルテの復讐を。 あなたが、お嬢様をどう思っていようとも、やらなければならないことくらいは理解しているでしょう。 *** 信じられない。 くるくると回る思考。 そして、自分の考え自体が信じられないもの。 こんなふうに自分が考えられる日がくるとは。 信じるなんてそんな単語は、自分のなかに存在しないと思っていた。世界からも、創造主からも、神を宿す同胞からも。 彼を知る者すべてから否定されたのが己なのだから。 ただ、驚愕に流されながらもルックは反射で魔力の手を伸ばす。 転移術の途中、こんな風に制御を失ってしまえば、下手をすると命に関わる。今、手元にないとはいえ、ルックは真の<門>を継承している。 だから、界と界の狭間を永遠にさすらう危険は考えなかった。それよりも、ここで自分が死ぬような自体に陥ったときに世界に及ぼす影響の方がよほど恐ろしい。 (どうにかしないと) からだがばらばらになりそうな錯覚。ヒクサクから指示され、何度も念入りに確認した座標など役に立たない。 (こんなところで死ぬわけにはいかない) まだ見つけていない。この世界のために自分が死んでもいいと思えるような理由。ヒクサクが自分に約束させたような理由――人物も。 とっさのなかで思い浮かんだのは懐かしくて、大切な面影。その気配。 近い。 届く場所。 直接見えたのは一度きりの短い間。気まぐれに協力を約束しただけだ。その人柄も何も知らない。身近にあったのは、あくまでもそれ以外は友人にこびりついていた昏い残滓。 それでも迷いはなかった。 一気に魔力の流れをそこへ向かって固定すれば、ばらばらに弾けていた周囲の風景があるべき場所に収まっていく。 引き伸ばされるような、あるいは圧縮されるような落下の感覚がそれに続く。 「……っ」 小さく息を呑めば、感じるのは慣れた空気と風の感触。 とっさに体勢を整えられず膝からの着地となった。それなりの衝撃を覚悟していたルックだったが思ったような硬さはなかった。 ――むしろ柔らかいような。 無言のまま足下を見れば。 「……」 「……」 視線が、合った。 お互いに予想外の出来事に声が出てこない。 しばらくの沈黙を破ったのは、<生と死>の主だった。 「……重い」 「みぞおちに入らなかっただけありがたく思いなよ」 ルックから出てきたのは謝罪ではなく悪態。むしろ『そんなところにいたそっちが悪い』とでも言いたげな表情だ。 舞うような軽やかさで緑の重みはリンの上から消えたが、リンの機嫌は降下するばかりだった。 それはないだろうとの文句の為に開きかけたくちはルックの台詞がぴしゃり封じた。 「うるさい、気が散る、黙れ」 そのまま目を閉じて神経を集中する。 気配を探る。あまり気配が身に馴染んでいなかったのが恨めしい。<覇王>。こんなことなら、もうちょっとまともに関わろうとすれば良かった。 奪われた後、どこへ運ばれている? しかし、数分でルックは視線をあげた。 「遠すぎるっ」 この界へ戻る標として<生と死>の紋章をとっさに使ったが、円の宮殿から離れすぎているのだ。風景からして、彼が立っている場所もクリスタルバレーには違いない。 けれども、ここから<覇王>が動く道筋を正確になぞるのはいくらなんでも不可能。 特に物や場所に宿っている真の紋章は、人間が宿しているよりもずっと気配が捉えづらいというのが定説だ。 とにかく神殿に戻って、竜王剣を見つけ出す。犯人もきっちり捕まえる。幸いにも犯人の顔など見飽きている。 そんな簡単なことも思いつかなかったとは、どうやら自分は相当に動転していたらしい。 やっと戻ってきた冷静さにひとつ頷くと、ルックは転移のための術を組もうと魔力を集める。 と。 唐突に。 彼を阻むようにがしりと腕を掴まれた。 ねじりあげられる強さに、緑の袖が揺れる。不快に眉を細めて睨みつければ、押し負けない視線が返された。 「何、あんた、まだいたの?」 「『まだいたの?』じゃない。俺はおまえを待ってたんだから」 「それはご苦労様。別に僕はあんたに用もないし、忙しいから帰っていいよ」 つんと振り切ろうとするには相手が悪かった。緩めるどころか引き寄せる勢い。 「その忙しいのを手伝ってやろうっていう人間に、その台詞はないんじゃないかな、神官将様」 わざとらしく職名で呼ばれ、果たして彼にその地位を教えたことがあっただろうかとルックはふと思う。 考えるまでもなく、数ヶ月前に最年少でお披露目を済ませたばかりのルックはクリスタルバレーでは有名人だが、そこまで思考が届いていないのは、動揺のせいでしかなかった。 「手伝いなんて要らない。僕は何もそんなのが欲しくて、あのときあんたに手を出さなかったんじゃあないからね、……トランの英雄」 「覚えていてはくれたんだ?」 直接の邂逅はたった一度。正直、期待はしていなかった。赤月帝国の間諜として動いていたルックが敵の頭を知らぬわけはなかろう。 そのことはすっぱり抜けている、こちらも無自覚有名人。 「でも、関係ないわけがないんだな。なにしろ、そちらの神官長様に頼まれて……、竜王剣は?」 小柄なルックをどう眺めても、剣を持っている気配はなかった。 正直な質問に、ルックは瞬間、からだを硬くする。 腕は掴まれたままだというのに、震えるのがわかった。理由など知りたくない。 「……言う必要を感じないね」 地を這う低い声。隠し切れない動揺。ルックとは対照的にリンは動じる気配もなかった。 「必要だったらある。さっきも言ったけれど、俺はヒクサク神官長に、<覇王>に関して頼まれてる」 強調するためにわざと区切られた台詞の真偽を計りかね。 しばらく続いた沈黙の勝負に、折れたのはルックだった。 「とにかく僕は、円の宮殿に戻らないといけないんだよ」 「だったら俺は、円の宮殿についていかないといけないな。で、<覇王>は?」 重ねられた問いに、少年の顔が歪んだ。もう聞かないで欲しい。 強いばかりに見えた緑が、まるで雨に煙るようだった。 正直、リンは裏切られた気がした。 逢ったのはたったの一度。交わした言葉は、ほとんどない自分の目的が別にあると、解放軍の英雄をきっぱり拒みながらも、こちらを気にかけてくれていたような態度。 とどめは親友の遺言。 そういう欠片を繋ぎあわせて、リンはいつのまにか『ルック』という人間を都合よく作り上げていてしまっていた。 ……想像のなかのルックは、間違っても現れ様に膝を入れてくれた挙げ句に謝りもしない人物ではなかった。 (テッド、おまえはこいつに何を伝えたかったんだ?) 言葉だけは覚えている。何度も何度も繰り返した。 それでも星はお前に降りたんだ 親友であるリンにも理解できない内容。これをルックに伝えれば、テッドがリンに決して見せようとしなかった三百年の姿を窺うことができるのではないかと思った。 テッドが最期の瞬間まで気にかけていた存在に興味があった。 うまくいけば、そんな人物なのだから友人になれるのではないかとも期待した。自分と同じ、時間から切り離された継承者。外見は同じくらいの年齢で。 テッド程とは贅沢は言わないが、それなりに仲良くなれると思ったのに。 だからルックが転移の体勢に入ろうとしたとき、とっさに手を伸ばしていた。 腕の細さに驚く。たっぷりとした袖で隠されて、予想もしていなかった。武術を嗜まないと、こうなのだろうか。弓を使うテッドの腕は見かけによらずがしりとしていた。 女性のクレオだってもっと。 驚きのままに手放せないでいると、服よりもなお鮮やかな緑の視線。ああ、これは見たことがある。あの夜の。 その既視感を台詞が簡単に翻すのだ。 「何、あんた、まだいたの?」 「『まだいたの?』じゃない。俺はおまえを待ってたんだから」 トランからわざわざハルモニアに来て。それだけでは会えなくて。シエラの吸血鬼退治に付き合って、それでようやくこの場に待つ権利を得た。 「それはご苦労様。別に僕はあんたに用もないし、忙しいから帰っていいよ」 そっけない口調。けれども、ルックの言い分はリンには関係ない。 むしろ好都合。 「その忙しいのを手伝ってやろうっていう人間に、その台詞はないんじゃないかな、神官将様」 個人ではなく立場を呼ぶことで逃げ道を塞ぐ。仕事には忠実らしいと、過去からも了承済み。 痛いところを突かれたらしいルックは、せめてもの反撃か厭味のように呟いた。トランの英雄、と。その台詞に驚く。 「覚えていてはくれたんだ?」 リンはあの夜を思い出し、ルックを捕まえているのとは反対の手……右手をちらりと見遣った。わけもわからないままに暴走した<ソウルイーター>は静かなものだった。 まるで関係ないといわんばかりに。 それにリンはほっとして。続けることができた。 ヒクサクの名前を出せば、よほどのことがない限りこの子供は無視しない。そうシエラから教えられていた。 「でも、関係ないわけがないんだな。なにしろ、そちらの神官長様に頼まれて……、竜王剣は?」 あの剣の姿は、グレッグミンスター城の最終決戦から目に焼き付いている。しかし、影も形もない。 シエラとヒクサクから頼まれたのは、<覇王>の継承者探しを行うルックの補佐。主に護衛だった。 (これを好機と、ルックに大量の暗殺者が送りつけられることが予想できるからな) どうしてそこまで彼を殺そうとするのか。確かに最年少での神官将就任には大きな嫉妬があるだろうけれど、真の紋章の継承者という点でおつりが来る。 問い質したが答えはなかった。皮肉げに微笑まれるばかり。 (お主はトランの出身。<覇王>も、それが宿る竜王剣も間近に目にしたことがあろう。適任じゃ。それに、風の小僧の側におれば、それもじきに知れようぞ) 月の長老の台詞を思い出す。 出現方法こそ予想外だったが、それはまだいい。よくよく記憶を取り出せば、トラン城のうえにルックが現れた時も空中から落ちてきたのだ。 比べて、彼が竜王剣を持っていないというのが問題だ。ヒクサクからは、ルックと竜王剣を組で預けるとのことだった。 掴んだままの腕から、彼が身を硬くしたのがわかる。 何か、あった? 「……言う必要を感じないね」 地を這う低い声。その調子だけでもう分かってしまう。 何か、あったのだ。 「必要だったらある。さっきも言ったけれど、俺はヒクサク神官長に、<覇王>に関して頼まれてる」 自ら滅ぼした国であれ、故国は変わらない。黄金皇帝――リンの知らないバルバロッサの伝説を形作る竜王剣には、国民として特別な感傷があった。 「とにかく僕は、円の宮殿に戻らないといけないんだよ」 溜め息のような細い応え。リンはすかさず返す。退くわけにはいかないのだ。 「だったら俺は、円の宮殿についていかないといけないな。で、<覇王>は?」 重ねられる問いにルックの視線が緩んだ。 泣くかもしれない。なんといっても最年少神官将であり、生まれながらの真の紋章の主。大切に大切に育てられただろうルックが、どうやら何かしらの大失態を侵したらしい。 多大な誤解を巻き込んでいたが、士官として最初の任務を承った時の自分を思い出し、重ねてしまう。何も知らなかった、将軍嫡子だった自分を。 思った反射、リンのちからが弱まったところをルックは乱暴に振り払う。 不意な弱気を見せていた彼の瞳は、すでに立ち直っている。 「あんた、ヒクサク様に何を頼まれたって?」 「竜王剣とルックの護衛」 正直に答える。ここで隠していたってすぐにばれることだし、少年の心証を悪くするだけ。利はない。 リンの言葉にルックは少しだけ首を傾げた。視線はリンに向けられていたが、焦点は彼にない。もっと遠くに結ばれていた。 どこかぼんやりとも見える緑だったが、それは必要のない情報をすべて遮断しているためだからだろう。 無視されているに等しい状態でも、不思議と嫌な感じはしなかった。 むしろ、どうやら何か重大な失敗を犯したらしい――竜王剣を持っていないのがそれにあたるのだろうが――彼が、その局面をどう乗り切ろうとしているのかということに興味があった。不謹慎だが、わくわくした。 と、それまでの茫洋とした視線が急転、すうっと研がれたものに変化する。 何を言ってくれるのか。 リンの期待の高まりを見計らったように、ルックのくちびるが開かれた。 「じゃあ、早速、守ってもらおうかな」 意味を聞き返す暇もなく、ルックがリンの腕をつかんだ。先ほどの逆転。右手がうっすらと光を帯びていて、そこにはかつて湖の城で見た瞬きの紋章はない。代わりにあるのは見たこともない紋章。ああ、これが真の<風>か。 納得する前に彼らの視界は切り替わった。 数人の人間が取り囲む円の真ん中だった。 そして、おそらく……。 (俺が、入ることができなかった、円の宮殿) <2007.4.29>
|